第8章 幾つになろうと
酔った勢いで出た丹沢行きの計画が、五月に入りつい先日実現した。
渋沢駅に降り立った三人は、心弾ませ大倉までバスに揺られ、そこから小一時間ほど歩き二股へと来た。勿論計画通り、沢の流れで缶ビールを冷やし飲んだ。結局、年金の話は出ずじまいだったが、三人とも充分自然を満喫していた。さももあろう。小倉が年金の資料を持ってきたが、丹沢の自然が邪魔して、そんな堅い話をする雰囲気ではなかった。歳を重ねても仲間同士で、和気藹々と童心に返り騒いだ。沢の流水音や小鳥の囀り、降り注ぐ陽射しと爽やかな山風が、日頃の鬱積した澱みを解消させていた。
沢の水はあくまで冷たく、そよぐ風に心が和む。そこで上田がそそのかした。
「おい、小倉。流れに手を入れてみろ」
「ああ、そう言えば。この前お前が言っていたな。本当に一分もつけていられねえのか。そんな風に見えんが、上田の言うこと眉唾じゃねえだろうな」
小倉が疑うと、更に、
「嘘だと思うなら試してみろ。もし、一分以上つけていられたら何でも聞いてやら。その代わり駄目なら、この場で逆立ちして貰うからな」
「おお、上等じゃねえか。我慢できなかったら、逆立ちでも何でもしてやら。その代わり成功したら、お前に逆立ちして貰うぞ」
腕まくりし、勢いよく流れに手を入れた。その瞬間、口をへの字に曲げ、じっと堪えるが耐え切れず、「ぎゃおう!」と声を発し、引き上げてしまった。
「うひゃっ、何だこの冷たさ。手が痺れたぞ。とんでも我慢できねえや!」
目ん玉をひん剥き驚いていた。それを見て上田が貶した。
「ほれ、一分どころじゃねえな。三十秒も我慢出来ねえじゃねえか。さっきの空威張りはどうした?」
「いいや、すまん。見た目と違って、こんなに冷めてえとは思わなかった。予想と大違いだ。沢の水ってこんなに冷やっこいんか。これじゃ、落ちたら心臓が麻痺していちころだぜ」
「何をごちゃごちゃ抜かしてる。だから言っただろ、嘘じゃねえって!」
「ああ、これだけ冷たければ、ビールもよく冷える。天然の冷蔵庫だ」
惚けて洒落た。
「それじゃ、小倉君。約束通り、逆立ちして貰おうか」
してやったりと、上田がせっついた。
「あいや、勘弁してくれ。俺、逆立ち出来ねえんだ!」
「何だ、あれだけ豪語しておいて。しょうがねえな、それじゃ罰として冷えたビールを一気飲みして貰おうか」
「いいね。それならやるぞ」
「まったく、現金な奴だ。それじゃ、皆で乾杯するか!」
「おおっ!」
車座になり空高く掲げ、三人の掛け声と共に一気に喉の奥に流し込んだ。そして、古株らは心行くまで丹沢の自然を満喫していた。
この時ばかりは、何時もの嘆きが一つも出なかった。杉山や小倉にしても、初めての経験だったが、満足し心に染み入るものとなったようだ。
そんな試みに杉山が、得る感動に感謝する。
「いやしかし、この前はよかったな。久しぶりに大自然を堪能したよ。丹沢は新宿から意外と近いんだ。特急に乗れば、あっという間に渋沢に着き、小一時間歩いただけであんな自然を満喫できるなんて。上田、有り難う。寿命が延びたぜ。
まさか実現できるなんて思いもよらなかったし、今まで経験し得なかったことだ。こんな近くで自然を楽しめた。未知の発見に値するぐらい価値がある。特に河原で飲んだビールの味は格別だった。改めて礼を言うよ」
満足したのか、存分に喜びを表わした。
「どう致しまして、俺も暫らく振りだったんで、懐かしいと言うか、多少なりとも山の雰囲気を味わえたんでよかったよ。ところで小倉、お前はどうだった?」
上田が応じると、小倉も感謝しつつ鼻の下を長くした。
