無想花


「冗談じゃねえ、偉そうにえばりくさってよ。今じゃ流行らねえ年功序列で、偉くなっただけで天狗になりやがって。このすっとこどっこいのへっぽこ野郎が。能書き垂れてんじゃねえや!」と、まあ。三人で安酒を飲み上司を肴に憤っていた日々が、風化の如く過ぎ去った。

あれから、何年経つだろうか……。

ウオーキングの準備をしながら、心内で漏らした。

土曜の朝は、何時もより早めにトレーナーに着替え、準備運動もそこそこに歩き出す。休日の日課だ。

何年続けているかって?

そうさな、西銀座支店に勤務していた頃からだから、かれこれ十六、七年になるか。結構続いているよな。自分ながらよく続くと思う。気楽なウオーキングだから可能なのかもしれんが、まあこれも、気分が乗らない時はやらんからよ。

それで、どれくらい歩くかって?

いやいや、大した距離じゃない。自宅から入間川沿いに安比奈グランドを抜け、入間川大橋までの往復七キロ程だ。早朝に二時間弱かけて歩く。日曜日は歩かない。毎週一回の割合だから、月に換算すれば四回程度だ。勿論、雨が降れば中止。これを今も続けている。

だいたい起きるのが、朝の五時頃。春から秋はこの時間歩きやすいが冬が辛い。寒くて五時では真っ暗だ。その暗い中ウオーキングに精をだす。「それなら、もっと遅く起きればいいじゃねないか」と言われるが、自分としては習慣だから変えられない。

と言うか、自由気ままに勤しんでいることであり、変えようとしないのが実情だ。その代わり、夏場はとっくに日が昇り、陽射しは少々きつめだが、暑さを避けられる利点がある。それでも歩けば、汗びっしょりとなる。

まあ、本格的な歩きをするわけじゃないので、俺にはこれぐらいがちょうどいい。無理せず続けることが肝要だろう。そんな意味からウオーキングは、休日の始まりとなる。歩いた後の爽快感が実にいい。自分の性格というかリズムというか、遅くまで寝ていられぬ性格なので、うってつけのような気がする。

いや、ちょっと待て。そんな早朝ウオーキングの話をしようとしたんじゃなかったな。どうもいかん。

止め、余計な話から戻す。

そうそう、そうだった。先週の土曜日に、何時ものように入間川大橋まで歩いて行ったんだ。大橋に着いて一息入れようと、欄干に手を掛け、川の流れに見入っていた時に、ふと昔のことを思い出してな。

まあ、週末の花金になると。よく気心知れた仲間と安酒喰らい、嘆き節のオンパレードだった。

当時のことが浮かび上がるのか、目元が緩んだ。

しかし、あの頃は。俺と杉山、それと小倉。三人で仕事が跳ねると酒屋へ直行だった。懐かしいな……。

弾む息が落ち着いたところで、米粒程の出発地点を遠目で見つつ瞬きする。早朝とはいえ三月も半ばを過ぎると、額に僅かな汗が滲みでていた。深呼吸をしタオルで拭うと、爽やかな川風が気持ちいい。そして目を移し、対岸の景色を垣間見た時、過ぎ去りし日々の出来事が浮かびきて、はてと思う。

杉山の奴、今頃何やっているかな。それと、小倉はどうだろう?

ひとしきり、離れ離れになった飲み仲間のことを懐かしむ。まるで、岸壁に立ち遠くを覗う大海鳥のように。

ついと思う。

俺は、相変わらず現職場にいるが、奴らは夫々自分らの道に進んだ。杉山はといえば、もう二年になるが、早期退職の募集があった時、手を挙げた。三人で長く勤めようと話していたのに、意に反して去って行った。本人曰く、「支店の一担当者として籍を置くのは、実際自分が就いて分かったことだが、古株が若い連中と共にやるのはやはり難しく、結局、馴染めず疎外感に耐えられなかった」と、悔やんでいた。

それに、小倉だって。結局、早期退職の募集に応じたんだ。奴は合理的な考えを持ち、俺らより若干若かったから、退職金割増率が一番高いところで、それに乗ったようだ。

それにしても、皆、よくやるよ。今頃どうしているやら。

彼らとの音信が途絶え、日々の明け暮れに澱みなく過ごしているが、時折夫々の道に別れていった頃を垣間見る。そして当時、居酒屋の片隅で安酒を飲み愚痴を溢し、互いの家族の話に花咲かせていたことが蘇えるのだ。

