第30話 比奈の告白

 比奈が目を覚ますと、そこは知らない天井だった。


「比奈!」


 隣で何回も聞いた声がする。空が心配そうに手を握っていた。


「くーくん? 私……」

「倒れたって聞いたけど、どこか痛い所は無い? 休めば治るとは言われたけど」


 周りを見ると、医務室なのだろうと把握した。

 そういえば、自分は倒れたのだと思い出す。


 一人でトイレに入って、順番の列が並んでいて、人がたくさんいて、自分は今一人だと気づいて、急に怖くなって、息が苦しくなって、みんなの目に耐えられなくなって……。


 何も変わっていない。思い上がっていただけだ。

 また、大好きな人に迷惑をかけてしまった。心配させてしまった……。


「ぐすっ、ごめんなさい、くーくん」

「比奈は悪くないよ。それより大丈夫?」

「……うん。ごめんなさい」


 せっかくお金を払って来たのに時間を奪ってしまった。他の女の子と来ればもっとたくさん遊べたし面倒な思いもしなかったはず。


 せっかく少し成長した自分を見せれたのにまた元に戻ってしまった。

 いや、違うか……最初からそうだったんだ。


 魔法にかかったと思い込んでただけ。自分もみんなみたいに特別だと錯覚してただけ。まだまだ自分はただの卑屈で気弱な引きこもりなのだ。


「比奈、俺は比奈と来れて楽しかったよ。嘘じゃない」

「嘘。他の子と来たかったくせに……」


 最低なことを言っている自覚はある。

 こんな八つ当たり、みっともないと思ってる。

 それでも、自分が傷つくだけなのに止まれない。


「嘘じゃないって。なんでわかってくれないんだ。俺はこんなに心配して──っ」


 その心配が凄く嬉しい。でも、同時に辛い。

 空もそれを悟ったのか口を塞ぐ。だが比奈は深く傷ついた。

 たった一言でも被害妄想を膨らませて癇癪を起こしてしまう。

 いじめられていた過去の苦しみが思い起こされてしまった。


「比奈、そういう意味じゃないよ。心配っていうのは、比奈が変わってないってことじゃなくて……えっと、えっと……」

「うるさい!」

「……っ、ごめん……」

「ちゃんと言ってよ! お前うざいって! 付きまとうなって! ハッキリ言ってくれれば勘違いしないのに! 嘘でもいいから嫌いだって言ってよ!」


 久しぶりに叫んだ。こんな風に空に不満をぶつけるのは中学生以来だ。

 どんなに汚く罵って突き放しても、絶対見捨ててくれない。

 それが本当に鬱陶しくて偽善者ぶってて大っ嫌いで、大好きなんだ。

 今日もまた、こうやって構ってもらおうとしている。

 そんなことないって否定してくれるから。

 比奈は頑張ってるよって肯定してくれるから。

 それをわかった上で甘える自分が本当に大ッッッッッ嫌いなんだ。


「比奈、ちょっと来て」

「ぇ……? え!?」


 突然お姫様抱っこをされ、顔の温度が上昇する。

 あんなに酷いことを言った後なのにどういうことだろう。

 平常心に戻り怒りが収まるも、今度は羞恥心が押し寄せた。


「く、くーくん!? 降ろして! 何してるの!?」

「まだ時間あるから最後にもう一個乗ろう」

「な、何言って……もういいよ。私には無理だったんだよ。もうお家帰る!」

「だめ。比奈がやるって言ったんだから、俺は最後まで責任持つ」


 顔を上げると、空の真剣な顔。ずっと見ていたいはずの顔なのに、今は後ろめたくて見ることが出来なかった。


「比奈は自分をどう思ってるか知らないけどさ、俺はやっぱり比奈が大事だよ。大変なこともあったけど比奈を嫌いになんてなるわけない」

「……くーくん」

「じゃなきゃ、こんな我儘なお姫様と何年も一緒にいないって」

「……!」


 本当にずるい人だ。いつも欲しいタイミングで欲しい言葉をかけてくれる。

 比奈は顔を見られないように横にして、空の胸をドンドン叩いた。



 そうしてやってきたのは観覧車。

 ゴンドラに乗ってゆっくり地上を離れていく。


「よいしょっと……ごめんね。急に連れてきて」


 お姫様抱っこが終わってしまい、複雑な気分で隣に座る。


「ううん。乗りたかったから」

「ふふっ、よかった。外見てごらん。綺麗だよ」


 夕焼け空が綺麗で、家の中より何倍も広い世界が目に飛び込んだ。


「まだまだ高くなるよ。比奈楽しみにしてたもんね」

「ぅん……さっきはごめんなさい」

「気にしてないよ。落ち着いた?」

「うぅ……むり」


 さっきから顔が暑くて堪らない。

 まともに空の顔が見れない。だから俯いて、


「ありがとう……くーくん」

「いいって。俺が勝手にやってることだから」

「でも、私本当にだめだめだよ。今日もすぐに疲れちゃうし。倒れちゃうし。急に怒っちゃうし。泣いちゃうし。まだまだ引きこもりのままだった……」

