第7章 うわさ
あっという間に一ヶ月が経った。
相変わらず部屋の片隅でとぐろを巻き、時々首を擡げては辺りを見廻す。
まるで間の抜けたアホウ鳥のような顔つきで、近くを見たり遠くを覗うようにする。そして、ついと時計を見ると、終業時間が近づいていた。上田がおもむろに受話器を取り、支店に架けた。
「もしもし、杉山か?」
「ああ、何だ?」
「お前、暇こいているんだろ。今日当たりどうだ?」
「おお、いいね。お前ら馬鹿を相手に、飲むと気が休まるからな。まあ、欲いえば。可愛い子ちゃんでもいると会話が弾むんだが。無理な願いだろうか?」
「何、馬鹿なこと言っている。阿呆んだら。それじゃ、何時ものところで」
「分かった。小倉に声かけてあるのか?」
「いや、まだだ。これから連絡しておくよ。それじゃな」
そう告げ電話を切った。何の変哲もなく一日が終わろうとしている夕刻である。今日は金曜日。そう思うと、何となく気持ちが華やいでいた。
陣取った酒席で、何時ものように飲み交わす。始めてから一時間が過ぎた。小倉が肴を摘みながら尋ねる。
「うむ……、この餃子美味えな。これ、もう一人前頼まねえか。それに何か他に頼もうぜ。俺、あと焼酎のお湯割り。どうだ上田、お替りは?」
「おお、いいね。でも、たまには違うのにするか。そうだな・・・、ううん、いや、やっぱり焼酎にしておくか。今飲んでるのにするわ。悪酔いしなくてすむからよ」
「じゃあ、俺はウーロン茶にする。もう酒はいい。これ以上飲むと悪酔いし、からんでしまうからな」
杉山が赤ら顔で断ると、小倉が強要した。
「いいじゃねえか、酔ったってよ。どうせ明日は休みだ。酔いに任せて、今夜は奥さんにからんだらどうだ」
「馬鹿言うんじゃねえ。そんなことしたら張り倒されるぜ」
すると、上田が口を挟んだ。
「おっかねえ、それは大変だ。その口振りだとお前のところじゃ、かかあ殿下で尻に敷かれているってことだろ。俺んとこなんぞ、やりたい放題だ」
「ほっ、上田。大法螺吹くなあ。お前、家じゃそんなに偉そうにしてるんか?」
「まあな……」
「何だか、声が小せえな。どうしたんだ、今の勢いはよ」
「ううん、辛いところだが、実は、つつましいのは俺なんだ」
「何だと。奥さんじゃなくて、お前が。それって、婿養子みてえなもんか。馬鹿らしい。てっきりお前が、威張っているかと思ったぞ。阿呆くさ」
「何を言う。お前だって、ぶら下げている物のように、小さくなっているくせによ」
「そんなことあるか!ああでも、自分ながら自慢できるほど大きくはなかった……。馬鹿野郎、何を言わせる!」
三人が顔を見合わせた途端、大笑いになっていた。一服すると思い出したのか、小倉が背筋を伸ばす。
「日頃溜まった不満を吹き飛ばすのに、集まって飲みながらくっちゃべるんだもの。そりゃ楽しいよな。どうせ俺らはラインじゃねえし、お互い言いたい放題、能書き垂れていればいいんだから。それにしても、今夜は気持ちがいい。日頃の憂さを馬鹿だのなんのと発散してんだ。スカッとするぜ」
すると、杉山も応える。
「言いたい放題だし、好き勝手喋って、酒の肴にしているから、俺らって罪な奴だよ。けれど、こうやって気にせず好きなこと言い合えれば言うことない。これも我らに与えられた特権だ。言ってみれば、長い間貢献してきた褒美みたいなものさ。昔、死に物狂いで働いた結果、今があるんだぜ。言いたいこといえるのも、それがあるからだ。勿論、先輩が築いてきたことも忘れちゃならねえことけど。そうだろ、上田!」
気負いほざいた。
「ああ、まったくだ。当時を振り返れば、残業時間が八十時間を越えるのが常だったし、時には百時間以上もあった。今みたいに週休二日でなく、日曜だけが休日で、それすら返上して仕事をしていた。おかげで休日出勤の未消化が貯まってな。それも営業マンとしての勲章だったし、そんな仕事に取り組める会社に誇りを持っていた。
休みが取れない不満はあったけれど、それ以上に会社のためにと働いていたように思う。特に他部署と張り合い、自分の属する部署のために懸命だった。結果、それだけ会社に貢献していたということだ」