「俺も感激したぜ。焼きそばも美味かったし、なにしろ都会と違って空気が違う。それにビール、あんなに冷えるもんか。ぎんぎんだったから腸に染みたぜ。しかし、こうも違うんか。同じビールでも一味も二味もよ。
そうそう、お前が言っていた通りだ。谷川の水って、あれほど冷たいこと始めて知ったし、手だってものの一分もつけていられなかった。それよりか、あれで若い女の子でもいたら、華やかでもっとよかったんだがな」
「小倉、何贅沢言っている。若い子が来るわけねえだろ。どうしてもと言うなら、お前のかみさん連れてくりゃよかっただろ」
「杉山、気分を壊すこと言うな。淡い夢が崩れるじゃねえか。男は幾つになってもロマンを求めるんだ」
「何がロマンだ。女の子が一緒なんて言っているようじゃ、ただの助べえ爺じゃねえか。戯言いっていないで、お湯割りでもお替りしたらどうだ?」
また、三人の仲間は仕事が跳ねてから、何時の居酒屋に集まっていた。
酒の力は、いろいろな話題を尽きることなく与えてくれる。ひとしきり丹沢の話で盛り上がり、更に職場仲間の御託を並べガス抜きを図った。意識せずとも、焼酎のお湯割りを口にし、ほのかな酔い心地で自然に次の話題へと移り行く。やはり、金曜日の夜は気持ちが軽やかだ。だからこそ、話題が泉の如く湧き出す。それもほのぼのとしたものや、愛しいものへと変化するのだ。
結局、今日行き着いたのが、珍しくお袋の話だった。
男にとって、母親の存在は幾つになっても大きいものだし、拭い去れぬ支えとなっている。どれだけ偉ぶっても、母親の一言はすぐさま子供心へと変心させてしまう。そこがどこであろうとお構いなしだ。それほど尊大なものであり、抗うことの出来ない遺伝子というか。そんな、何かを植え付けられている。
上田が口を開く。
「ところで、小倉。お前のところ、両親は健在か?」
「ああ、親父は五年前に亡くなったが、お袋は元気だ。口うるさくて、ああだのこうだのと会う度に説教されるよ。まあ、最近はめったに会う機会がないけどな」
「それでお袋さん、幾つだっけ?」
「ええと、確か七十九になる。歳のわりに元気だ」
「そうか、元気ならいいな。ところでお前、今年で何歳になるんだっけ?」
「俺か?」
「ああ」
「今年で五十四だ。もう歳だよ。けれど幾つになっても、お袋が子供扱いして、『腹を冷やすな』とか、『冷たいものは多く取るな』とか言われている。それも、子供らがいる前でもお構いなしさ。それを娘が聞いて、小馬鹿にしやがる。『お父さんってマザコンね。だって、まだお婆ちゃんに甘えているんだから』とまで言われちまってよ。
そんなことあるかって、言い返すが。『何よ、それくらいのこと言われて怒るなんて、益々子供みたい』だって。まったく、親をからかうなんてとんでもねえ」
照れくさそうにほざいた。
「確かに、そうかも知れん。お袋にとって、息子は幾つになっても息子だからな。孫がいようがお構いなしに、つい口うるさく説教する。それを娘さんが見てからかうわけだ。まあ、仕方ないんじゃないか」
上田が尤もらしく頷いた。すると、直ぐに小倉が反論する。
「何を言う。子供が親をからかうなんて、もってのほかだ」
「いいや、そのことではない。母親のことだ」
「何だ、そうか。お袋のことか」
「親なんて、そうかも知れねえな。それにお袋っていうのは、何時まで経っても息子のことが気になるんだろ。いいじゃねえか。それで、お前と一緒に暮らしているのか?」
上田が杉山に振った。
「いや、違う。岐阜の実家にいる兄貴のところさ」
「そうか、そんな遠くじゃ、たまにしか行けんな」
「そうだな。年に一度か、最近は二年に一回ぐらいしか行かねえよ。子供らが小さい頃は、夏休みと正月には必ず帰ったけれど。今じゃ、子供らも行きたがらねえし、女房も子供の面倒を見なきゃならんだろ。それで俺一人で行くというのもなんだしな」
