あなたの恋愛を聞かせて。

まろにか

1


 曇りの日の図書室は、いつもより静かだ。


 夏休みが始まって一週間。図書室は、受験を控えた三年生や部活の合間に涼みにくる一、二年生のために、平日のみ解放されている。

 普段より利用者が少ないにも関わらず、ガラス窓を割って入ってくる陽の光がないせいか、室内がひどく閉鎖的に感じる。感情を伴っていない蛍光灯の光を浴びていると、どこか不安になるのは人間の本能だろうか。


 町田奏介まちだそうすけは、図書室の一角に作られた閲覧兼自習スペースで英文法の参考書を広げ、その上に布製のブックカバーに包まれた文庫本を置いた。このブックカバーは奏介のお気に入りで、表紙に可愛らしい子猫が刺繍されており、紐のしおりの先端には肉球を模した小さなぬいぐるみが付いている。


 奏介の他に図書室内にいる生徒は二人。まだ朝の九時過ぎだということもあるが、塾に通っている三年生は大抵塾で勉強するし、一、二年は部活やら遊びやらで忙しいのだろう。

 一人は上履きの色から一年生であることが分かり、奏介の斜め前方の閲覧スペースで最近アニメ化されたライトノベルを読んでいる。

 もう一人は奏介と同じ三年生だ。両耳にイヤホンをして数学の参考書を凝視しながら、ルーズリーフにペンを走らせている。


 いつもの三分の一ほどの生徒しかいない図書室で、奏介は文庫本を開いた。


 奏介は勉強を始める前に十分間本を読むことを習慣としている。

 図書室に着いてすぐ、蒸し暑さを体に纏った状態で忙しなく口から酸素を取り入れながら勉強を始めるよりも、少しの時間読書をすることで、心と体を落ち着かせるためだ。

 読みかけのミステリー小説の世界に足を踏み入れ、読書に没頭していると、不意にすぐ後ろから「やあ」という声が聞こえた。


「あ、雨宮あまみや……」


「そう、雨宮さんだぞぉ」


 雨宮は両手を開き、頬の横でひらひらさせておどけてみせた。それに呼応するように胸元のリボンとポニーテールが揺れる。


「なんでお前がここにいるんだよ。今日、塾の夏期講習休みなの?」


「ううん、あるよ」


「は? じゃあなんで」


「サボった」


「はあぁ!?」


「ちょっ……しー!!」


 奏介が混乱して大声を出すと、雨宮は口元に人差し指を当てて奏介を制した。雨宮が遠慮がちに目線を向けている方を見ると、奥のカウンターで司書さんが怖い顔をして奏介たちを見ていた。


