第9章 なごり
薄くなった頭髪を気にしつつ、惜しむように撫ぜながら嘆く。
「しかし、休み明けは調子が上がらんな」
幾つになっても勤める者には、月曜の朝は憂鬱なもんだ。それが、金曜日の夜になると、まるで違ってテンションが上る。月曜日とまったく逆だ。これは若者だけの特権ではなく、俺だって若き頃は歳を重ねれば、月曜日の憂鬱さなど起きないと思っていたが、自身、この歳になっても変わらない。やはり、月曜日の朝は憂鬱だ。一体、なぜかと思案するも、結局のところ、生活リズムの違いからだと思う。
まず、気持ちの持ちようが違う。これが大きい。そして休日は、起きる時間が遅いし、行動パターンがまるで違う。これだけでも異なるが、職場で気を使うことに比べ、家族と一緒に過ごす心持ちはゆったりして、大いに異なる。それに月曜が、一週間の始まりと思えば、テンションが下がる。週末の金曜日とでは大違いだ。
そんな優れぬ月曜の出社した朝、毎度のこととは言え、また朝礼で部長の戯言など聴くと思えば、一層気が重くなる。そんな始業前に、隣の同僚に話しかけた。
「内田、どうも調子が上がらんな」
「ああ、俺もだ。何年勤めても、週の出だしはかったるくてよ。特に朝礼の、訳の分からん部長の戯言があると思えば。益々気分が悪くなる」
仏頂面で愚痴った。すると、向かいの佐久間が相槌を打つ。
「俺もそうだ。しかしこんな気分は、若い奴らだって同じじゃねえか?」
すると、上田が頷いた。
「確かに年齢は関係ない。正直なところこの歳になれば、よもや起きぬと思っていたが。ところがそんなことはない。今までも昔と同じだ」
「まあ、そうだな……」
内田がテンションが上がらぬのか、パソコンに目を向けた。それで隣同士の会話が終わった。上田にしても休日のリズムが抜けず、仕事モードに乗れぬままでいた。机上のパソコンの画面に目をやりマウスで活字を追いかけていると、内線電話が鳴った。 おもむろに受話器を取った。
「もしもし……」
言いかけ、耳に響く。
「いや、上田か。先日はご苦労様……」
気だるそうな声が入ってきた。
「何だ、杉山か。何か用か……?」
これまた素っ気なく返した。
「何か用かはないだろう。とりあえず朝の挨拶代わりに、電話しただけだ」
「ああ、そうか。それは、ご丁寧に心遣い有り難うな」
杓子定規に返し問う。
「おい、杉山。こんな案配でいいか?」
「ああ、それで上等だ」
「しかし、お前。俺に電話よこしたように、小倉へも連絡してんのか。朝っぱらからよ」
「ああ、親しき仲にも礼儀ありだからな。この後、奴に架けるつもりだ」
すると、上田が切り返す。
「しかし、お前のいる支店は暇だな。月曜の朝から、こんなことやっていていいんか。あいや、待てよ。支店が暇じゃなくて、お前が暇こいているだけだな」
「ずばりその通り。そうでなければ、電話するわけねえだろ。俺みたいな長老は、月曜の朝からあくせくしないものさ。若い奴らは早朝からミーティングやっているが。まあ、俺はバックアップ役なんで、そこに入らずともよい」
「何、格好つけやがる。要は、雑用係なんだろ」
「うるせっ、大きなお世話だ!せっかく電話してやってんのに、その言い草はねえだろ。二度とコールしてやらねえからな!」
杉山がふくれた。
「あれ、怒ったのか。俺、何か気に触ること言ったか?」
素惚けた。
「当たりめえだ。まったく気分が悪いぜ。せっかく電話してやったのに。素直な気持ちで感謝できねえもんか。お前は性根が曲がっているから、親切心が分からねえんだ。無神経でしょうがねえ野郎だぜ!」
「おお、それは架けてくれた君の気持ちも考えず、ぶしつけな応対、誠に失礼した。どうぞ、機嫌を直して頂きたい。そう、心から願っております」