そしてしんみりとし、相対しない当時の杉山との会話が、胸内の世界で始まった。

「しかし、周りから仲間がいなくなるに連れ、寂しい気分になるな。昔みたいに大勢いた頃は考えもしなかったが、こうして年が替わる毎に歯が抜けるように定年を迎え、ひとりまたひとりといなくなるんだ。ところで、お前は何月だっけ?」

「ええ、何月って?」

「惚けるなって、定年を迎えるのは何時かと聞いているんだ」

「ああ、そのことか。俺は七月だ」

「そうか……」

「それで、お前は?」

「俺か、俺は三ヶ月後の十月だよ」

「ふうん……、互いにあと数年だな。でも、お前はいいよな、趣味があってよ。以前聞いたことがあったけど、陶芸とはいい趣味だ。俺なんか何もねえから、羨ましい限りだぜ」

「以前に聞いたよ。そう言えば、お前、陶芸を始めたいと言ってたがどうなった?」

「あん時そう思ったが、それっきりだ。また、いずれ機会があったら、教えてくれよ。おっと、危ねえ。授業料取るなんて言わねえだろうな」

「ああ、言わんよ。その代わり、たっぷりしごいてやるから」

「ひえっ、そんなこと言うな。やる気が失せるじゃねえか。俺は気が弱いんだ、優しく指導して貰いたいね」

「何、馬鹿なこと言っている。気が弱いだと。どの面下げて言っている。それに優しくだと。それを言うなら、授業料を払ってから注文付けて貰いてえな」

「おお、怖いこと言うぜ。授業料を払うくらいなら、お前のような唐変木に頼むか。優しい姉ちゃんにお願いするぜ」

「よく減らず口叩くよ。しかし、その性格昔から変わらんな。こりゃ、死ぬまで直らんぞ」

呆れ顔で貶すと、杉山が反省どころかむくれた。

「勝手にほざけ。この素直な性格、今更変えようなんて思っちゃいねえ。放っといてくれ!」

「そうだな。考えてみりゃ、今更変えられるわけないか。だいたい、そんな気持ち更々ないもんな。迂闊にも、忘れていたよ。分かった、それじゃ仕方ねええ、丁寧に教えてやるから安心しろ。ところで、何時の間にかこんな話に脱線しちゃったな。話を戻すか」

ひとしきり談笑したところで、上田が真顔に戻る。

「杉山、お前の卒業は七月か。まだ少し時間があるから、精々これからのことを真剣に考えろ」

「そのつもりだが。お前はどうするんだ?」

「俺か、俺はこのまま居座るつもりだが、果たして会社が認めてくれるかどうか」

「そうか、噂じゃ忌憚なく意見を言っているようだが、継続希望ならその辺気をつけろ。評価時の心証が悪くならないようにな」

「そうなんだ、それで遠慮しているつもりだよ。継続勤務を断られたらたまらんからな」

「ああ、そうだな。しかし百八十度転換するなんて、そんなこと出来るのか。あんたの性格から難しいんじゃねえか。精々頑張ってくれや」

「分かった、努力する。それと、先日人事部からアンケートがきたんで、定年後継続勤務に丸印し提出しておいた。たとえ希望聴取といえど調べられるだろうから、今後言いたいことも控えて、従順さを示そうと思う」

「おいおい、今さらそんなことしても手遅れじゃねえか。お前の素行は知れ渡っているし、上司と反りが合わねえんだろ。日頃の悪行三昧、けっちん喰らわすには、格好の材料だぜ。仮に継続となっても、今の職場じゃ無理だろうな」

「そうか、猫被っても無駄か。まあ、それなら他部署でもいい。とにかく退職出来ねえんだから」

応えて振った。

「ところで杉山、お前はどうするんだ?」

「俺か、継続勤務に決まってら。働けるだけ働いて給料貰わなきゃならんし、だいたい今の条件で、他に働き口などあるもんか」

「そうだ、これだけ会社に貢献してきたんだ。それくらいさせて貰っても、罰は当たらんよ」

何時ものように安酒を喰らい、こんな話題に始終した。そんな情景も、数年の歳月が経ち、過去の記憶の一ページとなった。

あれ以来、互いに連絡を取り合うこともなく疎遠になった。夫々の道へ進んだが故にご無沙汰となり、今だ連絡をとっていない。たまに気になり携帯電話を取るが、架けずじまいになっているのが現況だ。