「そうだろう、俺のところだって同じだ。受験だの会社勤めだのと、更に友達との付き合いが大切になる。それにお前の奥さんと同じことを、うちのかみさんも言っているよ」
すると、小倉が尋ねた。
「ところで杉山のところは。お袋さん亡くなったんだよな?」
「ああ、ずっと寝込んでいたからな。その時はあまり気に止めなかったが、いざ亡くなると違うもんだ。改めてお袋の存在が大きくなった。親父の時と違って葬式出す時泣けたぜ。やっぱりお袋というのは、俺らに限らず男にとって特別な存在だと気づかされた。今は、尚更そう思うよ」
しみじみと語り、更に続けた。
「お袋も寝込む前は、何だかんだと心配してくれたっけ。俺の兄弟は四人で、女が三人、男が俺一人だったせいもあって、随分世話を焼いてくれた記憶がある。
小倉のところの話を聞いて、改めて考えると、やはりお袋っていうのは何時まで経っても同じだ。何につけ、頭が上がらんかったもんよ。
特に俺んところは、六十過ぎからずっと病気で寝ていたから。当時は子供も小さかったし、あまり行ってやれなかった。今思えば、もう少し会っていればと後悔している」
「いいや、杉山。そんなことない。結婚して子供がいるお前が、たまに帰って顔を見せるだけで嬉しかったに違いない。だからそれでついつい、小言を言ってしまったんじゃないか。それでいいんだ」
「そんなもんかな。ところで、上田のところはどうなっている?あっ、そうか。前に、お袋さん亡くしたんだよな」
「うん、親父が七年前、お袋が三年になるかな。この前、親父とお袋の夫々七回忌と三回忌を一緒に済ませたところだよ」
「もう、そんなになるんか」
「そうだが、つい最近のような気がしてならない。まあ、どちらかというと、親父よりお袋のことを思い出すと、何だが神妙な気持ちになってくる。寂しいというか、何かと心配してくれていたんだなと。それに実家に帰った時、帰りがけに『有り難う』って言われた言葉が、今も忘れられねえ……」
「確かに、そうかも知れん。俺なんか、親父は早くに亡くしたから面影が薄いけど、お袋は最近だから、上田と同じ気持ちになる。この何とも言えない侘びしさが胸を衝くというか、やはり男にとってお袋の存在は特別なんだ」
杉山がしみじみとなったところに、小倉が同調する。
「そりゃそうだ。俺だって同じ気持ちになるぜ。まあ、両親はまだ元気だから、会えば必ず子供も扱いだ。幾つになってもお袋からみれば子供なんだよな。
意味合いは違うが、自分の家族のことを思えば息子や娘にしたって、幾つになろうと子供だよ。本人らからみれば、子供扱いするなと抜かすが。親からみればそうはいかないんだ。そうだろ」
上田が返す。
「確かに親の立場からは、子供が大きくなるに連れ手の係り具合は違ってくるが、それでもつい口を出してしまうものさ」
何時しか話が、お袋から子供へと進んでいた。
「俺のところなんか娘二人だ。男の俺なんか、何でも爪弾きさ。家族でどこかへ行く時だけは、運転手として重宝がられるが、女房も娘たちもドライブインに寄った時、ご苦労様と歯の浮くようなことを言うけどよ。まあ、女房はともかく、娘らだってそのうち彼氏でも出来れば見向きもしなくなる」
小倉が嘆くと、杉山が己の家庭の話をし出した。
「俺のところなんか、男二人だろ。殺風景というか女の子のいる家庭のように、華やかさがまったくない。飯食う時にしろ、何にしろ。女房だけが騒いでいて、息子らなんかぶすっとしている。時々、腹が減ったとか、飲み物ないか、ぐいらい言うだけで、素っ気ないもんさ。だから余計女房が気を使い、口うるさく言うんだ」