「まあまあまあ、細かいことは置いといて、隣いい?」


 この図書室にある閲覧スペースはどれもファミレスにあるような4人がけの席で、授業のグループ学習なんかにも使われる。

 勿論奏介が座っているのもその席で、雨宮は向かい側でも対角側でもなくわざわざ隣に座ってきた。まだ「いいよ」とも言ってないのに。


「他の席行けばいいじゃん。今日ガラガラなんだし」


「まあまあ、小学校からの仲じゃないか」


 そう言って雨宮は鞄の中から塾の教材を取り出して、さっさと勉強を始めてしまった。

 そんな様子を見た奏介は、諦めて自分も勉強を始めることにした。まだ五分ほどしか本を読んでいなかったが、今更読書を再開する気にもなれなかった。


 ※


 時計の短針がちょうど半周した頃、奏介は机の上の勉強道具をまとめ、席を立とうとした。


「あ、もう帰る? いいよ、帰ろ」


 一緒に帰ろうと言ったわけでも、いつも一緒に帰ってるわけでもないのに、雨宮はさも当然という顔をして、自分も勉強道具を片付け始めた。

 奏介は仕方なく、リュクサックを背負ったまま、雨宮が塾の教材を鞄に仕舞い終わるのを待った。

 二人揃って階段を降り、二人揃って校門を後にした。


 先ほどから隣で雨宮が「何があったか聞いてください」と言わんばかりのあからさまな溜息をついているので、奏介は渋々口を開いた。


「……お前さ、なんで今日塾サボったの? 親にバレたら怒られるだろ。まあ、そこまで興味も無いから答えなくてもいいけど」


「ははっ、興味無いなら聞くなし」


 覇気がない声でそう言うと、一歩一歩確かに進む足元を見つめながら、雨宮は続けた。


「振られちゃったんだ。昨日。四ヶ月付き合ってた塾の先生に」


「お前、塾の先生と付き合ってたの?」


「うん。友達に言ったの、奏介が初めて」


 奏介の顔を覗き込むように、雨宮は微笑んだ。


「まあまあ上手くやってたんだよ。相手の立場もあるから、私、誰にも付き合ってること言ってなかったし、求められれば体だって差し出してたのに」


 奏介はどういう反応をするのが正解なのか分からずに、「ふーん」とか「へー」というような、汎用性以外の何ものも持ち合わせていないような、無機質な相槌を打って聞いていた。


「でもさ、私がやっていたことは所詮、ただの恋愛ごっこだったんだよね。陳腐でしょ。笑って」


「ははは」


「笑うの下手すぎ。まあ、そんなこんなで、今日は塾に行く気分じゃなかったってこと。明日からはまたちゃんと行くけどね」


「そっか」


 生憎、奏介にはこの手の話に共感する心も、異を唱える精神も持ち合わせていないのだ。


 奏介は、恋愛というものが分からない。


 人を好きになるということは、どのような感覚なのだろうか。映画や小説の中でしか味わえない、虚構のようなものに過ぎなかった。

 しかし人は皆、「恋愛」というものに固執する。

 今までも散々、「好きな人いないの?」「このクラスだったら誰がタイプ?」「ほんとはいるんだろ?」などと、まるで取り調べをしているかのように目をギラつかせた周りの人から問いただされた。

 みんなにとっては、恋愛をしていることが普通なのだ。

 昨日彼女と喧嘩しちゃって、もう別れようって言われるかもしれない……。どうしよう。と嘆いている友達に、なんて言葉をかけていいのか分からない。

 そういう時、奏介はいつも、映画や小説の中の言葉を引用した。今までに見てきた映画や小説の、同じような場面を記憶の中から掘り起こし、「傷心した友人に言葉をかけるキャラクター」になりきった。

 しかしその方法で乗り切れるのは、周囲の人に話の矛先が向いている時だけだ。

 どうしても学校という集団で生活をしていると、「好きな人誰なの?」という問いは避けて通ることができない。

 そこで奏介は、ある時からこう答えるようにした。


「同じクラスの雨宮だよ」


 と。

 そうすると周りはとても喜ぶ。

「やっぱり! 仲良いもんね!」「流石幼なじみ。いいねーそういうの。憧れるわ」「雨宮さん美人だもんなぁ」

 勿論、このことは雨宮の承諾を得ている。

 このことを雨宮に相談した時、あいつは「ハハッ、何それ。私にもついにモテ期到来?」などとはしゃいでいた。

 何故はしゃいだのかは今でも疑問だ。まあ、雨宮が変わっているやつだからだろう。


 そんなことを思い返しながら、学校の最寄り駅までの帰路を二人で歩く。

 