しかして、俺もいよいよ卒業の年となり、後三ヶ月でこの会社を去るのか、継続勤務になるのかの時期を迎えた。希望は当時三人で話していた通りで変わりない。進路希望申請書の提出日が一週間先となっている。それは正式に退職もしくは継続勤務か、本人が選択するものだ。当然、諸々チェックされるだろが、提出後どう裁定されるかは一ヶ月もすれば分かるだろう。当然継続勤務、それも同職種、同勤務地での続投希望。慣れている仕事を望むが、叶うか気がかりだ。

さてはて、どうなることやら。

まあ、なるようにしかならんだろうが、高齢者雇用安定法の観点からは、たとえ現部署でなくても六十三歳までは勤められるはずだ。最悪を想定して、それにはこだわらない。

でも、今年の誕生月までは今の職場にいられるから、それまでは充分楽しもうと思う。但し、業務換えされなければの話だが。

それで夕食時に、この件を女房に話してみた。

「実は今日、人事部から十月以降の進路についての通知が来たんだ」と、切り出した。すると、女房曰く。

「そうなの」と、にべもない。

「まあ、今年の十月で定年だから。それで二者択一の選択を申し出ねばばならんのだが。今の職場に居られるかどうか……」

「あなたの会社で働かせて貰えるんでしょ?」

「居られることはいられる。但し、辞めると申し出なければの話だ。と言うのは、うちの会社も高齢者雇用安定法を遵守し、年金の支給開始年まで雇う義務がある」

「それじゃ、十月でくびにならないのね」

「それは大丈夫だ。……と思うよ」

「その人事からきたという書類見せてくれない?」

「いや、会社に置いてあるが」

「何で、そんな大切な書類持ってこないの。本来なら、それを見せて話すのが普通でしょ」

「うっかりした。明日にでも持ってくるから」

「分かったわ。まあ、書類はともかく、どうなの?」

「ああ、前からリタイヤするつもりはなく、六十三まで働かせて貰うつもりだけど」

告げると、女房が聞き返した。

「それで?」

「それでって、何だよ」

「だから、お給料のことよ。勤められるんでしょ。その時のお給料って、どれくらなの。まさか今まで通りじゃないわよね」

「そりゃそうさ。定年で雇用形態が正社員じゃなくなるんだ」

「何よ、正社員じゃなくなるって。それじゃ、どんな社員になるの。まさか、私と同じパートっていうわけないわよね」

「まさか、パートになんかならねえよ」

「それじゃ、何なのさ」

「再雇用されるとE嘱託という身分になる。同じ社員でも雇用形態が違い、給料がガクンと落ちる」

「どれくらいになるの?」

「そうさな、今の給料の半分ぐらいかな」

「ええっ、そんなに少なくなっちゃうの。でも仕方ないか」

「まあな。今の給料だって役職定年時と比べ四割カットだ。それに今度は五割カットになる。と言うことは、役職時の支給額と比べ三五%しかないということだ。大分少くねえな」

「それじゃ、あなたのお小遣いも、同額とはいかないわね!」

「分かっているよ。辛いところだが止む終えん、こんなに減っちまうんだからな。とほほほ……」

「しょうがないでしょ。これから何かと出費が多くなるんだし」

「まあ、十月までまだ時間がある。これからどう生活設計を立てるか、じっくり考えようじゃないか」

「そうね。それと、さっきの話じゃないけど。今の職場を希望しても、別に同じ職場じゃなくたっていいんじゃない。どんな仕事でも続けてちょうだい。もし、継続勤務が駄目なら、守衛だって何だっていいからさ」

「おいおい待てよ。くびになんかならないぜ。高齢者雇用安定法があるんだ、定年迎えるからって、そう容易く首切れないはずだ。でも、そうなったらそうなったでこだわらん。だから、その心積もりでいろよ。別の会社でも勤められればいいしな」

……過日、女房と話題にしたことを山口との酒席で告げた。

「なるほど、しっかり考えてんな。たいしたもんだ。それにお前のかみさん、そんなこと言ってたんか」

「ああ。そしたら終いには、『それじゃ、お父さん。頑張って下さいね』だってよ。

まあ、女房の言うことは別にして、人事部曰く。定年後の勤務については、最悪別の会社に勤めて貰いたいと言うのが本音だ。簡単に言えば、関連会社に派遣会社があるだろ、そこの派遣登録という選択技のことだ。それが嫌なら自分で探せとなる。これも高齢者雇用安定法の適用範囲だから通用するんだとさ。けどよ、うちの業績も厳しいしな」