昔を誇るように応じた。
「それにしてもよ。最近の若い奴らは、こうして酒を飲んでいる時は元気だな。見てみろよ、はちきれんばかりのエネルギーで騒いでいるぜ」
ざわめく周りのテーブルを窺い、羨ましそうに小倉が呟いた。すると、つられて上田も見回す。
「いや、すげえな。そう言えば俺らの若い頃だって、二、三軒飲み屋の梯子は当たり前だった。最終電車に間に合えばいいという感覚で、めちゃくちゃ飲んで騒いでいたっけな。懐かしいよ、あん時のことが。思い出すと切がないくらい、いろんなことが出てくる」
遠目の眼差しで、懐かしむように告げた。まるで海鳥が飛び立つ前のように、翼を広げ遠方を覗う格好だ。すると、杉山が突然尋ねた。
「上田、それに小倉。お替りの追加はどうだ。さっき言いかけて、そのままになっていたよな。頼むか?」
「おお、週一回の集まりだ。どんどん行こうぜ。焼酎のお湯割りを三つ注文してくれ。それに食い物がなくなったから、何か注文したら?」
「それじゃ、酒と一緒に頼のもうぜ。ところで何がいい。さっきの餃子美味ったな。またそれにするか、それとイカの一夜干なんかどうだ。ええとそれに、漬物盛り合わせと焼きそば二人前」
小倉が見回し、店員を見つけ酒因の利いた声で怒鳴った。
「おおい、お湯割りと食い物を頼みたい。ちょっと来てくれ!」
直ぐにきた店員に要件を告げた。
「注文だ。いいか!」
「はい、何に致しましょうか?」
「酒と食い物!」
と、小倉が赤顔で告げた。
「はい?」
「あとは、こいつが頼むから……」
杉山を指差し目線を送った。すると店員が杉山に伺う。
「あの、何に致しますか?」
「おお、こいつ酔っ払って、訳の分からんこと言って悪いな、俺が注文するよ」
焼酎のお湯割りと先ほど決めた肴を注文した。すると横から、小倉が口を挟んだ。
「早く持って来てくれ、気持ちいいんだ。酔いが醒めないうちに頼むぞ」
「はい、かしこまりました。焼酎のお湯割り三つと餃子、イカの一夜干……伝々ですね」
店員が復唱した。
「そうだ、それでいい」
「承知しました。それでは直ぐにお持ち致しますので!」
元気よく一礼して、調理場の方へと下がった。
「よしっ、注文したところで、用足ししてくるわ。腹の湯たんぽが満タンになっちまったんでな」
杉山が下腹を押さえ席を立った。残る二人が語らう。
「しかし、金曜日っていうのはいい。明日が休みと思うと気分よくなる。いいや、実にいい。酔い心地も最高だぜ!」
小倉が背伸びした。上田が相槌し笑みを返した。
「そうだな、幾つになってもこの気分は変わらんな。昔からそうだ。若い時も休日前には、わけもなく朝から張り切ったっけ。俺だけじゃないぜ。周りの皆が、そんなのりで仕事に就いていた気がする」
「そうだったな。俺なんか女の子にもてたから、二股、三股とデートの掛け持ちをしたもんだ。その辺、お前は不細工でよかったな。そんな忙しいこともなかったんだろ」
「よく言うよ、そんなことあるか。お前こそけちな法螺吹いているが、実際のところは暇こいていたんだろ。そんな絵空事は見えみえだ」
「まあ確かに、多少願望が入っていることは認めるよ。しかし、昔は楽しかった。無茶ばかりしていたが、今思えばそれが若さの特権だったんだからな」
満足気に焼酎のお湯割りを口に運んでいると杉山が戻り、「ああ、すっきりした。それにしても賑わっているな」と、周りの席を覗きながら座った。
「いや、本当だな。今日は金曜日なんで余計混んでいるんだ。どこからか、威勢のいい声がするぜ。隣の席だって盛り上がっているしよ」
小倉が周りのテーブルを見て告げた。
「しかし、こんな時期だというのに、世間は景気がいいな。どこが不況なんだか。まったくそうは見えん」
「よせやい、景気がいいわけねえだろ。皆、会社で虐げられ不満が溜まっているのさ。一週間のストレスを発散しているだけだ」
小倉の講釈に上田が反発すると、杉山が同調した。