納得気味に小倉が応えた。
「まあ、女親というのは、そんなものかもしれんな。子供らは都合のいい時は返事をするが、気乗りしない時などはぶすっとして、「うざいから放っておいてくれ」などと言いやがる。それでも構わず、『何言ってんのよ。あんたなんか、一人では何も出来ないくせに』と、こまごまと世話を焼いている」
そうだと言わんばかりに頷いた。
「ううん、それが楽しみなのかも知れんぞ。結局お袋が、俺らにするのと同じじゃねえか。な、そうだろ。昔のことを思い出すよ」
すると、頷きつつ上田が口を挟んだ。
「そうだよな。だから俺なんか、地方に赴任している頃だが、ひとひねり考え実行していたことがあたんだ」
「へえっ、何を。お袋が喜ぶようなことやっていたんか?」
小倉が興味深気に返すと、得意気に応じた。
「ああ、それはな。金を使わず、親孝行をどうやってするかということ。勿論、お袋も、親父も大喜びすることだ」
すると、軽くあしらう。
「何、金も使わずに親孝行。そんなことは簡単だ。肩を叩いたり、背中を摩ってやれば喜ぶぜ。俺なんか、たまに帰った時にやっていたよ。まあ、それもあるが、そうしょっちゅう帰れないよな。また帰ったからって、必ず肩揉みするとも限らねえ」
「ああ、確かに言う通りだ。なかなか帰れんし、必ずとも言えん」
すると、杉山が尋ね返す。
「それじゃ、何をしてやったんだ。他に親孝行の仕方でもあるんか?仮にあったとしても、今からじゃ出来ねえけれどな。どんなことかぐらいは知っても損はないわな」
小倉も同調し尋ねた。
「俺も、上田がどんな孝行をしていたか知りてえな。参考になるんだったら、今から娘らに、孝行の仕方を教えておかなきゃならんでよ」
すると杉山が貶す。
「おいおい、小倉。いくら娘だって、そんな好き勝手なこと出来ねえだろ。結婚しちゃえば、旦那の方が大事になるんだ。誰がお前におべっか使うかよ」
「いいや、そんなことねえ。手塩にかけ育てたんだ。娘に限って、そんな薄情なことはせん……」
「もし、そんなことしたら、親子の縁を切ってやる」
「何、馬鹿なこと言っている。お前も、ここが少し足りねえな」
憤る小倉に、指先で頭を示しながらからかうと、剥きになり反論した。
「いいや、そんなことはねえ。そんな身勝手なことさせてたまるもんか!」
グラスを握り、唇を噤んだ。すると、上田が諭す。
「小倉、よく考えてみろ。男にしろ女にしろ、相手が出来ればそれが一番大切になる。実際、お前だってそうだろ。結婚した当時のことを思い出してみな。女房が一番大切だったんだろ。かみさんだってそうだ、その時は、お前以外なかったはずだ」
すると、溜飲を下げ頷いた。
「まあ、確かに。そう言われれば図星だな。しかし子供というのは、薄情なもんだ。小さい時はこいつらのためにと面倒見てきたのに、大きくなっちまえば、はい、さようならかよ。つくづく嫌になる、寂しいもんだぜ」
すると、尤もらしく説く。
「特に、男親とはそんなもんさ。ところが女親は違うんだな。それに娘となると、嫁いでも、電話とかでしょっちゅう連絡し合っているし、会った時は、よくもまあ飽きずに喋っているからな」
寂しげに聞き、諦め口調で漏らす。
「まあ、いいや。俺んところじゃ、娘ばかりでなるようにしかならねえからな……。ところで上田。さっきの話はどうなったんだ?」
杉山がぶり返した。
「おお、そうだ。まあ、随分昔の話だが。金がかからず、長い間孝行出来る方法だったな」
「何、金がかからないだけではないのか?」
「ああ、そうだ。一時ではなく長い間出来るんだ。持続して親父とお袋に対してだぞ」