「ああ、何でも。業態変革だとか、支店数を大幅に減らすとかの噂だが、これが本当なら、間違いなく大リストラが始まる。……大幅な人員削減か。となると、この時期の人減らしには、定年退職者の継続を止めることも含まれるんじゃねえか?」

「手っ取り早いからな。それは有り得る。だとすれば、俺らの継続勤務がおじゃんというわけだ」

「マジかよ……」

当事者となりうり、面を合わせ苦虫を噛み、やおら卑下した。

「うちの会社の程度ってそんなもんか。一部上場に名を連ねるが、果たしてこれで一流といえるのか。他社と比べるのは嫌だが、社員を大事にするか否かは、こういうところで決まるんだ。

第二の人生に与える影響を考えれば、培われてきた愛社精神を持ち続けるか否かということだろ。最も信頼できる、そして最大の顧客である社員という自負心を失わせる処遇を強いられ、会社都合で最悪の結末になることは、決してあってはならんことだ。

会社を去る時の処遇が、本人にとって満足のいく、いや、納得のいくものなら、それは会社にとり千人のフアンを持つことになる。が、万が一、逆であったなら。それは会社にとって生涯の敵となり、千人のアンチフアンを創ることになる。それこそマイナス要因の何物でもない。それほど伝播とは恐ろしいものだ。経営幹部はそのことをどう考えているのか……?」

帰宅後女房相手に、山口らとの雑談を肴に晩酌をしていたが、こんな風に横道に逸れてしまった。かみさんも方向違いに、不可解な顔で「どうするのよ」と遮った。「おお、そうだった」と、話を引き戻した。

「そんなこんなで、息子が今年大学に入って、これから四年間授業料だのと通算で一千万円はかかる。だから、定年を迎えても即リタイヤとはいかんのだ」

「そう言うことね」

女房が相槌を打った。

「まあ、これも。その原因が、息子が専門学校を卒業し社会人になり、今の仕事を辞めたいと言ってきた時たったな」

当時のことを振り返った。

「そこで俺は問うた。どうして辞めたいのか理由を言えと。すると息子曰く、『大学へ行き勉強したい』とな」

「そう言われたんじゃ、駄目だとは言えまい。理由が、単に仕事が嫌になったとか、つまらんと言うのではなく、勉学をやり直したいと言うんだから。紆余曲折はあったが、家族会議で最終的に再チャレンジさせることを決めた。まだやり直せる年齢だし、大学生活で幅広い見識を身に着けて貰いたいとの結論からだ」

家族四人で外食した際に、メインテーマとして取り上げ了承を得た。

「やはり大学へ行き、もっと勉強し、高度の知識を身に着けたい。特に環境問題を勉強しようと思う」

そう日った。すると、娘が懸念する。

「そんなこと言って、本当に勉強するの?」

「ああ、大学という最高権威の学舎で、いろんなことを学びたいんだ。だから、もう一度挑戦させてくれ」

そこで、女房がしゃしゃり出た。

「あなたがそこまで言うんだったら、本当に頑張るわね。それだったら応援する。お母さんは大学へは行かなかったから、どんなところか分からないけど、でも、お父さんは行ったんでしょ」

「ああ、兄弟で俺一人だけ行かせて貰った。親には感謝している。やはり高校生活とは違い、まったく異質の経験を得るところが大学だ。俺はその大切さが社会人になり痛切に感じた。だから大学で学ぶことが、後の人生に大いに役立つと確信している。まだ年も若いし、多少の回り道にはなるが支障ないと思う。

むしろここで拒否したら、本人にとって悔いの残る人生になるだろう。それでも行きたいと自力で進むのもよかろうが、親として財政的に何とかなるなら支援してやりたい。それを肝に命じてくれるなら賛成だ」

