第15話 進化の兆し
空が謎の少女とベタベタしているのを見た比奈はショックで家に引き返した。
「あら、比奈ちゃんもう帰ったの? 空くんいなかった?」
「くーくんなんて知らない!」
母に八つ当たりすると階段を駆け上がって自分の部屋に引きこもる。布団を頭までかぶって枕に顔を埋めた。
「うっ、……うっ……うっ……うぅぅぅ」
嗚咽が込み上げる。枕がみるみる濡れていく。
覚悟はできていたはずなのに受け入れることが出来なかった。自分以外に仲の良い女がいても不思議じゃない。高校生の男の子だし、こんな地雷だらけの自分にも優しいし、素敵な恋人や友達がいてもおかしくない。
でも、そんなの見たくない。知りたくない。
自分以外の女と一緒に帰って、勉強して、お菓子食べて、デートして、手を握って、抱き合って、キスをして、それから……そういう姿を想像したら吐きそうになる。
全部自分がしたかった。独り占めしたかった。
自分だけが良さに気づいていると思ったのに、自分だけが特別だと思ったのに、ただの思い上がりだった。ただただ悔しい。幼馴染の位置で胡坐をかいていた自分が憎い。
「……ずき、なのにぃ。私が、一番好きなのに……!」
泣いても泣いても心は埋まらない。こんなに泣いたのは久しぶりだ。
泣いていると昔を思い出して嫌になる。
何も変われていない自分が本当に嫌になる。
泣き虫で卑屈で地味でチビで依存したままの弱い自分が大っっっっっ嫌いだ。
「ぐすんっ……うぅ……くーくん。くーくん…………くん……んぅ…………」
泣き疲れた比奈はすやすや寝息を立て始める。そしてあの日を夢に見た。
***
中学三年の夏。
比奈がまだ引きこもりではなく学校に通っていた時代。
比奈はいじめを受けていた。大人しくて誰にでも優しい性格をしており、校内一の美少女だったことから男子からの人気は高かった。一方で女子からは疎ましく思われており、気弱な性格の比奈は好戦的な女子グループから徐々に嫌がらせを受けるようになった。
高校に行けば程度の低い人間から離れられると思い我慢をする比奈だったが、いじめっ子たちは言い返さない比奈を面白がってエスカレートした。
教師にバレない範囲で心を抉り壊す。ノートや靴を隠されたりお弁当を捨てられたり、もっと酷いこともたくさんされた。放課後は水を頭からかけられたり見えない場所に暴力を振るわれたりしたこともある。もともと根暗で友達はいなかったし、家族に心配されたくなくて誰にも相談できなかった。
幼馴染の空はクラスも違ったし、思春期真っ只中の男女では会話も特にない。
学校に行って、我慢して、家で無理に笑って、夜こっそり独りで泣く。
夜が嫌いだった。明日が来るのが怖かった。死にたいと思った。
独りで耐えて耐えて耐えて耐えて耐えて耐えて耐えて耐えて耐えて──
我慢が限界に達したある日。
空は初めて声をかけた。
「えっと、やめなよ。豊田さん嫌がってるじゃん」
空は他の人だったら見て見ぬふりをしたかもしれないが、知り合いが傷ついているのを見たら放っておけなかった。学校では話さないが家族ぐるみで親しくしている大切な存在だ。
「はぁ? うちら遊んでるだけだし。ね、豊田さん」
比奈を囲む五人が髪を掴むと、
「う、うん。わ、私、大丈夫、だよ」
「ほら本人も言ってるし。男子だってじゃれあってるでしょ。うちら友達だから」
なんでもなさそうにする比奈だが、そんな悲しそうな顔は見たことが無かった。
正義感からか幼馴染としての使命からか。中二病を患ったのかはわからないが、この時の自分は特別な存在だと空は信じていた。
だからきっと比奈も助けられると疑わなかった。
「いや、違うでしょ。先生呼ぶよ?」
「はーうっざ。陰キャのくせに調子乗んなよ。もしかして豊田さんのこと好きなの?」
「そ、そういうのじゃないけど」
中学校という閉鎖空間では誰が誰を好きかというだけでからかわれ、学校に居づらくなることがある。空も精神年齢はちゃんとした男子中学生で、その手の話題によるリスクや羞恥心を理解していた。それ故に反射で否定したというのもあるが、比奈は小さい頃から一緒だから恋愛感情とかはよくわからなくて、妹の方が近いと思っていた。
「ははっ、豊田さんフラれたー!」
「あれ、泣いてるの? そっか、豊田さんは好きだったんだ! あはは、おもしろーい」