茶化す詫びし、更に言い訳を正当化した。
「どうだ、こんなもんで。休みモードから仕事モードに切り替えられたか。まあ、俺も人助けと思い、わざと喧嘩を売ったが。こうでもしなけりゃ、昼過ぎまで歯車が噛み合わねえで、ぐずぐずしているんだろ。それが俺の親切心で、目が覚めだわけだ。そうじゃなくても、相当錆び付いた歯車だから、油注さなきゃ動かねえよな。
そういう意味からすれば、刺激のある言葉は潤滑油みたいなもんさ。逆に感謝されてもいいくらいだぜ。杉山、そうだろう?」
「何、言ってやがる。減らず口叩いて。まったく、お前と話していると阿呆らしくなるぜ。月曜の朝っぱらから、屁理屈並べてよ」
杉山が呆れた。すると、おちょくる上田が遮った。
「おっといけねえ、つまらんところで長電話になっちまった。これから全体朝礼が始まるんで切るからな」
慌てる様子に、何時ものことと応じた。
「あいよ、分かった。それじゃな」
杉山が電話を切ると、上田が受話器を置き慌てた。
「いけね、始まっちゃったじゃねえか」
急ぎ席を立ち、皆の後へと並ぶが、すでに部長の話が始まっていた。その様を窺いつつ、心内で愚痴る。
ちえっ、何だなんだ。また、同じじゃねえか。何時も馬鹿の一つ覚えみたいに代わり映えしねえ話しやがって、何度もくっちゃべてんじゃねえよ。こちとら、聞き飽きて耳にたこが出来るぜ。それにしても、他に話すことがないんか。こんな新鮮味のない内容じゃ、聞く方も飽きるぜ。月曜の初っ端らからこれじゃ、やる気が失せるというもんだ。まったくよ。
滔々と喋る部長の訓話を聞きながら、苛立つ。
ああ、早く戻って座りてえな。何時まで喋っている。もっと簡潔に話さんか。手前だけが酔っているようじゃ、しょうがねえな。ほれ、周りを見ろ。誰も聞いちゃいねえぞ。そんな意味のない話をするから、皆がだれるんだ。いい加減早く切り上げろ……。
説得力のない講話に気持ちが弛み、幻滅する様で、上田を始め立ち並ぶ皆が渋い顔をしていた。
そんな様子など気にせず、長々と続けた。
「……しかるに、最近の景気動向から、我が社の業績を省みると、どうともし難い状況となっており、それ故、皆様方には一層の努力をお願いするばかりで、私自身反省するところで……」
部長さんよ、反省するのはいいが、反省ついでに、無意味な話は、早々に終わらせてくれねえか。
「であるからにして、我が社の業績の低迷原因は、……赫々云々」
だから何だってんだ、はっきりしろ。月曜の朝から、訳の分からん戯言聞いたって、何の得にもなりゃしねえ。それよりもっとましな話をしろや。出来ねんだったら、そんなくだらん説教話は直ぐに止めてくれ!
心の中で叫んでいた。
「……と言うことで、今日は月曜日です。皆さん、先週の不振を挽回すべく、今週も大いに頑張りましょう」
締め言葉が耳に入ってきた。
おっ、やっと終わるか。
ほっとする気持ちで、一礼しようとしたが、ぶり返えさせる。
「ところで、皆さん、コンプライアンスの件ですが、全社を挙げての最重点課題であり、一丸となって取り組まなければなりません。そこで我が部としても、全社員に範を示すべく率先して……」
うへっ、何だよ。やっと終わると思いきや、また喋り出しやがって。馬鹿野郎、いい加減にせい。もう終わりじゃねえんか。
後方から窺うと、皆の背中がそう言いたげに窺えた。と同時に、苛つくように足で床を小さく打ち鳴らしているのが耳に入ってくる。そんな状況にも係わらず、脳天気な顔で長々と喋るが、誰も聞いている者などいなかった。そして終わる頃には、始業時間がとっくに過ぎていた。やっと話し終え、立ち草臥れたのか、皆、緊張感のない渋り顔で席に戻るが、ついと不満の表情が顔に現われる。
