君を弔う

しらす丼

濃紺色の空に咲く、大輪の花

 花火には死者を弔うという意味もあると知ったのは花火大会の当日の朝だった。


「ミカは今年も花火行かないんだっけ?」


「うーん。やっぱり今年は、行こうかなって思って……」


 リビングのソファに座ってぼうっとテレビを観ていた私は、顔だけお母さんに向けて答えた。


「えっ!? どういう風の吹き回し? 雨が降るわ、雨が!!」


 なんだ、そのリアクションは! と内心思うが、お母さんが驚くのも無理もないだろう。

 私はもう何年も花火大会には行っていないのだ。


「お母さんにそんなこと言われなくたってどうせ降るよ。雨予報だし。私、雨女だし。っていうかいいでしょ、別に。気が変わったの!!」


「へえ。そっか。でも、お父さんは喜ぶんじゃない? ミカと出かけられるぞーって」


「え、別で行くけど」


「お父さん、可哀想……」


 お父さんは私と違って、毎年一人でも花火大会へ行く。昔は一人ではなかったが、今は一緒に行く子がいないから仕方がないと悲しそうな顔で言っていた。


「だったら、今年はお母さんが一緒に行けばいいじゃん」


「お母さんは火の玉よりも銀の玉なのよ」


 お母さんはそう言いながら右手でパチンコのハンドルを回すような身振りをする。


 そんなお母さんを見て、私は大きなため息をついた。


 お母さんは周囲が顔をしかめたくなるほどのパチンコ中毒で、隙あらばパチンコ屋に入り浸るほどだ。今日は花火大会で客も少ないだろうし、台も選びたい放題なのだろう。


 私はこんな母親のもとに生まれてしまったことを少し恥ずかしく思う。


「はいはい、そうですか……」


 お母さんに呆れた顔を向け、私はリビングの扉に手をかけた。


「あれ、どこ行くの?」


「部屋にいる。時間になったら家を出るの。んじゃ」


「ごゆっくり」


「お母さんも無駄遣いしないようにね」


「はーい!」


「本当かなあ……」


 ため息混じりに私はリビングを出た。



 ✳︎ ✳︎ ✳︎



 今朝までの私は、花火大会には絶対に行かないつもりでいた。

 人ごみは嫌いだし、外は暑いし、それに雨が降る可能性があるからだ。


 しかし、とある伝承の存在が私の心に変化をもたらしたのである。

 そう。『花火は死者を弔う儀式』という伝承だ。


 実のところ私は、火の玉を空に打ち上げているところを見ていったい何が楽しいのだろう、と今朝の今朝まで本気で思っていた。


 正直、花火にそこまでの興味はなかったが、ふと「花火を見るとなんだか切なくなるって聞いたことがある」という話を思い出し、その現象に何か意味があるのではないかと気になったのである。