「かもしれないね」

「……っ!」


 否定して欲しかった。

 いつもならしてくれるのに。

 もう、本当に見限られたのだろうか。

 当たり前だ。こんな地雷だらけの女、相手にするなんてお人好しが過ぎる。


「うぅ……ぐすっ、……うえええええん」


 涙が止まらない。悔しくて悔しくて。

 ぼたぼた零れる涙で顔も気分もぐしゃぐしゃになる。

 いつもなら泣くと慰めてくれるのに。

 いつもなら背中をさすって励ましてくれるのに。

 もう、嫌われてしまったのだろうか。まだ何も言えてないのに──


「比奈。顔上げて」


 もう何も聞こえなかった。聞きたくなかった。

 だからずっと下を向いたまま泣きじゃくる。

 目を擦って真っ赤に腫らす。

 でも涙は消えなくて、どんどん視界がぼやけていく。


 怖い。寂しい。


 早く家に帰って引きこもりたい。

 こんな思いをするくらいなら頑張らなくてよかった。

 周りにいる女の子たちが眩しくて眩しくて堪らない。

 自分の惨めさが嫌になる。自分の最低な考えに腹が立つ。

 ──ああ、私。なんで生きてるんだろう。



「比奈!」




 心の扉をぶっ壊したのは、やっぱり大好きな彼だった。


「ほら見て。一番高い所だよ」


 そんなのどうでもいい。今はそれどころじゃない。

 下を向いたままいると、空が無理やり顔を上げさせて窓の外を見せた。

 その瞬間、世界がひっくり返ったような衝撃を受けた。


「…………わっ!」

「どう! こんなに人間が小っちゃいよ。車も家も玩具みたいだ!」


 見えない。涙でぼやけてなんにも見えない。

 でも、万華鏡でも覗いてるみたいに綺麗な景色だということは分かった。


「ちゃんと見えてる?」


 空が比奈の顔に触れ、涙を拭った。

 だんだん視界が晴れて同じ景色を見ることが出来た。


「……きれい」

「でしょ! めっちゃ広いよね」


 そうだ。世界は広い。小さな学校の中のコミュニティですら上手く生きられなかったのに、この先大学生になって大人になるなんて無理に決まってる。


 最初から自分には無理だったんだ。


「比奈。逆だよ」

「……ぇ?」

「俺も比奈が考えてることぐらい分かる。どうせ自分なんて米粒みたいで死んじゃっても誰も気にしないとか思ってたんでしょ」

「そ、そこまでは思ってないよぉ……」

「小さくていいんだよ。学校の奴らだってゴミみたいに小っちゃい奴らなんだ。みんなゴミなんだから比奈だけが苦しむ必要ない」

「……でも、私。くーくんも、引きこもったままだって、さっき」

「心の中で引きこもってるからね。でもさ、ついこの前までの比奈だったらこの景色も見られなかったでしょ。もう引きこもりじゃないよ。比奈はこんなに変われたんだから」


 ずっと狭い部屋の中にいた。

 みんなが学校に行ってる時間も一人で部屋にいた。

 でもこれが、みんなの見ている景色。なら自分も、少しは……


「……わだし、すごい?」

「凄いよ。他のみんなも知ってる。比奈が特別だって思ってる三人も、比奈が凄いってこと認めてる。もちろん俺も、比奈は凄いって知ってる。ずっと見てきたんだから本当だ」

「ほんどにほんと?」

「ほんとにほんと。嘘じゃないことぐらい分かるでしょ」

「わがるっ、けど……信じられなくて」

「何回でも言ってあげるよ。だから自分を認めてあげて」

「……うっ、うん。……うぅ……ぐわあああああああん!」

「ふふっ、やっぱりまだ少しお子ちゃまかな?」

「ぐすんっ、くーくんのバカ、いじわるぅ……バカバカバカ」


 比奈は赤ちゃんみたいなパンチを繰り出す。笑って受け止められると、比奈はハンカチを出して涙を拭いて、もう一度空を真っすぐ見る。


「くーくん、一番言って欲しいことは言わないんだね」


 あえて直接は言わず、でも本人には通じるように言う。


「……うっ。……えっと、あの」

「こんなにくーくんのことが好きな体にさせられちゃったのに何も言わないんだ」


 もう頂上はすっかり過ぎて、どんどん地上が近づいてくる。


「こーんなに優しくしておいて責任取らないんだね」

「……比奈、あのね……」


 空は切り出しにくそうに目を泳がせる。

 そんな空を、比奈はぎゅっと抱きしめた。

 十数年分の愛を込めて、



「くーくん、大好き。ずっとずっとずーーーーーーーっと大好きだよ」



 五秒間力いっぱい抱きしめて離す。

 比奈は空の肩を持ってゴンドラの壁に押し当てた。

 顔を真っ赤にして慌てる空に顔を近づけて、


「ちゅっ──」


 頬に唇を押し当てた。

 次いで、おでこにも吸いついた。