「ええ、それってマジかよ。金がかからんで、更に長い間出来る。それも母親だけじゃなく親父にもか。そんな都合のいい話あるんか。お前、眉唾じゃねえだろうな。もし本当だったら、是非とも聞きてえぜ!」
目ん玉を輝かせた。
「そんないい話だったら、早く聞かせろよ!」
小倉も乗ってきた。すると、自慢気に鼻を膨らませる。
「それじゃ、その極意を教えてしんぜよう」
「そんな得意調はいいから、早くしろ!」
小倉が促した。
「ああ、分かった。それじゃ話してやる」
軽く咳を一つする。
「それではどういうことか、二人とも耳の穴かっぽじいて聞けや。実は昔、独身の頃に編み出した方法だが」
「おい、随分古いな。今の時代に合わねえんじゃねえか?」
「馬鹿野郎、余計な茶々入れるな。せっかく教えてやろってんのに!」
「すまん」
「ところでどこまで話したっけ?」
「お前の独身の頃の出だしだ」
「おお、そうだった。あの頃は転勤が多かったし、実家に帰るには金がかかる。勿論、当時飯は外食で、一人暮らしも結構金がかかっていた。……そうだった、栃木県の宇都宮に赴任していた頃だな。実家に帰るといっても、月に一度か二ヶ月に一度。そのうち盆と正月ぐらいしか帰らなくなった。何時も金欠で、ひいひい言っていたからな。だから金をかけずに、何か親父やお袋が喜んでくれることはないかと考えた」
語っていると、二人とも赤ら顔で聞き入った。
「俺なんか、ろくすっぽ連絡せず、帰ることが常だった。今と違って携帯電話などなく、連絡するにも公衆電話となる。つい面倒臭いんで、だいたい帰る当日。それも上野辺りから、帰るからと連絡したものだ。億劫な時は連絡せずに帰ると、驚いてお袋なんか、「あらっ、帰ってきたの。何で前もって連絡しないの」と、小言から始まった。でも、怒るわりには、嬉しそうな顔をしながら迎えていたっけ。それでひとしきり小言を言った後、にわかに張切り飯の仕度に取りかかるんだ」
「何だ、それだけのことか」
小倉が雑言を入れると遮った。
「まあ待て、まだ続きがある。お袋が何を作るかって、何時も帰った時は同じだったよ。俺の好物料理だ。それも大量に。それで、『食え、食え』ってせっつく。それも嬉しそうにな。それであれやこれやと聞くわけだ。
一人離れて暮らす俺のことが、心配だったんだろうな。それに対し、仔細に喋べらねえからな。生返事していると、そのうち怒り出す。『まったく、心配しているのに、何よ。その返事の仕方は!』ってよ。仕方なく話しても、そんなに長く続かない、また生返事になると、不機嫌になるんだ。
終いには、『そんな返事の仕方して、まったく、私の話しを聞いているの!』と、怒り出してな。それで『聞いているよ』と返してやる。すると『何時もそうなんだから』と言いつつ、不満顔になっていた。
確かに、親元から離れていれば、母親ならずとも心配するもんだ。きちんと食事をしているか。朝寝坊せずに起きているだろうか。と心配の種が尽きないんじゃねえか。それが親というものだし、親父は何も言わんが、お袋はそうじゃねえわな。だから、たまに帰るといろいろ言い世話を焼くわけだ」
上田がそんな帰省状況を話すと、杉山が相槌を打つ。
「お袋なんて、そんなもんだ。とりあえず元気な顔を見せれば安心する。俺だって何時も帰ると、同じようにされていたっけな」
そこで、上田が得意気に喋る。
「それで俺は考えた。金がなくても親を喜ばせる方法をよ」
「あれ、まだあんのか。今の話だけじゃねえんか?」
小倉の遮りを制する
「ああ、これからが秘策のハイライトだ」
すると、小倉が語気を強めた。
「それだったら、前置きが長いんじゃねえか。いい加減、その秘策とやらを話したらどうだ!」
上田がお湯割りを口にし悪びれずに続けた。