まったく、月曜の朝から何だ。意味のねえことばかり喋り、挙句の果てに業績不振を、手前のマネージメント不足を棚に上げ、「皆さん、業績を挽回するよう大いに頑張りましょう」なんて、抜かしやがってよ。
そんなことより、立っている俺らのことも考えてくれや。己の言葉に酔って支離滅裂な訓示を垂れていてよ。そんなくだらん話は耳ざわりだけで、聞いている奴はおらんかったぞ。
胸内でぐちぐちと息巻いていた。
長朝礼が終わり席に戻った上田が、椅子にどかっと座るや疲れ顔で呆れ果てる。こんな案配で、一週間の始まりがえらく不機嫌なものとなった。すっきりせぬまま時間が過ぎた。
しかし、何で何時もこんな風になっちまうんかな。確かに週始まめは大切だが、もっと簡潔に話せねえもんか。部長の長話だけでなく、朝礼のやり方にも問題がある。これは取りも直さず、部長本人の意識改革が必要だ。そうでなけりゃ、何時までもこんな調子でやらにゃならんで。
皆が、月曜日の朝ぐらい、すっきりした気分で始められるよう工夫しろよ。それでなくても乗りが悪いんだ。誰かそこいら辺を忠告してやれや。しかし、しんどかったぜ。
昼が過ぎても気分が乗らず、ぐだぐたと仕事に就いていた。
ああ、これじゃ。長い一週間が思いやられるぜ。
落胆色の溜息が漏れた。
それでも長い一日が過ぎ、夕方近くに机上電話が鳴り、受話器を取ると小倉の声が伝わる。
「もしもし、上田か?」
「ああ、そうだ」
「小倉だけど、金曜日はご苦労さん。あん時の話し、感心したぜ。よくもまあ考えたもんだ。確かに、あの方法ならお袋孝行するのに、金がかからねえや。それで喜ばせれば、親父にも満足感を与えるという寸法だからな。まあ、親父も心配だろうが、たまに話しても、『元気か?』、『ああ、元気だ』で終わっちまうもんよ。
それに母親みたいに、あまり口に出さねえしな。それに引き替え、お袋は言葉に出すし行動にも出る。そのお袋の一喜一憂に、親父って言うのは、息子の様子を垣間見るわけだ。確かにお前が言うように、待つ悦びを早く味合わせてやることが、長期間孝行していることになるな。改めて納得したよ」
感謝を込めて礼を告げた。
「ああ、そうか。それはよかった。有り難うな……」
そう応える上田だが、小倉の感謝する言葉に、亡き母親への思いが込み上げていた。
今も、この胸の奥に刻まれている。俺を見るお袋の嬉しそうな眼差し。そして忙しく、また、どこか楽し気に夕食の仕度をする姿。それらを覗いつつ、黙って満足気に頷いていた親父。すべてが過去のものとなった。その情景は何時までも忘れない。
これでよかったのかと憂える時もあるが、再びしたくても出来ないのだ。だから、余計なことかも知れないが、機会があれば若い奴らに話してやるんだよ。それと、こうして気兼ねないお前らにもな。
受話器を耳にあて、心の内で呟いていた。
「おい、上田。どうしたんだ。急に黙りこくって」
「あいや、ついお袋のことを思い出してな」
「そうか、お前の話気に入ったぜ」
「それは有り難うな。紹介した甲斐があったよ。ところで、小倉。お前のところは、まだお袋元気だよな。是非試してみろ、きっと喜ぶぞ」
「そうだな、せっかくだ、そうしてみるよ。けれど、喜んでくれるかな?」
不安視する小倉に確信し促した。
「ああ、間違いない。母親なんてそんなもんだ。息子から何時帰るって言われれば、嬉しいし、待ちわびるものだ。お前だって、お袋からすれば何時までも息子だからな。それに子供らを連れて行け、更に喜ぶからよ」
「おお、そうだな。お前のお袋さんがそうだったんだ、俺のところだって同じだよな」
