怪談「釣りの仕掛け」

Tes🐾

第1話

 Nさんの週末の過ごし方はもっぱら釣りだ。

 朝から晩まで釣り糸を垂らし、のんびりと物思いに耽る。時折掛かる獲物とのやり取りが、また良いアクセントとなり、会社勤めの忙しい日々で溜まる鬱憤を晴らしてくれるのだそうだ。

 少し前までは東京湾に面した海浜公園などで竿を振っていたそうだが、最近とある穴場スポットに通い始めたのだという。それはとある倉庫の敷地で、目の前に湾から引かれた水路が通っており、ここにメバルやらカサゴ、クロダイなんかがよく迷い込んでくる。周りに一般開放している釣り場もないので、釣り公園のように人でごった返すこともない理想的な場所だ。

 ここを教えてくれたのは仕事で知り合ったKさんという初老の男だった。

 彼はこの倉庫の持ち主で、同じ釣り好きということもあり、知り合ってすぐに意気投合した。そして一度誘われて来てからは、週末はその倉庫で釣りをするのが習慣となっていた。


 その日も二人連れ立ち倉庫にやって来て、まだ暗いうちから水面に釣り糸を垂らしていた。

 酒を飲みながらあれこれを語らい合う中、釣果も上々で、小一時間でたくさんのメバルと大きなカレイなどが釣れた。

「今日は大漁になりそうですね」

 クーラーボックスにまた一匹収めながら話しかける。

 だが、Kさんから答えは返ってこなかった。

「…………」

 見れば薄いランタンの光に照らされた顔は硬い表情で固まっていた。つい今しがたまで楽しく喋っていた口元は引き結ばれており、視線はどこか一点を見つめて止まっている。

 その視線の先を追ってみると、海水が流れ込んでくる水路の奥、そこで水面が大きく跳ねているのが見えた。未だ辺りは薄暗くはっきりとしないが、どうも魚が跳ねているという様子ではない。

 目を凝らしてみれば、何か長細い物が二本、水中から出てきては暗い水面を打つ。そんなことを繰り返しているのが分かった。

 Nさんは直感的にそれが人であると認識したという。

「大変だ。あれ誰か溺れてますよ」

 Nさんは焦って欄干に身を乗り出そうした。

 と、それをKさんが掴んで止める。

「あれはそういうんじゃない。よく見てみな」

「え?」

 言われてNさんもう一度溺れる人影を見た。もう随分と近づいてきており、紺色の長袖ジャージみたいな服を着ているようだ。それが今もばしゃばしゃと水面を掻いては沈みを繰り返している。

 それをしばらく見て――ようやく気がついた。


 その激しく暴れるジャージには手がなかった。

 それどころか首も頭もない。


 つまり、服を着ている人自体がいなかった。ただ、ジャージの上着だけが、まるで溺れているかのように水を掻きながら流れてきていたのだ。

「助けに行くとな、引きずり込まれるんよ」

 そう言いながら、Kさんは竿のリールを巻き取り始めた。

「昔からここいらじゃ、夏近くになると時々出る。多分、疑似餌なんだろうな。大昔、俺の爺さんの頃なんかは本物の水死体を使ってたなんて聞いたことがあるが、今は水辺の安全管理が進んでずっと事故が減ったから、ああいうので代用してるんだろうな」

 そんなまさか、なんて言葉は口から出てこなかった。

 目の前をジャージが、本当に生きているかのように動きながら流れていく。

「ええと、それは……一体何が?」

「分からんけど、人じゃないだろうな」

 それから糸を巻き終えると、Kさんは今日はもう引き上げようと言った。Nさんもそれには反対しなかった。

 竿や椅子を片付け始めながら、最後にもう一度だけ水路に目をやる。

 ついさっき流れていったはずのジャージの上着は、もうどこにもなかった、という。

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