弟の会社を辞める理由が納得できず、どうせ仕事が嫌になったからとか、社会の厳しさが分かってないとか、諸々挙げ渋った娘も、結局は賛成してくれた。

それから一年間の予備校生活が始まり、それまでの放蕩生活が一変した。生活態度が百八十度変わり、日々勉強漬けになった。

余りの変わりように、女房曰く。

「人間変るものね、何がそうさせるのかしら。こんなに様変わりするなんて、夢にも思わなかったわ」

……だってよ。心内で告げ続ける。

このようになったことで、つい先日、休日恒例の早朝ウオーキングで、入間川大橋の折り返し地点で、欄干に背をもたれ片足組んで、川の流れの先にある秩父連山の山並みを遠目で覗つつ、出した結論を省みるが正しかったと思う。女房だって、同じ気持ちでいるだろう。

やはり、このことは家族にとって一大事だったし、全員の賛同が必要だった。

実を言うと。息子の大学進学については、以前彼から話があった。直ぐさま女房に相談したところ、「私も聞いている。結論は叶えてあげたい」とのことだった。俺も定年間近を考えれば、これから四年間厳しいのは分かっている。が、何とかなるだろうと、思い切って承諾した。

そんな経緯があり、家族会議に及んだわけだ。日頃の娘を見ていれば、反対することは分かっていたから家族四人揃って、「豆腐坊」で夕食を囲みながらの家族会議も、息子の出直し大学進学の全員承諾を取らんがために仕組んだものだ。

そして、今年の四月から大学に通い始めた。反対し渋々承諾した娘もこの三月に結婚し、青森県の三沢へと嫁いで行った。

最近通学時間の問題で、はたまた息子が言い出したアパート暮らしが実現すると、いよいよ女房と二人暮しが始まるのだが、まさかこんなに早く来るとは思わなかった。心の準備も出来ぬまま、少々焦り気味である。

まあ、これも人生。いずれ来るものだし、早いか遅いかの違いだけだ。それなら素直に受け入れるしかないではないか。まあそう考えなけりゃ、やってられねえわな。

自嘲気味に開き直るが、反面笑みも零れる。

『そうだよな、子供二人が我が家から巣立つんだ。寂しさはあるが楽しみもあろう。そう思わねえか?』

振られた女房が応えた。

「何時の間にか二人とも大きくなって、この家から出て行くのね。寂しい気もするけど仕方ないわ。ところで私って、青森に行ったことないの。三沢って青森のどこかしら。ねえあなた、どこいら辺んなの?」

「三沢か……。そう言えば青森へ出張した帰りに八戸まで出て、そこから東北新幹線で帰ってきたことがあった。大宮から三時間ぐらいのところで、そこから三沢へは、特急で一時間程先なんだろ。確か航空自衛隊の三沢基地があるところだ」

「へえ、八戸の先だなんて、そんなに遠いところなの。でも今度一緒に行きましょうね。娘の住んでいるところってどんなところか、是非見てみたいわ」

「ガイドブックだと、奥入瀬渓流や乙女の像がある十和田湖が三沢市から一時間程のドライブで行けるそうだ。是非とも新緑の萌える頃に、住む地に行きがてら訪れてみたいもんだな」

「そうね、五月のゴールデンウイーク辺りどうかしら。ちょうど桜前線が通過する時期だから、もう一度満開の桜を楽しめるんじゃない?」

「おおそうだ、それはいい。しかし、二度も桜を観られるとはついてるな」

「そうですね。十和田湖畔の乙女の像は写真で見たけれど、まさか実物が見られるなんて信じられないわ。これも、嫁いだおかげね」

「それに、奴の住むところも横浜だな。そこへも行かなきゃならねえ」

「そうね。青森へ行ったり、横浜へ行ったりと結構忙しいわね。でも、楽しみだわ」

「そうだな……」

そんな談笑をしつつ、晩酌の残り少なくなった焼酎のお湯割りを、一気に飲み干した。程よい酔いの中で、つい先日、定年退職後の進路について相談した時、女房がそれとなく漏らしたことを思う。

確か、「今の会社が駄目でも、どこでもいいから勤めて欲しい」と言っていたけど、これらのことがあるからだと心に止め、息子が大学を卒業するまでは、頑張ろう。

まあ、これも。俺らにとって、子供二人が巣立わけだが、また別の楽しみがあろうというもんだ。女房だって、きっとそう思っているだろうよ。今度機会があったら、それとなく尋ねてみようと思うが、何時のことになるやら……。

