第7話 ブラックボックス

【診察室】


 封印された記憶と言えば聞こえはいいが、決してそれは受け入れられないものだった。

 人は普通忘れることで前に進んでいく。


「あいつ、また変なこと言い始めてさ」

「変なことって、どういう?」

「空からお姉さんが降ってきた、なんて言い出すんだよ」


 そのためか、忘れることができないと後ろへと進んでいくらしい。

 他人の考えている中身を外から見る行為は不可能。質問や閉ざされた問いをかけ続けることによってある程度絞るのは可能である。だがそれはあくまでも質問者によって、答えが決まっている固定概念化されたものでしかない。

 つまるところ、記憶というのは記録ではないということである。


「なにそれ。どこかに頭でもぶつけたんじゃないの? それとも夢を見たとか」

「そうだよね。わたしもそうとしか思えないの」


 記録というのは改ざんが難しい。対して記憶というのは改ざんができない。


「それとね、女の子が迎えに来たんだって。そんなわけあるかと思ったんだけど」

「五年前なら……あり得たかもね」

「怪しいよ。だって、家族がいないんでしょ?」

「嘘……。そうだっけ」


 けれど、自分で見たものが信じられないとすればどうだろう。

 例えば、目の前に赤いボールがあるとする。それは先ほどまで自分が抱えていたもので、手をうっかり滑らせて転がせてしまった。そこへ偶然通りかかった人が「それは子どもが持ってた風船だわ」と言う。

 ボールだと思っていたものが、実は風船だった。いや、それが本当に風船かどうかはもう分からない。


「そう、あの人は身寄りがないのよ。だからあのとき困ったことが起きたの」

「困ったことって?」

「本当なら事実を伝えないといけないでしょ? でも、それができる相手がいなかったの」

「ああ……そういうことね。それなら、自覚していないの?」

「当たり前じゃない。認知の歪みってやつがあるから、ごまかして伝えられない。具体的に言わないと理解してくれないんだけどさ」

「認知の歪みって、例えばどういうことがそれにあたるのかしら」


 けれど記録は違う。

 ノートに書いたりしておけば、それを紛失されない限り残り続ける。そして、情報としてあとで見返すことも可能だ。


「代表的な部分で言えば、相手の感情が理解できないとか会話してる最中に何の気なしに言われた一言を一方的にネガティブな方向へ捉えてしまう、ってところかしら」

「感情が理解できないなんて、至極普通のことじゃないの?」

「それはそうなのだけど。度合いが違うんだよね。極端な例を出すと、明らかに悲しんでる人にどうしたんだろうと思ってしまう、みたいな感じかな」

「そういうことね」

「あとは、まったく悪気がなく相手の感情に鈍感だったり、必要以上に気を回してしまったりなんて例もある」


 でも、ノートがすり替えられていたら?

 記録したものが消されてしまっていたら?

 自分の記憶が他人に消されてしまったら?


「コミュニケーションを取るのが下手なのね」

「そうとも言える。常に自分のことが中心にあるから、他人へ目を向けることがとても難しいのよ。」

「その…迎えにきた女の子のことは、ほかになにか言ってた?」


 存在そのものを消されてしまえば、それを認知する術はあるのだろうか。

 記憶そのものが消えてしまうと、それを思い出す方法すら忘れてしまうのだろうか。


「確か……元カノだって言ってた」

「元カノって元彼女ってことだよね」

「そうだね」

「あの子、自分のことをきちんと把握してるのかしら」

「どうだろうねぇ。近頃、なんだか雲行きが怪しい」

「具合が悪くなってるの?」

「ううん、そういうことじゃなくてね。現状維持なんてのはあってないようなものだから、少しでもポジティブな方向に思考をもっていけるようにしないといけないんだ」

「逆を進んでると」

「それがどちらでもなさそうなんだ。きっと目の前すら見えていないんだと思う」


 記憶が消えてしまえば、自分を自分だと証明するものがなくなってしまう。

 自分が自分だと認識できていないのだから。

 ただ、自分と他人とのあいだに線をひきたかった。それが境目なのだとはっきりといえるなにかが、欲しかったんだ。


「それじゃ、あの子はこれからどうすればよくなるの」

「現実から逃げずに、ありのままを受け入れるところから始めないとね」

「けど、言うことを否定しちゃダメなんでしょ?」


 会いに行かないといけないんだ。

 木の上のお姉さんのことも気にはなるけれど、変な人だったし。今はひとまず、カノジョから呆れられないようにしないと。


「そうなんだ。……手遅れになる前に、手をできるだけ打っておかないと戻れなくなる」

「なにか策はあるの」

「現実との接点さえ作ることができれば、そこを通じてなんとかなるとは思う。あくまで希望的観測にすぎないけど」


 そうしないと、いけないんだ。


「まさしくあの子の考えてることを知ろうとするのは、ブラックボックスをこじ開けるのと同じようなもの。とんでもなく大変だろうね」


 忘れることのできない辛い記憶は、いったいどこへ行ってしまったのだろうか。

 今のままでいいのかな。勉強すれば東雲から嫌われることなく、無事に高校を卒業できるのか。それなら、頑張るしかない。


「……よろしくお願いします、先生」

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