「確かに、そうかもしれんな。だいいち俺らだって、こうして上司の悪口や会社での不平不満をくっちゃべっているだろ。こう見たところ、連中だって変わりないんじゃないか。多少中身が違うかも知れんが。何といっても、花の金曜日だ。誰もがこうやって、一週間の憂さを晴らすのさ」
すると小倉が応じた。
「それもそうだ。俺らは週に一度のペースだけど、こうやって好き勝手言って酒が飲めれば最高だよ。これもヨーハンに勤めているから出来ることだ。安月給とはいえ、毎月決まった日に貰ってんだ。本来、文句は言えねえぞ」
「それじゃ、手を動かさす愚痴ばかりほざいていては、申し訳ねえな」
杉山が追従した。すると、小倉が別の話題に変える。
「そう言えばよ、早期退職で手を挙げた奴らは大変らしいな。西田なんかもう一年近く経つけど、まだ再就職先が決まってねえらしいぞ」
「ええ、本当か。そんなに長く、よく生活が出来るな。割り増し退職金とか失業保険貰っているからって、他に収入がないわけだろ。結局、退職金を食い潰しているだけか。それに失業保険だって、とっくに切れている、よくそれでぷらぷらしていられるよ。先が不安じゃねえんか?」
上田が真顔で憶測した。
「いや、だいたい早期退職に手を挙げる奴は、そんな先のことなど考えずに辞めることが多いんだ。そう言えばよ。柴垣なんぞ借金が相当あって、にっちもさっちも行かなくなっていたと言う噂だ。運よく応募があったんで、手を挙げ割増金を貰って、借金をちゃらにしたらしいな。それに掛口だって、相当借金があったと聞く。こいつもどうにもならず、退職金を充てたらしいが、それでも埋め切れずまだ残っているんだって。
そんなところだ。先のことより目先のことが先決だ。それにしても、柴垣野郎の借金の額が、割増金プラスでチャラか?」
「へえっ、そうかよ、あいつ。……ところで、どれぐらいあったんだか?」
小倉が興味深気に尋ねた。
「ううん、何とこれくらいらしい」
杉山が指を三本立てると、小倉が意味深に尋ねた。
「ほお、三百万ぐらいか……?」
上田が首を振る。
「いいや、そんなはした金じゃねえ。丸が一つ足りん。退職金とほぼ同額だぞ」
「ええっ、三、三千万か……?」
「そうだ」
「うへっ、本当かよ。すげえ金額だな!」
想像を絶する額に、驚き顔で唸った。そして、何か計算するように憶測しだす。
「それじゃ、毎月の返済、相当な額だろて。それに生活費、考えたらどうにもならんな。給料貰っても火の車だ。しかし、何考えてんだか。それにしても、途方もない金額だぞ」
上田が続けた。
「だから、渡りに船というやつさ。このままじゃ首が廻らなくなり、給料の差し押さえを喰らう。そうなったら、借金が会社にばれちまう。どうせまともな借入先ばかりじゃねえんだろう。聞くところ、消費者金融や闇金融なんかに手を出していたらしい。そんな噂だよ。まあ、そうなりゃどうなる。給料を差押えられたり、闇金辺りに職場へこられたら、会社にいられなくなるだろう。それだって時間の問題だったらしい。奴にしてみれば、毎月というより毎日が火の車で、取り立てに追われていたみたいだ。だから返済計画や将来設計どころではなかったようだ」
「そんなところだろうて。奴の日々の様子を視ているとそんな感じだった。けれど悪運が強いと言うか、早期退職の割増金で、やっとこ首を繋いだわけだ」
納得気味に小倉が頷き愚問する。
「しかしよ、何でそんなに借金こしらえたんだ。普通の生活をしていれば、そんなことにはならんぞ。俺には考えられねえ」
上田が推測する。
「それが、ギャンブルらしい」
「えっ、ギャンブル?何のギャンブルだ。競馬か、それとも競輪かボートでもやっていたんか?」
「いや、そうじゃねえ。これさ」
杉山が手真似で、マージャンパイを掴む仕草をした。
「レートの高いやつでやっていたらしい。昔、何度か相手したけど、へたくそでな。ああいう打ち方してたら勝てやしない。負けが込んでも頭に血が上ってよ。あれじゃ借金が膨らむぜ。