「確かに前置きは長かったが、お袋を驚かす帰宅を繰り返していた時、はたと気づいた。お袋は元々胃が弱く、季節の変わり目などは何時も寝込んでいた。それでな、たまたま四月頃帰った時だ。俺の顔を見るなり元気になっちゃって、寝ていろと制しても、起き出して何かと世話を焼きだすんだ。具合の悪いのを忘れてな。それで、ああそうか。やっぱりお袋だなって。息子が帰ってくると嬉しくて、胃の調子もよくなり元気になるんだということをよ。
俺の場合帰ると、好物の茄子の天ぷらを沢山作ってくれた。一緒に暮らしている時は、そんなこと出来なかったよ。それがどうだ。たまに帰ると、そんなの吹っ飛んで、元気になるんだからさ。
それでどうしたかというと、帰る前に何時帰ると連絡することにしたんだ。分かるか、ここのところがポイントだぞ。小倉!」
「ええ……、帰る日を連絡するんだろ、それが何か。それと親孝行と、どう関係があるんだ……?」
「分からねえか?」
「ああ、今ひとつ理解できんな」
「そうか、それはな。俺が実行したのは、まあ、だいたい一ヶ月前ぐらいに、帰る日を連絡してやること。するとどうだ、その日から、お袋の胃の痛みが無くなり、元気に家事をするようになったらしい。やはり息子が帰ってくるのが、よほど嬉しかったんだろう。そんなことが後で分かった。『なるほど』と、その時閃いたよ。
それにお袋は難聴で、日頃電話で話しが出来ないから尚更だったと思う。そうさ、一ヶ月前から何時帰ると分かれば、それは待つ喜びを持てるわけだから。カレンダーの該当日に名前を記入してな。その間、嬉しくて指折り数え待つ。そりゃ、お袋の家事も弾むわけだよ」
喜ぶ様を思い浮かべた。
「帰ってきたら、好きなものを食べさせたいと考えるだけで、何やら胸膨らみ、それが行動に出るわけだ。すると、その嬉しそうに立ち振る舞う様を、親父が見て満足するわけだ。
それで俺は、この方法を何度も実行したよ。まあ、それから前もって連絡しろとは言われなくなったし、逆に一ヶ月前に連絡しても早過ぎるとは言わない。けれど、飯はきちんと食っているかとか、具合の悪いところはないか。と心配事は相変わらず言われていた。まあそんなんで、俺自身、親の喜ぶ姿を垣間見ていたわけだ。小倉、分かったか。親孝行の秘訣をよ」
「なるほどな、そういうことか。それなら一ヶ月間、金もかからず孝行が出来るわけだ。俺なんぞ、今まで気づかなかったし、むしろ独身の頃は一緒に住んでいたからな……」
そこで、はたと気づき口を尖らせた。
「おお、上田。もっと早く教えてくれればよかったのに。結婚して所帯が別になり女房を連れて帰る時に利用できたのによ!」
「おいおい、今さらそんなこと言われたってしょうがねえぜ。それで俺は、当時若い奴らに話してやった。実行したかは定かでないが、親元から離れて一人暮らしの奴らに、金のかからぬ親孝行としてな。絶対、お袋が喜ぶからと言ってよ。何時も感心していたぞ。どうだ、いい方法だろ!」
「うむ、合理的で親の心理を巧みに取り込んだ方法だ。上田、やっぱりお前は大したもんだ。時間と金の有効的、かつ、効果大の優れた策だ。いいんじゃねえか!」
杉山が大袈裟に褒めちぎった。すると照れる。
「おいおい、杉山。そこまで言われると、歯が痒くなるぞ。それまでにしておけ。お前だって親孝行していたんだろ?」
「いや、俺なんか。平凡なことしかやってこなかったな。お袋は花好きだったんで、よく買って帰った。でも、それくらいだ。結婚してからは、ほとんどやらなかったし、たまに子供を連れて行くらいだったな」
そして、自身満足気に打ち明けた。
「まあ、お袋からすれば孫だ。子供らの顔を見て喜んでくれたと思う。娘が『おばあちゃん大好き!』と慕うと、孫を見る目といい、笑顔といいな」
