第2話 空から落ちてきたお姉さん
【通学路】
「ふぁぁあ」
これでもかというくらいの大あくび。眠くて眠くて仕方がない。
数分前に食べたばかりの白飯が喉を逆流するんじゃないかと思うくらいに、俺は全力で学校へ向かっていた。
あろうことか、今日の日直は俺だった。
「しょうがない。ショートカットするか」
通っている桜ヶ丘高校には、抜け道がある。校門が閉まるのは時間の問題なので、ここは距離を短縮することで解決しようという考えだ。だが一つだけ大きな問題がある。走ることに適さない、校舎裏の丘を駆け上がらなければいけないということだ。
桜ヶ丘と名の付く通り、この高校は周りを取り囲むように桜の木が立っている。つまり、整備されていない雑草だらけの丘を登ったあとに、桜の木を上手く抜けないといけない。
熟練された技術を持ち合わせているものでなければ、勝てない。
「よし。久々だな……慎重に行こう」
【校舎裏】
ここを見つけた当初は、最短距離になるルートに歩いた痕跡が残り続けて、草が一時生えていないときもあった。けれど、最近は抜け道つかいが減っているのか草は元気に生い茂っていた。
こうなるとより厄介で、自分の勘を頼りに駆け上がるしかない。とにかく今は始業チャイムに間に合うことが最優先事項なのだ。
「ここだっ!」
全力だった。授業中は寝ているだけのくせに、わざわざ校舎裏の抜け道を使ってまで始業に間に合わせようとする俺。足にすべての神経をそそぐとともに、もっと朝早く起きればいいだろ、とツッコミを入れていた。
数十秒後。俺はミッションをクリアした。全力で登った結果、校舎の裏玄関とは反対側に来てしまったものの、隠し扉のところへ運よくたどり着いていた。朝からラッキーだ。
「あれ? 夏海くん?」
「え? 誰ですか?」
その人に向かって誰と言っているわけでなく、声のする方向へ目を向けようとしてもどこから聞こえているかが分からなかった。
「…きゃあぁ?!」
だから、空から落ちてきたお姉さんがその正体だということを予想すらできていなかった。
「いてて。夏海くん、大丈夫?」
「あの、どこの誰なのかは知りませんが、とりあえず立ってもらえませんか」
「え。あ!? ご、ごめんね…?」
俺の背中の上に密着して座っていたお姉さんが離れたのか、背中のあたりに感じていた重みが消えた。姿勢を戻して立ち上がってみると、目の前には黒いスーツ姿のお姉さんがじっと立っていた。
俺の名前を、しかも下の名前で呼ぶものだからてっきりあまり話さない知り合いかと思ったが、どうやら違うみたいだ。
いやいや、ちょっと待て。誰だこのお姉さん。
「どうして俺の名前を知ってるんですか?」
「どうしてって言われてもなあ。婚姻届持ってきたよ?」
「コンイントドケ? 結婚するんですか?」
「とぼけちゃって。二人で幸せになろうって言ってくれたやんか」
話が飛躍しすぎていて、ついていけなかった。
なぜか俺の名前を知っていて。婚姻届を持っていて。『二人で幸せになろう』と俺が言ったことにされていて。
ここだけの話、俺には彼女がいる。同じクラスにいる東雲加奈子。東雲とは同級生かつ昔からの幼馴染だったりする。付き合ってはいるものの、正直恋人同士になれているかは不安だ。
だがしかし、今はそんな話をしているわけでない。このお姉さんはいったい何者なんだ? それが気になって仕方ないのである。まったくの初対面とは思えないくらいに、俺への接触を図ってくる。
「誰かと勘違いしてませんか?」
「誰かって、誰?」
「少なくとも俺ではないですよね? 結婚するなんて約束したことはないはずだし、お姉さんとは初めて会ったはずです。そもそもお姉さんの名前を知りません」
「あたしの名前は御霊こより。未来の夏海くんとは婚約していました。いろいろと訳があって過去に来たの」
「…過去に来た?」
どうやらこのお姉さんは少々ポンコツみたいだ。初めて会った相手にそんなことを言うのは失礼かもしれない。それは分かっているが、これをポンコツと言わないでいつ言うんだ。
もし本当に未来から来たなら、こんなにすぐに正体を明かすだろうか。それも、お姉さんがいう未来の婚約者相手ならなおさら。
少なくとも、今の俺は『御霊こより』という名前の知り合いがいない。それはつまり、御霊さんの話を信じるにしても知り合っていないのだから無関係ということになる。
「結婚できるよね? そのために頑張って来たんだから」
「俺、まだ十七ですよ?」
「十七…? あれ、結婚できるのって何歳からだっけ。十八だっけ」
「そですね」
「そうしたら、あと一年後ってこと…って、あれ?」
「やっと分かりましたか? 変な宗教勧誘なら帰ってください」
最近の勧誘はかなり巧妙だな。こんなところまでやってきて、俺の名前を知っていて。かつ婚姻届の準備までバッチリなんて。もはやその用意周到さに、感動すらしていた。
だから、後ろからなにを言われようと立ち止まるつもりにはなれなかった。まだなにか言ってるよ、としか思えなかったから。たった一言、その言葉を除いて。
「加奈ちゃんはまだ元気?」
「…『加奈ちゃん』って誰のことですか?」
「誰って。東雲加奈子ちゃんだよ。今のあなたのカノジョやろ?」
「ちょっと待ってください。どこでそれを聞いたんですか? 東雲、とりあえず誰にも言わないっていってたのにな」
「いや、直接ここにいる加奈ちゃんが言ったわけじゃない」
「じゃあ誰が」
「未来のあなた」
そこで隠し扉が勢いよく開き、出てきたのはよく見覚えのある女の子の姿だった。
その姿は時間が進むごとに近づいてきて、やがて俺とお姉さんのあいだに立つようにして棒立ちになっていた。
「授業さぼって部外者といちゃついていたの? 余裕だね」
「あ、ごめんなさい。今すぐ教室へ向かいますので」
「なんちゃってね。夏海くんがなかなか教室に来ないから、探しまわっちゃった」
そう言って自分の手で顔に風を送っている東雲の額からは、小さな水滴が止まらずに流れ続けていた。今日も暑いとはいえ、まだ午前八時台。よっぽど隅々まで探してくれたんだろうな。
「それで夏海くん。ホームルームも授業もさぼって、お姉さんといちゃついていたの?」
「あのな、誤解だぞそれは」
俺たちのやり取りを見ていたお姉さんは、ただけたけたと笑っているだけだった。
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