 そして心赴くままにネットで検索してみると、それは遺伝子レベルの現象であることを知り、とても興味惹かれたのだった。


 お盆も近いし、死者の弔いということであれば、花火を見る意味は十分にある。

 そう判断した私は、乗り気ではなかった花火大会への参加を決めたというわけだ。


 そして――参加を決めた理由が、実はもう一つがある。


 明日が兄の誕生日だったからだ。


 花火大会は今日なのだが、なぜ明日の兄の誕生日が重要なのか。

 それは、兄がもうこの世にはいない――社会的に言うと『死者』になっているからだった。


 兄が亡くなって、すでに十三年になる。

 しかし、私はそんな兄の死を未だに受け入れられずにいた。


 まだどこかで兄は生きていて、ずっと旅をしているから帰って来られないだけなんじゃないか。私は無意識にそう思ってしまっている。


 そろそろ受け入れなければいけないと頭ではわかっているのだが、なかなか心がついてこないのだ。


 だからこそ今回の花火を見て、兄の弔いをすると共に、私の中にあるその想いを消してしまおうと思ったのである。


 それで何かが変わる確証はなかったが、少しくらいは何かに期待してもいいのではないかと私は思った。


 だって。劇的に私の何かが変わるかもしれないから――



 ✳︎ ✳︎ ✳︎



 花火大会の開始は午後七時。近所の総合公園から見物しようと思っていた私は、少し早めの午後五時に家を出た。


 歩いてすぐの場所だが、おそらく多くの見物客がいるであろうと予想し、混雑を避けるために早めに出たのである。


「近所だから誰かに会いそうだなあ……」


 アラサー女性がぼっち花火なんて、ちょっと可哀想に映るかもしれない。


 けれど、これは自分のケジメでもあるから、恥ずかしいなどとは思ってはいられなかった。


 会場に着くと、予想以上の見物客に私は目を見張った。


 目の前にある市民病院のせいで、おそらくハッキリとは映らないであろう花火をこんなにも楽しみにしている人たちがいるのかと思うと不思議な感じがしたのだ。


 それから私は適当な草むらに座り、花火の開始時間を待った。


 午後五時四十三分。まだ開始までだいぶ時間がある。仕方がないので、電子書籍で読書を始めた。


 読んでいるのはホラー小説。外にいる分、少しひんやりしたいと思ったからかもしれない。


 そして読書に集中していたからなのか、気付けば開始一分前となっていた。


 周囲にはいつの間にか多くの立見の客で溢れている。


「座っていたら見えないか……」


 私も仕方なしに立ち上がり、空に目を遣った。


 完全に沈んでいない太陽のせいで、空はまだ白い。少しずつ青くなり始めているが、花火が映えるのはもう少し陽が落ちてからになりそうだなと思った。


 ドーンッ――遠くで破裂音が聞こえた。


「始まったー!!」


 子供がはしゃぐ声が聞こえ、私は空に咲く花を探す。


「あ……」


 遠くの空で一輪の小さな花が咲いた。


 再び聞こえてくる破裂音。そして二色に咲く一輪の花と散っていく光の粒。


「歳を取ると、綺麗に見えるもんだね」


 私は次々と開いては散っていく花々をぼんやりと見つめた。


 しばらくすると、白かった空が徐々に青く暗く染まっていき、星が瞬き始める。


 その頃には大輪の花々が濃紺色の空を綺麗に彩るように咲き誇っていた。


「昔は花火なんて見ても、何にも思わなかったのにね」


 誰にともなく、私はぽつりと呟く。


 心にあった悶々とした想いが、花々に浄化され、空に溶けていくような感覚がした。



 過去は過去でしかなく、私は今を生きている。

 兄の今はあの時に終わり、私とは違った未来を歩いているのだ。



 そんなフレーズが頭に浮かんだ。


『いつまでも立ち止まっていてはいけないよ……』


 どこからともなく兄の声が聞こえ、私は当たりを見回す。しかし、周囲には楽しそうに花火を見物する人々の姿しか認められなかった。


「気のせい、か」


 そして再び空を見上げる。


 そうだね。お兄ちゃん、私はもう大丈夫。ちゃんと前を向けるから――


 お兄ちゃんに届くようにと、私は心で伝えた。



 ✳︎ ✳︎ ✳︎



 翌日。私は兄の墓参りのために、市内の霊園を訪れていた。


 陽光が墓地全体に降り注いで視界は明るいのだが、遠くで聞こえるひぐらしの鳴き声がなんとなく哀愁を漂わせ、一人芝居の舞台に立つ役者を連想させた。


 そして、その独特な静寂の中を私は悠然と歩き進める。


 少し歩くだけで汗ばむ暑さだったが、それでも今日だけは絶対にこなければならないと使命めいたものを感じていたため、苦手な暑さも今日ばかりは気にならなかった。


「久しぶりだし、ちょっと頑張っちゃおうかな」


 どうせなら墓石の周りを掃除をしようと腕まくりをして気合いを入れるも、墓石の前に来てみればすでに両親たちが来た後だったようで、花も新しく墓石の周りも綺麗だった。


「来るなら、声かけてくれればよかったのに」


 それから私は父たちが置いていった蝋燭にライターで火を灯し、持ってきた線香に蝋燭の火を移した。そして設置されている線香立てに線香を置いてから両手を合わせ、ゆっくりと両目を閉じる。


 すると、ふと昨日見た花火が頭に浮かんだ。

 兄はあの花火で慰められただろうか。私たち生者からの弔いは届いただろうか。そんなことを思う。


 しかし、それは兄にしか分からないことだ。今の私はただ、兄に言葉を贈ろう――。


『お兄ちゃん、お誕生日おめでとう。いつも空から見守ってくれてありがとうね』


 それだけを伝えると、すっと合掌を解き、私は兄の墓石を後にした。


 花火を見てから何かが変わったような感覚はなかったが、なぜか昨日よりはすっきりとした気持ちでいるような気がしていた。


 兄はもうこの世にはおらず、永遠に帰ってくることはない。だが、兄が私の兄であったという事実までを無くさなくても良いのではないかと私は思った。


 兄の死は受け入れた。けれど、それは兄と過ごした記憶を手放すことではない。


 その記憶は夏の夜に咲く花火のように儚く一時いっときのものだけれど、それでも私の心には思い出という形で残り続けるのだ。


 老いてもなお私の心に残る、美しい思い出の花。

 それは、濃紺色の空に咲く、きれいな大輪の花と似ている。



~完~

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君を弔う しらす丼 @sirasuDON20201220

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