「決まってら。それに、お袋っていうのはそういうもんだ。親孝行は出来る時にした方がいい。亡くなってからでは出来んから」
「それじゃ、近いうちに子供ら誘って、女房共々行ってみるか。おっと、忘れるところだった。行く前に、いや、なるべく早く連絡しておくんだったな」
「ああ、そうだ」
しんみり口調になった。すると少し間をあけ、上田が女房の話を切りだした。
「それに最近、気づいたんだが。朝、女房が文句言いつつ、何となく楽し気に息子の弁当を作っているのを。新聞を読みつつ見ていると、女房が、『何、見てんのよ』なんて言いやがる。その時、はたと気づいたね。何時の間にか、親父と同じことやってるんだとな」
「そうかい」
「毎日の弁当作りは面倒だろうが、それが女房にとって張り合いになるし、妙に生き甲斐になっているんだな。そんな振る舞いを見ていると、お袋が俺に世話を焼いていた時のことを思い出す。そして、親父が黙って笑みを浮かべていたこともさ」
「まあ、親父ってそんなもんかも知れねえな……」
小倉が納得した。
「やっぱり、俺も親父の息子だな。結局、女房に言われているもんよ。まあ、お前も同じようにするだろうて」
同類と言いたげに上田が呟いた。すると小倉が不安視する。
「いや、俺んとこは娘二人だ。しかし娘でも、お前の言うようになるかな」
「そんなのどっちだろうと同じだ。むしろ、娘の方が母親と喋ったり、一緒に何かする機会が多いぞ。お前、その様子を覗て顔が緩んでいねえか。気づかぬうちににやっているだろ。それを娘に見られ、『お父さんって嫌ね。盗み聞きしてるんだから』って、言われてんじゃねえのか?」
「まあな。でも、何でそんなこと分かる?」
「やっぱりそうか。そうだろうと思った。息子も娘も変わりゃせん。親父というのは、女房と子供の係わりを見て安心するんだ」
「そう言えば、そうだな」
感心する小倉に、上田が結論付けた。
「そんなもんさ。親子の関係はよ」
すると、小倉が週末の話題をぶり返す。
「しかし、金曜の夜はよく飲んだな」
「ああ、俺も何時もより多かった。それによ、結構盛り上がったんで、あっという間に時間が過ぎたしな。それにしても、よく喋ったもんだ。
そんなんで、夜はぐっすり寝られたよ。最近、寝不足不足気味だったから、翌日の昼過ぎまで寝てすっきりした。お蔭様でストレス解消だ」
「そうかい、それはよかった。ところで、そういう話なら母ちゃんとしたらどうだ。今頃電話くれたのは、他に用があるからだろ?」
「おおそうだ、はて何だっけ。ええと、何を話そうとしていたんだか……。つい、夢中になり忘れちまったぜ。ええと……、何だっけ、上田?」
「おいおい、お前から電話してきたんだぞ。振られたって分かるわけねえだろう。まったく、しょうがねえな。歳とって物忘れがひどくなったんか?」
呆れ口調でからかうと、思案しつつ思い出す。
「おおそうだ、金曜日の夜、飲んでいる時に、お前から尋ねられたことだ」
「えっ、俺が尋ねたこと……?」
小倉に返され、逆に戸惑った。
「何だった、お前にな……。一体何を聞いたんだか。はて、何だっけ?」
「おい、何寝とぼけてんだ。俺に調べろと言っただろ!」
「ええと、何を頼んだっけ。あん時は、酔っていたんで。ええと、思い出せねえや……」
口ごもる様に、小倉が虚仮下ろした。
「忘れちまったのか。馬鹿野郎、お前だって、物忘れがひでえじゃねえか、人のこと言えるか。例の件だよ、年金の話だ!」
「年金……?」
思い出そうとするが、儘ならず考え込む。
「うむ……、年金ね。年金の何だっけ?」
