第9話 留年回避必勝法
人間、いついかなるときでも自尊心を保つことが大切である。
しかしそれはときに、破らねばならない。前に進むためには自分というものを投げ捨てなければいけない。
それほどに重い選択を俺は迫られていた。
「こよ姉! 一生のお願いがあります」
「では、ここで問題です」
「は…い?」
「深江夏海くんは、これまでに何度『一生のお願い』をわたしにしてきたでしょうか?」
「えぇ?!」
いじわるだ。この人は分かっていて、こんなことを言ってきている。
まあ確かに、一生のお願いという言葉をこれまでに何度かすでに消化済みである。それはつまり、その言葉がとても軽々しく扱われてしまっている証拠に他ならない。
あくまでもありきたりな表現を使っているだけというか、なんというか。
突っ込まれても困るうちの一つだろう。
「六回?」
「え?! うっそ! そんなにお願いしてたの? なんて子なの…?」
「あの」
「そんな子に育てた覚えはありません」
こよ姉さん劇場が始まってしまったので、そっと見守るしかない。断じていつの間にか髪がすらっと伸びたなあとか、メイクがいつもと違うとか、そんなことには気がついていない。
本来であればそれらに触れたほうがいいのだろうけど、反応してしまうと話が長くなってしまって本末転倒なのだ。それだけは避けたい。
「育てられた覚えもないけど」
「うぇー? それじゃ、定期試験まえにヤマ張り手伝ってあげないよ?」
「うぇ」
「赤点回避するための対策方法も教えてあげなくていいのね?」
「ごめんなさいなんでもします許してください」
俺はコンビニの休憩室でなんて姿をしているのだろう。今店長が入ってきたら、どんなふうに誤解されるか。考えただけでもゾッとする。
「おつかれーい。二人とも元気でやってる…か?」
「あ、てんちょー! お疲れ様です」
「店長ですか! お疲れ様です!」
「…あのなぁ、こんなところでそういうことするのやめろ?」
店長は差し入れだと言って、お菓子の入った袋を置いて休憩室から出て行った。言い訳どころか状況説明さえもできないまま、俺たちは休憩室に残された。
「さっき、夏海くん自分でなんて言ったか覚えてる?」
「『一生のお願い』ですか?」
「違う。そのあと」
「えっと……。ごめんなさい、覚えてないです」
「どうしようもないわね」
そう言いながら、こよ姉さんは俺の頭をクシャクシャと髪の毛が少し乱れるくらいに乱暴に扱い始めた。俺はこれをされるたびに、なぜか胸の奥が痛くなる。こよ姉さんは無自覚だろうが、この行為は精神的なダメージがそれなりにあるものなのだ。
それがどういう理由なのかについては、さっぱり分からない。
「『なんでもする』って、そう言ったのよ」
「あ、いや、そのですね。それは言葉のあやと言いますか、なんといいますか」
「そんなことはどうでもいいのよ。それで、夏海くんの一生のお願いとやらはなんでしょうか?」
まるで俺を使って遊んでいるかのような悪い笑みを浮かべながら、こよ姉さんはそう言ってきた。
ここで誤魔化しても余計につつかれるだけなので、スパッと素直に言ってしまおう。そのほうが身のためだ。自己防衛、大事。
「留年しそうなので、助けてください」
「そのままね」
「そのままです」
彼女はほんの少しだけ、あごのあたりに手を添えてなにかを考えるようにうーんと唸っていた。あまりにわざとらしい素振りに、俺は思わず笑いそうになっていた。
だが、ここで笑ってしまえばもしかすると助けてもらえないかもしれない。それだけは避けたい。その一心で、必死に笑いをこらえていた。
コンビニでプロのバイトとして働いている彼女は、見た目とは裏腹に頭がとんでもなくいい。敬意を表して俺は一時期『頭脳系アルバイター』と呼んでいたけれど、頬を引っ叩かれてしまったのでその呼び方は封印中である。
「なんでもするのよね?」
「えっと、それは口から零れたありきたりな表現といいますか……」
「なんでもするのよね?」
「なので、できればその高圧的で怖い目をやめていただきたいと思うのですが……」
「なんでもするのよね?」
「はい、わかりました。どうぞ」
抵抗することさえ無駄だと思い知らされた俺は、黙って目の前でニヤニヤしている可愛らしいお姉さんに従うことにした。それがいい。それでいい。
「留年しないように、わたしが勉強を見てあげればいいってことよね?」
「はい。全くもってその通りです」
「それじゃ、シフトが被ってる日は見てあげる。いいかい?」
「大丈夫です。よろしくお願いいたします」
「うむ。よかろう」
そのときの俺は軽く聞き流してしまっていたのだが、これはつまりこよ姉さんの時間をもらっているということだ。なんて贅沢なことをしてもらおうとしているんだ、俺。
「どこから始める?」
「え、あの。今から始めるんですか?」
「今じゃなきゃ、いつ始めるのよ。はい、さっさと座る」
それから二時間ほど、こよ姉さんは付きっ切りで勉強を教えてくれた。コンビニの休憩室でしているので、入ってくるバイトたちが怪訝そうな顔でこちらを見ていたのは想像よりもつらかった。
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