それも相手が、会社仲間だけならまだしも、懲りねえ野郎だ。よせばいいのにプロを相手に打っていたらしい。そりゃ、借金だって雪達磨式に膨らむさ。気づけば尻の毛まで毟り取られちまってよ。まあ、奴にしてみれば自業自得ということになるがな」
「そうかよ。それじゃ、まったくの病気じゃねえか」
「そういうことだ……」
杉山が相槌を打った。すると、尤もだと上田が卑下した。
「だけどそんな輩は、いくら借金をチャラにしたって、改心して止めることにはならん。ましてや自制心が効かない病気じゃ、また繰り返すぜ。そして、懲りずに借金をつくるんだ。阿呆な奴だ。やっぱり『馬鹿は死ななきゃ治らねえ』って言うか、本当だな。しかし、野郎、国立大学を出てんだろ。それにしちゃ、阿呆な野郎だ。のめり込めばどんなことになるか分かるだろうが。ジャンプロとやれば、いいように陥れられることぐらいよ。
それにしても、家族がたまらねえよな。いずれ崩壊へと向かうだろうて」
上田は柴垣の馬鹿さ加減に呆れ、更に思い出したのか語気を強めた。
「あの野郎には、昔、随分冷や飯を食わされたからな。恨み骨髄だ。あんな奴、同情の余地もねえし、苦しむだけ苦しめばいいんだ。今まで散々あこぎなことやってきた。それが奴への報いだ。人間、他人に酷いことをすれば、必ず己にその報いが返ってくる。天に唾するようなもんだ。結局、手前の顔に落ちるから。柴垣の野郎は天に唾して多額の借金が顔に落ちてきたと言うことさ。それにしても、生半可な額じゃないな。
ざまあみろってんだ。あのくたばりぞこないがよ。日頃のあこぎが祟って天罰が下ったんだ。どんなことがあっても、奴だけは許さない!」
一気に反吐をぶちまけた。
「まあまあ、そういきり立つな。確かにお前も、野郎には散々虐めつけられたから、そう思う気持ち分かるよ。しかしなんだ、お前もあんときゃ相当苦労したが、よく耐えたよ。もし俺が奴の下にいたら、とても我慢出来なかったと思うよ。そうだろ、出向先で部長の肩書きで菜っ葉服着せられ、机運びやっていた姿を思い出したら、もし俺なら直ぐにぷっつんしていただろうな」
上田を抑えると、杉山が憤った。
「いや、俺だって頭に来たさ。でもな、そこで手を出してみろ、ただじゃすまねえ。手を出し、ご免なさいですむんならやっていたさ。あこぎな奴にしてみりゃ、それを狙って仕組んでいたと思う。会社というのはそんなもんじゃねえ。上司に手を出せば、ただではすまん。ところがどっこい、その手には乗らんよ。そんなことすれば、俺自身、悪くすればちょんだぜ」
上田が手で首を切る真似をした。そして真顔になる。
「そしたら、俺の生活はどうなる。家族はどうなると思う、どうにもならんじゃないか。俺だって、家族崩壊など真っ平ごめんだ。だから気持ちを切り換えたのさ。菜っ葉服を着ても、皆の目を気にしなければ、こんな楽な仕事はないとな。だって、給料変わらんのだぞ。そりゃ屈辱だったさ。でもな、人間考えようだぜ。そういう辛いことを経験するとこで、今となれば貴重な体験をした思いでいる。多少なりとも糧になってるんじゃないかと。
まともな人生ばかりで味わったことがないと、いざという時脆いもんさ。一度経験しておくと後で役に立つ。どんな仕事だってやっていけるからな。最近、つくづくそれが分かった気がするよ」
酒気につられて上田は滔々と明かした。そして、残るお湯割りをゆっくりと飲み締めくくった。
「まあ、そんな話はどうでもいい。それにしても柴垣の野郎、ざまあみろってんだ。また、どんどん負けが込み、首が廻らなくなるくらい借金漬けになりやがれってんだ!それで苦しみもがき、野垂れ死するがいい。それこそ己が蒔いた種だからよ」
杉山が加えた。
「いや、お前の推測通り。野郎、懲りずにマージャンに現を抜かしているという噂だ」
「そうかい、やっぱりな……」
そこへちょうど、注文品を運ぶ店員がやってきた。
「お待たせ致しました!」
無造作にテーブルに置く。
「お、来たぞ。それじゃもう一度、今後の我らに乾杯しよう!」
杉山が音頭をとり、一同、湯気の立つお湯割りを口に運んだ。続いてまた、別の若い店員が肴を持ってくる。
「遅くなりました!」