思わず回想していた。すると、小倉も頷く。
「俺もよく子供らを連れて行った。小さい時はお婆ちゃん、お爺ちゃんと言って懐いていたことを思い出す。その時の嬉しそうな顔。今も覚えているよ。懐かしいな……」
目を細めた。
「そうか、それはよかった」
理解して貰えたことに感謝した。
「ただ昔のことだ。今そんなことしなくても、と思われるかもしれんが、親の子供を思う気持ちは、何時になっても変わりない。親にとって子供らが何処にいようと知らしめることで、安心するし嬉しいことだ。お袋なんてそんなもんだし、親父は何も言わなくても、お袋の喜ぶ姿を見れば、それで伝わるんだろうよ。俺は、そう思 う」
確信するように結論づけた。
「おお、同感だ!」
杉山も小倉も賛同する。そんな時、店内の賑わしさが一段と大きくなったように思えた。胸に響くそのざわめきが、孝行をしている時のお袋の喜びのように耳に響いていた。
冷えかけたお湯割りを、ぐびりと喉に流し、杉山が改めて語り始めた。
「俺なんか、両親もいず子供らが大きくなり、この歳になってようやく親の気持ちが分かるような気がするよ。若い頃なんか、そんなこと少しも考えなかったしな。それに子供の躾だって、言うこと聞かねえで困ることが多かった。そんな時の親の気持ちなど、何も考えず反発していたからな」
「ああ、俺だってそうだ。ところで話はちょっと変わるが、娘なんて薄情なもんだぜ。手塩にかけ育てたって、いずれ嫁に行っちまうんだからよ」
小倉が惨めそうに嘆くと、杉山が鼻をつんと上げた。
「それはそれは、あんたは娘ばかりでご愁傷様。俺のところはお陰で男二人だ。嫁を貰う側だから、家族が増えて嬉しいよ。小倉、悪いな。これからもう一人、頑張って男の子を作ってみたら」
「何、馬鹿なこと言っている。この歳でそんなこと出来るか。それに、今さらマジでそんなこと言ったら張り倒されるぜ。それにあっちの方も、古女房じゃ元気がでん」
「何を言う、かみさんでなくてもいいじゃねえか。他で作ればよ」
「阿呆、抜かせ。そんな甲斐性あるか。馬鹿!それにそんなこと、これっぽっちも考えちゃいねえや」
「そうだよな。バレたら即刻、奥さんに鉄拳喰らわされ、追い出されちゃうもんな。とっくの昔から尻に敷かれているから、浮気など出来るわけねえ。ましてや、他で子供を作ったら最悪だぜ」
小倉が身体をちじ込めた。
「そりゃそうだ。そんなことすれば、離婚届を叩きつけられ、家を追い出されかねねえ。そうなったら、お前、どうするんだ」
杉山が鹹かった。
「青たんどころではすまされん。それこそ有無も言わさず追い出される。実を言うと、外では大きなこと言うが、家じゃ弱い立場なんだ。とほほ……」
すると今度は、上田が勝ち誇るように鼻頭を上げる。
「お前ら、いろいろあるな。俺のところは男と女一人づつだから、プラマイゼロだ。喜びも悲しみもな」
「そうか、お前は二通り味わえるか。羨ましい限りだぜ」
杉山が嘆きつつ、お湯割りを口に運ぶと、小倉が何やら気づき、はたと手を打ち胸を張った。
「おお、そうだ。杉山、悪いな。謝るのはお前じゃなくて、むしろ俺の方だぞ。娘が二人だからな。分からんか、よく考えてみろ!」
「ええ、何だ。その奥歯に物の挟まる言い方は。小倉、気に入らねえな。何が言いてえんだ?」
ぐっと赤面を突き出した。すると、してやったりと顔を崩す。
「おお、話してやるが、杉山聞いてがっくりするな」
「馬鹿野郎、そんなことするか。お前のところは娘二人、いずれ何処かの馬の骨に奪われちまう。ところがこっちは、嫁取りの息子が二人だ!」
自慢気にそっくり返った。すると、そこを突く。
「いや、悪いな。さっきも上田が言ったが、覚えてねえんか?」