「──ぷはっ。んぅ、ちょっとしょっぱい。汗?」


 比奈は空の前髪を撫でるように整えて微笑む。


「……比奈。これ、……あのっ」


 薄く跡が残った箇所を指で確かめながら狼狽する空。


「……比奈、嬉しいよ、好きって言ってくれて。で──」


 その先を喋ろうとした空の唇を人差し指で塞ぐ。


「言わなくていいよ。くーくんの考えなんて全部わかっちゃうから」


 精一杯笑顔を作って強がって見せる。

 でもできなくて、涙が零れた。


「あれ……だめだ。覚悟は、出来てたのにな。私、こんなに好きだったんだ……」


 失恋して、その感情の大きさに気づいた。

 自分に気持ちが向いていないことくらい、ずっと昔から知っていたはずなのに。


「比奈、ごめんね。付き合えない」

「っ。言うなって言ったのにぃぃぃぃ! バカああああ! 性格悪いよぉぉぉ!」


 知っていたはずなのに、いざ言われるとスッキリした。

 前に告白した時は言ってくれなかったから。

 こうして言ってくれたって事は、もう昔とは違うって事で。

 ついに飛び立つ日が来たってことだ。


「……くーくん。これからも、親友でいてくれる?」

「もちろんだよ。こちらこそお願いします。比奈」


 ゴンドラが終点に着くと、比奈は先に自分の足で降り立った。

 まもなく閉園のアナウンスが流れ、二人並んで親友の距離で歩く。


 比奈は失恋した。胸が痛い。苦しい。

 でも……後悔は微塵もなく、顔を上げた。

 だって嘘はなかったから。この数年は無駄じゃなかったから。

 あなたと出会えて、あなたに恋をして良かったって、胸を張って言えるから。




***




 帰り道。比奈の足取りは決して重くなく、家に着く頃には、


「今日はありがとうくーくん。楽しかったよ」

「俺も。また今度みんなで行こうか」

「うんっ。約束だよ!」


 比奈は眩しい笑顔を見せると、トートバックから紙の束を取り出して、


「あの、くーくん。これ読んでみて」

「ん? あ、『私の心にガムシロップを注いで』か!」

「い、いちいち言わないで。恥ずかしいよぉ」

「悪い。でもなんで俺に? 読んでいいの?」

「くーくんのために書いたお話だから。えっと……私の気持ちだよ?」

「そ、そっかありがとう。読んでみる」

「絶対だよ。じゃあおやすみなさい」

「おやすみ」


 こうして長い一日は終わり、比奈の新たな日々がスタートした。

 寝る準備をした空は比奈から貰った小説を手に取ってみる。

 最初は少し目を通すだけと思ってめくり始めた。

 だが気づけば止まらなくなり、明日も学校だというのに朝の四時まで夢中で読んでいた。

 最後まで読み切った時、空は──


「……すんっ、……うぅ……げほっ、……ぁああああ……!」


 原稿が破れるくらい泣いた。

 最初はよくあるラブストーリーで比奈の好きそうな話だと思っていた。

 しかし読み進めると二つのメッセージが浮かんできた。

 これは空にしかわからない。空のためだけに書いた物語。


 メインヒロインの少女はいじめを受けて引きこもり、それを主人公が助けるというストーリーだった。他にも複数ヒロインがいるのだが、空は引きこもりの少女に一番感情移入した。


 だが、この引きこもり少女は最終的に主人公と結ばれない。

 なのに前を向いて歩いて行く姿に胸を打たれた。


 ──私は大丈夫だよ。もう強いんだよ。


 比奈の声が聞こえてくるようだった。

 そしてもう一つのメッセージ。


 ──くーくんは、昔から特別だったよ。誰よりも光ってる特別だよ。


 自分をそんな風に思ったことは無かった。

 比奈を助けられなかった凡人だと思っていた。

 でもそれを、比奈が否定してくれた。

 どんな言葉より嬉しくて、言って貰いたい言葉だった。

 比奈が言うからこそ、自分も受け入れることが出来た。


 これは比奈が自分を救った英雄に、自分を好きになってもらうために書いたラブレター。

 つまり、空が空自身を認めてあげるための物語だった。


「……比奈。ありがとう」


 遠江空とおのえそらは、ようやく自分も特別であると自覚した。

 万人に受け入れられる特別じゃなくていい。

 大多数には見向きもされない人生でもいい。


 それでも、誰かの中では輝いている。

 たとえ自覚が無くても誰かが見ていてくれる。

 そんな綺麗事を、ようやく空は信じる気になった。

 いや、信じさせられた。自分の関わって来た特別な人間たちによって──


 数年後、比奈の書いた作品は映画化されて大ヒットを記録する。

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