「まだ、思い出せねえのか。いくら飲んでいたにせよ。年取ると物忘れがひどくなるというか、健忘症にでもなったんか。病院に行って、脳みその乾き具合を診て貰ったらどうだ。今しがたお前が言ったこと、俺じゃなくて、お前のことだろ。そのまま返すぜ」
「何、言いやがる。ちょっと思い出せねえだけだ。病院なんぞへ行くか。大きなお世話だ。お前だって歳食ってるくせに、俺と変わりねえだろ!」
小倉の突っ込みに、上田が減らず口を叩いていると、思い起したのか頷いた。
「おおそうだ、老齢厚生年金のことだ。六十歳から貰えるやつだ。そうだろ、小倉!」
「やっと思い出したか。そうよ、その老齢厚生年金だ。呆けてきたお前のための年金と言うことになら。けど話したところで、また忘れるんじゃねえか?」
「何を抜かす、まだそんな歳ではないわ。それでどうなんだ。もったいぶらずに教えろよ!」
「ああ、それじゃ教えてやる。本来ならば年金法改正で、俺らは六十四歳からでないと支給開始にはならない。それをお前がテレビか何かで見たんで、本当か調べてくれって言っていたことだ」
「ああ、やっと思い出したぞ。それそれ、それだよ。それでどうなんだ、本当に貰えないのか?」
「いや、そうじゃない。厚生年金の基礎年金で報酬比例は六十歳から、固定部分が六十四歳から貰えることになっている。ただ、報酬比例は事前に支給申請が必要だがな」
「なるほど。それで、老齢厚生年金との関係はどうなんだ?」
上田が更に尋ねた。
「まあ、よく聴け。今の基礎年金の報酬比例が、その老齢厚生年金だよ」
「何だ、そうだったのか。……と言うことは、六十から一部貰え、六十四にならんと満額貰えねえということだな」
「そう言うことになる」
「ふん、そうか……」
納得したようだが、生返事をした。それで、年金話もあっけなく終わり、何時もの愚痴へと進んだ。
「しかし、それにしてもよ。金曜夜の話じゃないけど、この会社どうなっちゃうのかね。どう考えたって、今の緊急事態を立て直そうと真剣に考えている役員の顔が見えんし、こう先行きが不透明だと、落ち着いて仕事してられんわな。俺らだけじゃないぜ、若い奴らは、もっと不安視してんじゃねえか?」
不安視する小倉に返した。
「確かにそうだな、同感だよ」
「なあ、どうしてもっと営業本部のお偉方に、責任を取らせないんだ。いろいろ重要課題はあろうが、まずは根幹たる営業収入が不足してはどうにもなるまい。それが低迷して上向く兆しが見えないんだぞ。
経費を切り詰めたって限度があるし、士気の低下にも繋がる。最近の事故、事件を見ていると、明らかにその兆候があるよ。俺は昔の営業しか知らんが、数字を追いかける部署だぞ。その中枢である営業本部が脱本的対策も採らず、出先の支店ばかり責めたって本末転倒じゃねえか。支店の業績が上がらんのは営本の責任だ。それを、己らの非力を棚に上げ、責任転嫁しているばかりだ。
おくがましいが、経営者はそれでいいのか。こんな状態を何時まで放置しておく。本来であれば、営業本部長に進退をかけさせ、突き進む強い意志を持たせにゃならんのに、それがまったく出来ていず野放し状態だ。支店に責任をおっ被せ、のうのうとさせているようではどうにもならん」
小倉の能書きに、上田が続いた。
「異議なしだ。営本に危機感を持たせ、支店が予算未達になれば、当たりめえのことだが本部長、推進部長の責任とし、そして更に、経営者こそ死に物狂いで、真の再生のための指導力を発揮せよと言いたいね。
それがどうだ、経営陣は。上辺だけの危機感を煽って、自ら血と汗を流そうとしない。社長なら社長のトップセールスがあろう。自ら売上貢献する外交を行い、襟を正すことが必要なんだ。今まで我らに示せる成果があったか。役員もそうだ、我々に見える行動が一つでもあったか。何もねえじゃねえか!
