第5話 女体化現象

【診察室】


「あの、先生」

「なんだい。入ってきて急に、この世の終わりみたいな顔をして」

「これはあんまりだよ。ずっと前から、きっと分かってましたよね?」


 俺は頭を抱えていた。

 余命宣告を受けてから、もうそろそろ五年。つまりそのときが着々と近づいていた。

 今年が最後、これが最後の夏なんだと思って過ごしてきた。だからこそ、あえていつも通りの日常を過ごそうと心の中で決めていた。


「…もしかして、こうなるってっていた?」

「可能性は考えたが、確率は低いはずなんだ」

「どうして言ってくれなかったんですか」

「あまりにも現実味がないからだよ。事前に言われても、どうしようもできないだろう?」

「……そりゃそうですけど」


 余命をわずかでも伸ばすため、俺がとった行動はただ一つ。それに抗う薬剤を飲み続けることだった。

 一日四錠。朝夕二錠ずつ。ピンク色の錠剤で、溶け出すと甘い味がするような薬だ。先生の言葉に従うまま、俺はそれを四年ものあいだ飲み続けた。それによる副作用がまさかの身体変化を引き起こしてしまった。


「俺は女になるんですか?」

「そういうことになるな。おそらく」

「なるな……じゃないですよ。どうにかできないんですか、これ」

「どうにもできない」

「なんでですか。男が女になれるなら、女から男に戻れてもおかしくないでしょ」


 こういう現象のことをなんとかって言ったはずだ。男が女になったり、女が男になることを独特な響きの……。

 そうだ、性転換だ。漫画や小説なんかでは触れたことはあるが、現実世界でしかも自分自身がこんなことになるとは思ってもいなかった。


「例え話をしようか」

「たとえばなし?」

「そうだ。ここに無色透明な液体が入っているコップがある。そこへあらかじめ色をつけておいた液体を入れると、どうなると思う?」

「無色透明な液体ってなんの細工もしてないですよね?」

「疑いすぎだ。もっと単純に考えてほしい」


 もっと単純…? そんなに難しく捉えなくてもいいということか。


「無色透明じゃなくなるってことですか」

「そうだね。もう少し言えば、入ってきた色に染まってしまうということだよ」

「…それと性別が変わることに、どういう関係があるんですか?」

「一度染まってしまった体は、決して戻らないんだ。どちらかへの一方通行でしかないからね」


 先生の言う『染まる』というのは、おそらく性転換のことだろう。

 たしかに現実味がない。まったく意味がわからない。そんなことがあり得ていいのか。いろいろな思考が、頭の中を駆け回っていた。それらは決して交わることなく、ぐるぐると回り続けた。


「俺は男ですよ? そんな薬のせいで女になってしまうなんて、受け入れられません」

「受け入れざるを得ない。これから先、君の身体はさらに変化を遂げていくはずだ」

「もっと女っぽくなるってことですか」

「そういうことだ」

「そんなの……あんまりだよ。女になるくらいなら、死んだほうがマシですよ先生」

「実はだね、検査中にもうあなたは死んだことになっている」

「…はい?」


 先生からふいに出た言葉で、それまで気にしていた胸の痛みやシコリ、下半身への違和感など、どうでもよくなってしまった。

 たしかに聞こえた。あなたは死んだ……と。ここでいうあなたというのは、俺のことで間違いないだろう。この部屋にいるのは、先生と俺の二人だけなのだから。


「論より証拠だ。とりあえずこれを見てくれ」


 目の前に掲げられたのは『除籍謄本』と左上に書かれた紙だった。そこに記載されていた名前は、これまで何度も嫌というほど見てきたものだった。


「深江…夏海って俺のことじゃないですか!」

「そうだが」

「なんですか死亡日って。しかも、今日の日付じゃないんですが」

「すまないが、深江夏海はすでに死んだことになっている。本来はこの世にいてはいけない状態なのだ」

「そんなの勝手すぎますよ。どういうわけか理由を教えてください」


 先生が持っていた紙を引っ張りじっと見てみた。見れば見るほど、これは俺自身の情報に間違いなさそうだ。名前と生年月日が一致しているし、出生地が不明になっているところも合っている。

 …それなら、今ここにいる自分はいったい誰なんだ?


「四年ほど投与していた薬剤は、国に承認されていないものなんだ」

「つまり?」

「実験段階だった。しかし、現代医療においてヒトを実験体とするのは倫理的に非常によろしくないことだ」

「それに反したんですね」

「未知の病に対してとれる手段が、これしかなかったんだ。誰だって、自分の担当している患者が死んでしまうのは受け入れ難い」


 心なしか、先生の肩が微かに震えているような気がした。それを見ているだけでもどんな気持ちで俺に接していたのかは、言葉にしなくても分かった。

 先生のこの姿を見るのが初めてではないからこそ、そう思えるのだろう。


「そこまでして、俺のことを助けなくてもよかったんじゃないですか? そもそも、先生が俺にそこまで感情を左右される理由が分かりません」

「……そうしなければ、きっと今頃本当の意味で深江夏海は死んでいる」

「余命を伸ばすために、薬を飲ませたんですか?」


 そう聞くと先生は静かに首を横に振り、こう返してきた。


「五年間生きられるようにしたんだ。これからもそれは変わらない。錠剤を飲むことをやめればいずれ死ぬ。その代わりに身体的な変化は大きくなっていくだろう」

「それでもずっと生きてられるわけじゃないですよね」

「そうだね」

「もう書類上死んでるってことは、結婚できるわけでもないですもんね」


 自分の戸籍がないということは、俺は社会的に認知されない。つまり、普通の生活はもう送れないということだ。結婚どころか病院に行っても保険証がないから、診療を受けれらないのか?

 いや、そこは先生に頼ることにすればいいのか。


「元々五年生きられないと思ってたってことですか」

「そういうことになる。だから、四年かけてわずかでも余命を伸ばすことに専念した」

「そんなの勝手すぎませんか」


 この感情をどこへぶつければいいのか迷っていた。自らの顔がどんどん歪んでいくのは、鏡を見なくても分かる。

 だからといって、先生が全面的に悪いということではない。なにも考えずに投薬を受け入れた自分自身に対しての怒りもあるのだ。


「もし現状を受け入れられないなら、錠剤を飲まなければ死ぬことは可能なはず」

「……それは」

「君には後悔してほしくなかった。ただそれだけなんだ。きちんと現状にケリをつけてから、君なりの人生を終わらせてほしい」

「寿命が伸びたとはいえ、あんまり時間は残ってないってことですね?」

「そうだな。ただでさえ伸ばしているのだから、当然ながら長生きはできない」


 自分の胸元にあるしこりを触りながら、俺はこれからどうするかを考えていた。けれどその前に、とても大事なことをふと思いついた。これはこれからの生活を送るにあたって、必ず付きまとってくることだ。


「先生」

「なんだ?」

「俺が女になったら、女が好きな女ってことになりますよね?」

「そうか。君は女の子が好きになる人なのか」

「はい。でも、元は男だからならないのか?」

「少なくともレズビアンとは言いづらいね。ただ、周りから見ればそういうことになるね」


 深江夏海はもうこの世にいない。だがしかし、深江夏海は二度死ぬのだ。

 余命を伸ばすために飲んでいた薬によって、俺は女の身体になり始めていた。そんなことがあり得るのかとまだ頭の中が混乱しているが、現実に起きてしまっているのでどうしようもない。

 自分の中で整理がついてから、加奈子に打ち明けてみるか。

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