「ええ、何をだ。おい上田。何を言ったかな……」
「ああっと、お袋と娘の話だ。そうだよ結婚しても、母親と娘は何時も電話でくっちゃべっている。それに旦那を連れて、自分の実家に帰ることが多い」
「そこなんだ。杉山、気づいたか?」
「ううん、それがどうした!」
「分からんか?娘は結婚しても、旦那を連れてよく実家に帰るだろ。子供でも出来れば尚更だ。必然的に出産時は実家に戻る。その後も何やかんやと帰ることが多くなるよな。現実的に俺だって、上田のところだってそうだろ。
だいいち女房にしてみれば、旦那の実家で気を使うより、自分の親元へ帰った方が気楽だからよ。それに、母親が何でもやってくれるからな」
「ああ、そういわれりゃそうだ。俺なんかよく女房の実家へ、子供を連れて行っていたものな。娘の旦那が来るってんで、そりゃ待遇がよかった。つい自分の実家へ行くより優先したぞ。女房が満足する方になびくんだ」
上田の言い分に、小倉が勝ち誇ったよう鼓舞した。
「どうだ、杉山。お前だって、昔はよく奥さんの実家へ行ってたんじゃねえんか?子供らが小さい時はよ。な、そうだろ」
すると、仏頂面で返す。
「まあな。くそっ、確かに姉貴とお袋、よく行き来していた。姉貴の奴帰ってきちゃ、何時も何かしら持って帰っている。だいたい女房と言うのは、嫁いだ娘が帰ってくれば、何かを持たせて帰らせるもんだ。娘もその辺は心得ていて、遠慮なく持ち帰る。それだって、スーパーで買えるようなものばっかりだ。
それに、姉貴なんか実家の冷蔵庫を勝手に開けて、目ざとくいい食材があれば、『お母さん、これ貰っていっていいかしら?』なんて言い、遠慮なく持って帰る。女房は、『そんなのあんたのところで買えばいいでしょ』と言うと、ずうずうしく、『いいでしょ、くれたって。政夫さんが、これ好きなんだもの』なんて、自分の旦那を引き合いに出すと、『しょうがない娘ね』なんて言いつつ持たせるんだから。
でも、それが女房には嬉しくて、息子とは違った世話を焼いているんだな」
「確かに、そうだ。くそっ、俺のところは男だけだ。嫁の実家ばかり行って、俺らのところへは来ないか……。息子夫婦と一緒に暮らせば別だが。まあ、そんなことはねえな」
杉山が悔しそうに唇を噛んだ。
「まあまあ、お二人さん。悲喜交々いろいろあらあな。それはそれでいいじゃねえか。怨みっこなしだ。製造責任はお前ら自身なんだからよ」
上田が仲裁に入り続けた。
「それにしてもお袋っていうのは、何というか、響きがいいよな。それに、何時まで経っても愛しいもんだ」
同じ思いで顔を見合わせると、頷きつつ杉山が付け加える。
「そうだな。お袋っていうのは、何時までも俺らにとって、心和む思い出が蘇える」
「ああ、親父のことよりお袋の方が懐かしいものばかりだぜ」
小倉も同調すると、杉山が返す。
「そう言われれば、そうだな。散々お袋の話しが出た後、刺身の端の様に出るくらいが落ちだもんよ。でも、それでいてしっかり存在感があるんだ。親父ってそんなもんじゃねえか。
俺自身、そんな気がするよ。お前らだって、多分そうだぜ。お袋の存在って、それだけ大きいってことだ。でも、女房から見たお袋と言うのは、どのように映るんかな。愛しさがある反面、意外と仲間意識が強いんじゃねえか」
「その辺は分からんが、今度女房に聞いてみるか。でも聞いたら、『何故、そんなこと突然聞くの?』って、怪訝な顔されそうだ。だから、ここだけの話にしておくよ」
思いつつ、上田はテーブルに肘をつき、お湯割りグラスをゆっくりと口に運んだ。
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