大きな声でテーブルに置いた。
「こりゃ美味そうだ!」
早速、小倉が箸を伸ばし突っついた。
「うへえっ、あちちち、うむ……、やっぱり焼きそばは美味えな」
頬張りながら、口内の熱さを冷まそうとお湯割りを含む。
「うひゃあ、こっちも熱っつい!」
ほふほふともぐつかせ飲み込んでいた。そして一息つき、箸を出しつつ勧めた。
「杉山、これ食ってみろ。すっごく美味いぞ!」
「そうか、美味そうだな」
促され取り口に入れた。
「うむ、なかなかいい味しているじゃねえか」
立て続けに食し、満足そうに頬張っていた。
「おう、こっちの一夜干しも美味いぞ。食ってみろよ」
上田が促すと、小倉が応える。
「そうか」
イカを取り口に放り入れた。
「おお、塩の香りがたまらん。これだよこれ。ふむ、ふむ・・・」
目を閉じ、鼻を動かす。
「懐かしいな……。口に広がる香りは、真夏の太陽が燦燦と降り注ぎ、爽やかな潮の香りたなびく浜辺で、のんびりと過ごす。そんな感じだ」
想像し満足気に浸った。すると、杉山が意外な提案をする。
「おい、今度ハイキングに行かねえか。そんな険しい山でなくていいんだ。若葉の萌えるどこか河原でよ。のんびりビール飲んで飯でも食うっていうのはどうだ。こういう居酒屋もいいけど。たまには自然を満喫出来るところでやりたいね」
すると、小倉が賛同する。
「いいんじゃねえか。たまには、気分転換で屋外で飲むのもよ。こんな薄暗い居酒屋より、若葉が萌えるところで、自然を満喫しながら飲むのもいいやな。
おい、上田。そう言えばお前、昔山へ行っていたんだろ。どこか楽に行けるところねえんか。時期は新緑が映える五月がいい。東京から二時間ぐらいで行けるところ、どこかないか?」
「ううん、そうだな。丹沢辺りなら、新宿から二時間足らずで行けるぞ。あそこだったら、昔よく行っていたんだ。沢に入ったら最高だぜ!」
「ちょっと待て、その沢って何だ?」と、小倉が尋ねた。
「ああそうか。お前らは知らねえよな。昔、よく行ったんだ。まあ、学生だった頃だがな。丹沢山系の『勘七の沢や源次郎沢』といったところへ。この沢登りというのは、分かりやすく言えば。そうだな、山の中を流れる川を沢といい、そこを逆登って行くものだ。山中だろ、急流となって水の回廊や滝があり、それを頂上近くまで遡行する。夏なんか天然のクーラーだ。涼しくて気持ちがいい。それに新入社員の頃新宿の百貨店コーナー勤務だったんで。水曜が定休で、よく一人で出かけた」
不安げに小倉が問た。
「おい、それって。危険じゃねえか?」
「ああ、多少危険だが、そこは若さでチャレンジしていたよ」
「しかし、俺らみたいな素人でも行けるんか。だいたい滝のあるところはどうするんだ。そこで終わりか?」
「いや、そういう場合は、その滝をよじ登る」
「待てよ。そんなことしたら、服が濡れちまうじゃねえか。それに、そんな危険なところ登れるんか?」
「まあ、濡れるが。沢登りというのはそんなもんさ。若干危険だが、それがまた醍醐味というやつさ」
「上田、お前、そんなことやっていたんか?それも、そんな危険なことを、一人でだぞ。無謀としか言えねえよ!」
上田が当時の状況を話し出す。
「あのころは山岳の縦走が中心だったが、沢登りも手がけていた。しかし、思い出すと懐かしいな。今一度入ってみたくなる。どうだ、杉山。一緒に源次郎沢にでも入らんか。気持ちがいいぞ」
「あいや、そんなこと出来ねえ。それにしてもお前、肝っ玉据わってんだな。通りで、柴垣の仕打ちに耐えられたのが分かったよ。追い込まれても、強い精神力が養われているんだ。鍛え方が違うぜ」
「おいおい、余計なところで感心するな」
上田が照れ気味に遮った。すると、杉山が省みる。
「俺なんか、そんな危険なところ、遡行とかいうのはできねえ。お前はともかく、ずぶの素人の小倉だって、そんなところ登れんな」
杉山の振りに真顔で応じた。
「絶対無理だ。天然のクーラーだか何だか知らんが、山登り自体やったことがないんだぜ。それを、そんな危険なところへ行けるわけねえだろ!」
手を横に振り拒絶した。