上辺だけ偉ぶって、そんな不断なことしているから、部長連中が死に物狂いで働かねえし、顔色窺いばかりしている。それだから、社員の間で不満と不信が充満し、無気力感が生じてるんだ!」
一挙に憤りの唾が飛んだ。
「まあ、まあ、この話題はこれまでにしよう。素面切っで話してられねえよ。まして夕方とはいえ、電話で話すことと違うぜ」
「そうだな、今度また一杯やりながら話すか」
宥める小倉に返しつつ、話題を変えた。
「それに、少し先だけど、定年のことまで考えなきゃならん。六十になったら、この会社追い出されるんだ。ついこの前まで人事担当役員は、六十五まで面倒見ると言っていたのに、経営が厳しいからと、まやかし規定を作って、一方的に追い出すように決めてしまったんだからな。
何が救済処置を用意してあるだ。単なる関連派遣会社への登録だけだろ。それで、給料が貰えるのか。詭弁としかいいようがない。
それこそ長年勤めた我らに、冷水をかけるようなもんだ。憎むことすらあるが、感謝の気持ちなど起きねえや。その恨みも一時ではなく一生もんだ。それが、俺らに対する仕打ちとして刻まれる。どれだけこの会社にマイナスになるか、よく考えろってんだ!」
一挙に息巻くと、小倉も乗ってきた。
「そうだ、まったくだ。定年になってから、年金の満額支給まで四年間、低収入になるんだぜ。その間、働かなきゃ食っていけねえ。その生きる道を、遮断しちまうんだからな。冷酷にも他で働き口探せだと。
放り出された者らは、どうやって見つければいい。人材派遣会社に登録するから大丈夫だなんて、ふざけたこと抜かすな。オファーがなけりゃ、一銭の金にもならんのだぞ。これが雇用促進策といえる代物か!」
憤懣やるかたなく吠えた。
「そんなまやかし対策を採って、後は知らぬ存ぜぬ。会社は面倒見ませんと逃げようだなんて、とんでもねえこった!」
続き上田が電話口で咆哮した。
「図体ばかりでかくなって、三流会社のようなことするんじゃねえってんだ!」
更にまくし立てるも、はっと我に返る。
「おっと、いけねえ。ここは飲み屋じゃなかった。つい興奮しちまったよ」
躊躇うと、小倉が応じた。
「ああ、お前の言うことは間違っていない。俺らはともかく、若い奴らからすれば、云わば反面教師だ。俺らの生き様を見て、自分らに置き換えている。己の将来に明るい道筋が描けるだろうか。明日に向って働けるだろうか。況や、会社のために全力でエネルギーをぶっつけるか。じっと窺っている。
そんなまやかしの中で右往左往している我らに、若者が将来に安心感を持って立ち向かえるかい?
もし俺が奴らなら、とても不安ばかりで、仕事どころではなくなるな。ましてや己のことを後回しにして、会社のために働けるか?俺はとても出来ないね。家庭を持ち、妻子がいれば尚更だ。多額の住宅ローンを抱えていれば最悪だぜ」
「まさにその通りだ。経営幹部は、このことが分かっているのか。業績が上がらん根本的な病巣がここにあることを。若い社員の士気が上がらぬことや、自分本位の行動をとるのも、実はここに本音があるからだ」
「おい、上田。そこら辺にしておけ。今日は月曜だ、今から熱くなってどうする。週末まで持たねえぞ」
「ああ、分かった。確かに俺も、閉塞感から愚痴が出たかも知れんが、まったく、分かってねえ。どいつもこいつも、己の保身しか考えねえんだから……」
憤懣やるかたないが止めた。すると、小倉がボソッと漏らした。
「まったくだ、けどやっかみかな。それにしてもそこまで考えると、憂鬱になるだけだ。それにな、まだ時間があるといっても、あっという間に定年になっちうぜ。ああ、嫌だ。歳をとるのは嫌なもんだな。つくづく若い頃が懐かしいよ。上田、そう思わねえか?」
「ああ、でもそんなこと言っても始まらん。けど、どうして俺らの言うことを聞こうとしねえんだ。……まあ、いいか。我ら、古びた歯車が口酸っぱく言ったところで、なるようにしかならねえ。小倉、こんなことなら、苛立ってもしょうがねえから、これからもっと気軽にやろうや。どうせ部長連中は、俺らの雑言なんぞ胡散臭く思っているだけだろうからよ」
「そうだな、結局、俺らだって、長期ビジョンを持つわけでもなく、勝手に憤っているだけだ。それも酒の肴にしてよ。分かった、上田もそうしろや。何時までかりかりしてねえでよ」