そう自身に言い聞かせ、あまりに気分がよかったので、この時ばかりは、もう一杯、お替りを所望する。

「ちょっとすまんが、もう一杯、お湯割り作ってくれんか」

「あら、珍しいのね。お替りするなんて。作るけれど、精々悪酔いしないように気をつけて下さいね」

「何、言ってんだ。これくらいの酒で悪酔いするか。昔はこれでも結構飲んでいたんだ。それより、早く作ってくれよ」

「はいはい、分かりました」

急かしつつ、差し出すグラスを受け取り、何やら楽しげに台所へと向う。そんな後姿を見ていると、これからの生活が厳しいとはいえ、それを生き甲斐にでもしようとしているのか、前向きに捉えているようにさえ感じた。ついと思い入る。

そうか、やはり母親だな。これから羽ばたこうとする子供らが、己のことのように感じているから、そうなるんだな。

そう背中が伝えているようだ。

そんな風に見えるかしら……?以心伝心か、女房の手が止った。

おっと、俺だって、同じかも知れねえやな……。そう思うと、よけい飲みたい気分になり急かす。

「おい、まだか!」

「はいはい、直ぐお持ちしますよ。もう少し待って下さい」

制する傍から、お盆に載せ持ってくる。

「はい、出来ましたよ。気分がいいからといって、くれぐれも飲み過ぎないようにして下さいね。また明日から仕事なんでしょ」

「ああそうだが、でも大丈夫だ。それにしても、今夜はいい気持ちだな」

溢れんばかりのグラスに口をつけ、くいっと喉に流し込む。

ううむ、本当に気分がいいや……。

赤ら顔が満面な笑みに包まれた。娘といい息子といい、夫々の道に歩んでゆく。離れれば離れたで心配ごとは尽きないが、それがまた楽しみでもあり、俺と女房にとって、大いに張り合いとなる。

まあ、とにかく。定年退職のこと、子供らのこと。どちらも前向きに考えようじゃないか。心配したところで始まらんからな。

つらつらと思いつつ、グラスを傾けた。

この時ばかりは、日頃の嘆き節など影を潜め、打ち寄せる小波の如く満ちる想いに浸る。そして家族皆の行く末が、何となく空高く翼を広げ飛翔する、大らかなアホウ鳥の生き様と重なっていた。

それから、四年近くの歳月が過ぎた。

夕食時に晩酌を嗜んでいる時に、何を思ったのか桜色の顔で口を尖らせた。

ちょいと断っておくが、アホウ鳥のように絶滅の危機に瀕し、保護されているわけではないぞ。むしろ白鳥や燕のように、たくましく生きているからよ。くれぐれも、そこは勘違いしないでくれよな。 まあ、少々強がりに聞こえるかもしれないが、そこのところを本音で言えば願望の域を脱していないかもしれない。

幾つになっても格好いいものに憧れる貧乏性が災いしているところは、やはり阿呆面した大海鳥の習性なんだな。自分の人生を振り返ってみても、そうとしか思えん。だからこれからだって、多分変わりないんじゃないか……。

徒然のままの思考がそこまで行き着くや、満足気にグラスを傾けた。が、ふと気づく。

そうだ、忘れるところだった。そう言えば、我が家の近況を伝えておかにゃならんな。

時の経つのは早いものだ。娘も今じゃ、二歳になる女の子がいるし、息子も来年の三月で大学を卒業する。長いようで、あっという間の月日だった。

俺もあの時、継続勤務にならず、定年退職後二度ほど勤務先を変えた。この不景気で就職氷河期の中、息子が就職内定の知らせを持ってきた。その時の女房といったら、息子の昼飯の仕度をしながら、涙声で「心配していたのよ。よかった、本当によかったわ」だって。 俺もつい貰い泣きだ。一泊して帰りがけ、送る車の中で、大学生活がどうだったか尋ねたところ、こう言ったよ。「価値観ががらりと変わった。過ごしてみると、四年間はあっという間だったけれど、大学で学べて本当によかった」と。そして、照れくさそうに、「親父、有り難うな」だってよ。

握るハンドルに、思わず力が入った。

その日の晩、つらつら感慨に耽り、お湯割りを美味そうに飲む仕草が、女房にどのように映っているのか。お茶を飲みつつ「これでひと安心ね……」と漏らし、俺を覗う眼差しが細くなる様を見ると、多分、同じ気持ちでいるに違いない。と思う。とはいえ、女房とて一緒に酒でも飲んで、酔い心地の中で嬉しい気分に浸りたいところだろうが、あいにく下戸なため、伝わる雰囲気だけ心行くまで味わっているようだった。


                                    完

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アホウ鳥の嘆き 高山長治 @masa5555

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