女子たちの下卑た哄笑が比奈に降る。
「とにかく! 豊田さん嫌がってるからやめなよ」
「ぷくく、わーかったよ。もうしないって」
いじめっ子たちは面白そうにお腹を抑えながら立ち去った。
「比奈ちゃん、大丈夫?」
学校以外での呼び方をしてみる。少し恥ずかしい。
「……ぅ、うん」
「何かあったらまた言ってね。じゃあ俺部活あるから」
空はこれで救った気になった。
しかし、いじめは激化する。
空が気づいたときには比奈の心は壊れ、二度と学校に来なくなった。
比奈が不登校になってから、空は毎日比奈の部屋の前で話しかけるようになった。
「ごめんね、空くん。あの子出てきてくれなくて。何があったか話してもくれないの」
「……俺が全部悪いんです。ごめんなさい」
自分は何も特別ではなかったのだ。
思い上がって自己満足で救った気になって比奈のことを何も考えていなかった。比奈が不登校になるトリガーを引いたのも自分。自分が全部悪い。
比奈の母に頭を下げると、空は比奈の部屋の戸を叩く。
「比奈ちゃん。出てきて。もういじめてた人たちは反省してるよ。みんなも心配してる」
かける言葉がわからず借り物のような言葉を投げる。
すると中で壁を殴る音と共に、
「こないでって言ったじゃん! 誰にも会いたくない! 学校も行かない!」
泣き叫ぶ声が聞こえてくる。空が来なくても定期的に癇癪を起こして一人で暴れるのだ。自分の家にいてもたまに聞こえてくることがある。
「ごめん、比奈ちゃん。俺いろいろ気づけなくて……でも俺は敵じゃないよ」
「うるさい! 一人にしてって何回言えばわかるの! 早く出てけ!」
ドアに何か重たいものがぶつかったのを感じると、空は「また明日ね」と言って帰る。それからも会いに来るたびに怒鳴られたが、自分に出来る唯一の償いを毎日欠かさない。
「比奈ちゃん。お腹空いてるでしょ。ご飯持って来たよ」
「比奈ちゃん。流行ってる漫画持って来たからここ置いとくね」
「比奈ちゃん。今日は窓から花火が見えるよ。綺麗だから見てね」
「比奈ちゃん。涼しくなってきたから体調気をつけてね」
「比奈ちゃん。そろそろクリスマスだね。欲しいものある?」
比奈ちゃん。比奈ちゃん。比奈ちゃん。比奈ちゃん。比奈ちゃん。比奈ちゃん。比奈ちゃん。比奈ちゃん。比奈ちゃん。比奈ちゃん。比奈ちゃん。比奈ちゃん。比奈ちゃん。比奈ちゃん。比奈ちゃん。比奈ちゃん。比奈ちゃん。比奈ちゃん。比奈ちゃん。比奈ちゃん。比奈ちゃん。
毎日毎日毎日毎日勝手に会いに来る空の声は、比奈の凍った心を徐々に溶かした。
どんなに酷いことを言ってもごめんねと謝ってまた来てくれる。言い過ぎて明日は来ないかなと心配してもちゃんと翌日名前を呼んでくれる。
早く来て。まだ帰らないで。明日も来てね……。
何も信じられなくなった比奈が唯一信じられるものだった。
もう何度目か分からないある日のこと。
「また明日来るよ。じゃあね、比奈ちゃ──」
空がいつも通り帰ろうとしたところで、比奈は閉ざしていた扉をようやく開いた。
「……ろ、廊下。しゃむいから、入っても、ぃいよ」
久しぶりに人と話すから噛んだ。顔を見るのも少し怖い。
「ひ、比奈ちゃん……!」
「ほぇ!? く、くーくんなんで泣いてるの?」
「だって、比奈ちゃん最近壁も殴らないし叫ばないから生きてるのか不安で」
「しょ、しょんな野蛮な子じゃないよぉ!」
そう言って中に入れるが、改めて見るとかなり酷い部屋だ。引きちぎられたカーテンやひっくり返った本棚など何か事件があったようにしか見えない。
比奈は毛布にくるまって目だけ出すと、ベッドに座って空にも隣を促す。
「くーくん背伸びたね」
「うん。比奈ちゃんはあんまり変わって無さそうだね」
「うぅ……」
誰にも会ってないから分からないが、世間の子はみんな胸が成長しているのだろうか。
「比奈ちゃん、ごめんね。俺がもっと特別だったら比奈ちゃんを泣かせなかったのに」
「くーくんは、悪くないよ。私こそ、いっぱい酷いこと言って、ごめんなさい」
自分でも酷い荒れっぷりだったと思う。
「くーくん、どうして私に構ったの?」
同情か、可哀想だからか、幼馴染だからか。
ここまでしてくれる意味が分からない。
「んー、難しいな。どうしてだろう」
空は少し考える素振りを見せると恥ずかしそうに言った。