「まあ俺らの戯言は、錆びた歯車の愚痴にしか聞こえんかも知れんしな。苦言を呈したところで、奴らには馬耳東風だ。端なから聞く耳もたんだろうから」
諦め口調で結論付けた。そして電話口だというのに辺り構わず、首を突き出し海鳥の羽ばたきを真似た。
「でもよ。同じ鳥でも田林のように出世欲ばかり強くて、こすっからく振舞う風見鶏にだけはなりたくないな。そんなせこい羽ばたきなんぞより、翼を広げ大空を滑翔する心の広さを持ちたいもんだ。ちょっと惚けたアホウ鳥のようにな……。そういえば、前から不思議に思っていたが、やっと分かった気がするよ」
上田が急に納得した。
「えっ、何だ急にそんなこと言って。やっと分かったって、何のことだ?」
小倉が訝った。
「ああ、アホウ鳥のことさ」
「ええっ、アホウ鳥?藪から棒にどういうことだ?」
「以前飲んだ時、唐突に話して、尋ねられたことがあっただろ」
「うん?覚えちゃいねえな……」
「いいや、確かに言ったぞ。俺らとアホウ鳥には共通点があるとな。結局、あの時はそれ以上深追いしなかったが」
すると、小倉が記憶を辿った。
「そうだったか。ううん、そういえば、聞き返したような気もするが。でも、続きがなかったし、それっきりになっちまった。上田、それでどうなんだ?」
「うん、らしきものに気づいた。と言うのも、アホウ鳥や俺らは、間抜け面は似ているよな。ここのところは親譲りだから仕方ないが、突詰めてみりゃ、彼らの動きは不器用だ。結局のところ俺らも、狡賢くと言うか、器用に立ち回れねえ。愚直さばかりで、上司に媚びるような行いなどせんかった。
そうさ、俺らのサラリーマン人生は、不器用そのものだ。考えてみりゃ、そこのところが似ているんかな?」
「確かにそう言われりゃ、目ざとい出世競争とは無縁だもんな。だいいち、悪知恵働かせる暇なかったぜ。俺らもアホウ鳥か……。上田の言う通りかもな」
小倉が漏らした。
「まあ俺らも、寄り集まっちゃ安酒喰らい愚痴ばかり溢す。結局、それが憂さ晴らしのはけ口であることは否めねえ。考えてみりゃ、これじゃ人間的成長など望めん」
そこで、小島が悪態を突いた。
「お前にしちゃ、よくそこまで気づいたな。俺なんぞ、端からそう思っていたさ。ただ、お前らの程度に合わせるため口に出さなかったのさ。
それに上田、そう思うんだったら、早速過去の行いを悔い改めたらどうだ。会社勤めはもう短いが、第二の人生はこれからだぞ」
「よく言うよ。小倉、お前だって悟っった口振りだが、ただの安酒喰らいのぼんくらだろ。この阿呆!
ところで会社帰りに、何時も三人たむろし酒飲み、嘆いてばかりじゃ申し訳ねえ。これからは、会社に恩返しする気概で、仕事に励む必要があるな」
怒鳴ったところで、唐突に反省した。すると小倉も乗る。
「そうだよ、たまには若い支店長から頼られることもあろう。そん時は真剣に相談相手になってやろうかい。……しかしよ、こんな話を杉山に聞かせたら、『何だ、お前ら熱でもあるんか?』って、目ん玉丸くするぞ」
「ああ、そうかも知れんな……」
そう漏らす上田の電話口での口調が神妙に聞こえ、妙に清々しい気持ちになっていた。
すると、急に上田が告げた。
「おっといけねえ。随分、長電話になっちまった」
「ああ、結構喋っていたからな。まあ、忙しいわけじゃなし、いいんじゃねえか」
「まあな……。さあ、今日は月曜だ。先は長い、ゆっくり滑翔するか。ああ、今日は少々草臥れたから終礼がすんだら、寄り道せず帰るぞ」
「そうだな、お前も、俺も若くない。焦って羽ばたくこともあるまい。それなら、俺もそうするよ」
「それじゃな」
「ああ」
互いに電話を切った。
「さて、帰り支度でもするか。まだ週末まで大分あるんだ。ああ、何だか今日は疲れた、疲れた……」
上田が呟きつつ机上の書類を片付けだすと、ちょうどその時、業務終了を告げるチャイムが鳴り響いた。古びた歯車は早々とパソコンの電源を落とし、席を立つ。
「お先に……」
「お疲れ様でした」
背中を押すのか、労いの言葉なのか、背筋を丸め去る歯車に抑揚のない挨拶が追いかけていた。
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