「天気予報ってあてにならないね」


 脈絡もなく、呼吸をするかのように雨宮は発した。


「まあ、雨が降らないって予報で降るならそう言いたくなる気持ちも分かるけど、雨が降るって予報で降らないならラッキーだろ」


「ええー。せっかく傘持ってきたのに、なんか損した気分にならない?」


「あー、まあ確かに」


「それに、今日は雨が降って欲しかったんだ」


「なんで?」


「降り注ぐ雨で私の失恋を洗い流して欲しかったから」


 両手を広げて大げさにそう言った雨宮を、僕は表情を変えずに見ていた。


「……そういうもんなの?」


「あ、今のは冗談ね。失恋したら誰でも雨に打たれたくなるってわけじゃないから」


「良かった、安心したわ。これから傘を持たずに雨の中をダッシュしてる人を見る度に、『ああ、あの人失恋したんだな』って思うとこだったわ」


「馬鹿じゃないの?」


「馬鹿ですけど?」


 お互い顔を見合わせて少し笑った。雨宮の表情が、朝図書室に現れた時よりも解れている気がして、少しだけ安心した。


「あーあ、次の恋愛どうしよっかなー。今度は同級生がいいなー」


「……恋愛って、そんなに次々とするものなの? 食事とか睡眠みたいに、生きていく上で無くてはならないものなの?」


「そうだよ……私にとってはね。でもそれは人それぞれ。だってその理論で言ったら、奏ちゃんは生きていけないじゃん」


 小学生の頃から、雨宮は奏介のことを奏ちゃんと呼ぶ。中学生の時「恥ずかしいからその呼び方やめて」と言ったら、「私のこと下の名前で呼んでくれたらいいよ」と言われたので、結局今もそのままだ。


「私はね、恋愛を恋愛で誤魔化してるの。私の本命の人が私に振り向いてくれることは多分、一生ないんだ。でもさ、好きなものは好きなんだよ。だからその気持ちを押し殺すために恋愛をするの」


「……それってさ、付き合ってる人は二番目で、一番が他にいるってことでしょ? それって俗に言う浮気ってやつじゃないの?」


 奏介は純粋な疑問を口にした。すると雨宮は、「うーんどうだろ。そう思われても仕方ないけど、私にとっては違うかな」と、絶えず交互に前進するつま先を見つめながらそう言った。


「誰かと付き合ってる時はその人が一番なの。――ていうか、その人が一番だって自分に言い聞かせる。でも、誰とも付き合ってない時、ふとした瞬間に思い浮かぶ顔が、その一番の人ってわけ。だから浮気じゃない……かな?」


 えへへーと手に持った傘を杖のように地面に叩きつけながら雨宮は笑った。

 それは雨宮の昔からの癖で、小学生の時の宿泊学習の帰り道でも、そのように傘を地面に叩きつけてコツコツと音を鳴らしていたな、と不意に思い出した。


「……ねえ奏ちゃん、奏ちゃんの好きな人って私なんだよね?」


「便宜上はな」


「じゃあ私と付き合ってみる?」


「馬鹿か」


「ははは、だよね。でも私と付き合ってみたら案外私に恋したりして」


 その言葉を聞いて、奏介の足は止まった。

 分かってる、ただの軽口だ。冗談だ。

 だけど――奏介が自身のパーソナリティについて、腹を割って話すことができた唯一の人が、雨宮だったのだ。

 奏介は、雨宮が「恋が分からないのはまだ本気で恋に落ちたことがないだけ」と言ってくる周りの人達と同じような発言をしたことに対して、ほんの僅かな悲しさを覚えた。

 修学旅行の夜の恋バナや下ネタで、一切何も共感できずにただ愛想笑いを振り撒くだけのあの時間を。

 家庭科での自分のライフプランを書いてくる宿題で、「結婚」というライフイベントをその中に書き込むことを必須とされた時の心情を。


 雨宮は分かってくれていると信じていた。


「……お前は、そんなことを言うやつじゃないと思ってた」


 奏介は冷たくそう言い放った。

 それを聞いた雨宮の顔は途端に後悔の色に染また。


「待って、違うの。そうじゃなくて……その……ごめんなさい」


 そう言って頭を下げた雨宮を見て、奏介は自分の幼稚さを悔いた。

 雨宮に自分の全てを理解してもらおうなんて虫が良すぎる。自分も雨宮のことを全く理解できていないのだから、雨宮を責めるのはお門違いだ。


「いや、こっちこそ悪かった。ただの冗談にムキになって……」


 奏介がそう言うと、雨宮は一瞬固まった後に、「うん、そう……。冗談だったんだ。でも、悪い冗談だったね。ごめん」と言って、また笑顔を取り戻した。


 そしてまた二人で並んで歩き始めた。体にまとわりつく湿気と夏の憂鬱が、毛穴から体内に入って心臓を蝕んで行くような錯覚がする。


 気まずい雰囲気のまま十秒ほど歩みを進めていると、突然隣からボンッという破裂音のようなものがして反射的に顔を向けると、雨宮が体の前で傘を開いていた。


「雨が降ってきたね。私、先帰るね。それじゃあ」


 そう言って雨宮は、傘を深くさして駅の方へと駆けていった。


 雨は降っていなかった。

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