「大切……だからかな。他の人だったら見て見ぬふりしてたと思う」
「しょ、しょうなんだ。たいせつ……」
毛布の中でこっそり赤くなる比奈に対し、空はベッドに額を押し当てながら、
「でも本当にごめん! 俺、比奈ちゃんが苦しんでるのに救えた気になってた。あれからもあいつらは反省しないし、先生に言ってもダメだった。俺は何も出来なかったんだ……」
「そんなことない。顔上げて。くーくんは私の味方だって信じてるよ。くーくんだけいればもう他はいらない。くーくんは、私の特別だよ」
──助けを呼ばなかったのは私。それなのに毎日毎日会いに来てくれて、私のために泣いてくれて怒ってくれて……もう十分。そんなのもっと好きになっちゃうよ。
比奈は空の顔を上げさせて、毛布の中に包み込んだ。
「ちょ、比奈ちゃん!?」
真っ暗で何も見えない中、比奈は空を抱きしめて離さない。
「好き。くーくん大好きだよ。好き好き好き好き好き」
「ひ、比奈ちゃん。苦しいよ」
ぎゅーっと抱きしめて温もりを感じると安心できた。心にガムシロップを注がれるみたいに苦い思いがどんどん甘くなっていく。久しぶり過ぎて、笑うとほっぺが痛かった。
「……えっと、比奈ちゃんごめん」
それを聞いて、涙が溢れそうになるのを堪えた。
「あ、えっと、違くて。比奈ちゃんは大切だけど、俺よくわかんないんだ。比奈ちゃんをそういう目で見たことないし、大事だと思ってるけど恋愛感情かは正直まだ……」
「よかった。じゃあ好きになってもらえるように頑張るね」
涙は引っ込んだ。まだチャンスはあるということだ。
「ぁ、明日からも、会ってくれる?」
「もちろんだよ。比奈ちゃん……あれ、比奈ちゃん?」
「むぅ。だめ。比奈ちゃん禁止」
比奈はぷくっと頬を膨らませてポコポコと空の胸を叩いた。空は意味が分からないという顔をしているが、乙女の告白を振ったのだからこれくらい許してほしい。
「私は今日からただの幼馴染の比奈ちゃんじゃないよ。学校は怖いから行けないけど、何か頑張って私も自分を好きになる。特別って胸を張れるようになるね」
何年かかるか分からないけど自立して依存するのもやめて、守ってもらうだけの雛鳥から成長して自分の力で飛ぶ。そしてその時にもう一度告白する。比奈はそう決意した。
「わかった、比奈。すぐ隣で応援してる」
「うん!」
***
「……んぅ? ふわぁ~ぁ。ありぇ、寝ちゃってた」
腫れた目を擦って電気をつけると、夜中の三時だった。引きこもりの比奈は眠くなったら眠るためこの時間に活動するのも珍しくない。
立ち上がってぐっと伸びをすると、鏡の前の自分に言い聞かせる。
「負けないもん」
どんなに特別で美人で胸が大きくて優しくて料理も出来る女が相手だとして、負けるわけにはいかない。空を一番知っているのは自分。一番好きなのも自分。
ショックで逃げ出してしまったが、自分の気持ちを再確認して闘志に火が付いた。
「よしっ」
頬を叩いて気合を入れると、あいりんの動画でも見てテンションを上げようとパソコンを起動する。すると、知らないメアドからメールが届いていた。
恐る恐るクリックしてみると、なんと数か月前に投稿した小説の受賞メールだった。
比奈は引きこもっている間に空から流行りの作品を勧められ、どっぷりそちらの沼にハマっていったのだが、毎日暇すぎてついに自分でも書くようになった。
せっかく書いたし締め切りが近い賞に応募してみた結果、初めて書いた作品で受賞。業界でも大手のレーベルで、アニメ化作品も多数生み出している。自分の書いたものが受賞するなど、本当に夢でも見ているようだった。
受賞作『私の心にガムシロップを注いで』は、自分の体験を基にした恋愛小説である。幼馴染の男の子に恋をした取り柄の無い少女が男の子だけの特別になる話。
それは比奈から空に向けた、十万字を超える恋文でもある。
「あ、これ使えるかも……」
読まれるのは恥ずかしいが、自分を後押しする引き金になった。
たった一つの大きすぎる成功体験は、これまで自分を卑下していた比奈に自信を与えるのに十分な役割を果たしてくれた。
比奈は震える指でメールを返信し、高揚感に胸を躍らせた。
特別になるために、自分の翼で羽ばたきだした瞬間である。
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