すると、二人を安心させようと説く。
「いや、今回の計画は、そんな沢登りなんかせず。ちょっと沢の入口辺りで、雰囲気を味わいながら、焼きそばでも作り酒を飲むという嗜好だ。そんな計画でどうだ?」
「おお、それならいい、上田、驚かすなよ。酔いが醒めるじゃねえか。殺されるかと思ったぜ」
「馬鹿いえ、大袈裟に。そんなこと、お前らにやらせるわけねえだろ。素人には沢登りなどさせられるか。だって勘七や源次郎の登攀は、中級者向けで素人には無理だからな」
真面目に上田が応えた。
「分かった、殺されるなんて冗談だよ」
小倉が詫びた。
「そうか、それならいいが……」
すると、早速小倉が連想する。
「沢の川辺りでビールか。そりゃ、いいかも知れんな。それだったら、是非とも行きたいぜ。そう言えば、昔は会社の女の子誘って軽井沢なんかに行って騒いだよ。懐かしいな」
「そうだったな。そういうこともあった。五、六人でわいわいがやがやとな」
上田が昔を思い起こした。
「ところで、その沢の水って冷たいんか?」
杉山が尋ねると、我に返り返事をする。
「ああ、夏だって冷たい。五月頃だったら、手を突っ込んでいられねえくらいだ。まあ、一分もたねえだろうな」
「本当かよ、それはいい。ビール冷やすにはもってこいだぜ!」
「小倉、お前はどうだ。参加するか?」
「おお、いいね。沢の入り口までだったら、そんな危険な目に遭わんだろうから。それに、たまには野外でのんびりと飲みてえよ」
「それじゃ、今度丹沢へ行こうじゃないか。計画は俺の方で立てる。日程は五月の土曜日としよう。まあ、楽しみにしてくれや」
「ああ、丹沢の冷たい水で冷やしたビールか。こんなの初めてだ」
上田の提案に二人は快く承諾した。頷き上田が尋ねる。
「そう言えば、小倉。お前よく温泉へ行っているんだってな」
「ううん、結構近場の温泉に、車で女房と出掛けている。泊まると高くつくから、湯に浸かり休憩だけの日帰りが多いよ」
「へえ、そうか。……おい、小倉。随分盛んだな。休憩コースといったら、温泉マークのついたラブホじゃねえのか。休憩料四千円というやつよ」
杉山が茶々を入れると、小倉が真顔で怒った。
「何、馬鹿なこと言ってんだ。どうして女房と、そんなところへ行かなきゃならねえ。この阿呆!」
「でもお前のこった。たまには刺激を求めるんじゃねえんか?」
「何抜かす、そんなことするか。まったく、よく言うよ。古女房なんかとよ」
「ああそうか。確かに、そりゃそうだ」
すると、小倉が願望を吐いた。
「だけど、たまには若い女と萎びた温泉にでも行って、しっぽりとあっちの方頑張ってみてえな」
杉山貶した。
「何、夢みてえなこと言ってんだ。お前のあっちの方こそ萎びて、そんな元気ねえくせに、見栄張ってんじゃねえや」
「まあな、ちょっと言い過ぎた。それにそんな小遣いねえか。それにしても、日帰りとはいえ温泉に入り、冷たいビールを飲んで、極楽極楽、気持ちがいいぞ。日頃の憂さが吹っ飛んじゃうものな」
満足顔の小倉に、杉山が告げた。
「おい、車運転して行くんだろ。酒なんか飲んで大丈夫なんか?」
「ああ、平気、平気。一日湯に浸かっていれば醒めるから、運転には支障がない。その辺は充分心得ているよ」
「それならいいが、しかし温泉もいいな。のんびりと湯に入りリラックスすれば、気分爽快で気持ちがいいんだろうな」
杉山が行きたそうに漏らし、嫌みったらしくほざいた。
「それにしても豪勢だよな。温泉巡りなんて、優雅な生活しているじゃねえか。俺なんか、予備校生と大学生を抱えひいひい言ってんだ、豪勢に温泉巡りなどしてられねえよ。そりゃ、たまには行ってみたいけど」
「いいや、豪勢なんてとんでもない。日帰りで、ただ湯に入るだけだ。それでもたまに一泊する時は、簡保を利用して安く上げる。それじゃなければ、金が続かねえよ」
「そうだよな。温泉たって奥さんと行くんじゃ、豪華な料理食ってドンちゃん騒ぎするわけじゃねえだろうからな。それなら交通費を含めても、そんなにかからんか。俺らみてえな安月給じゃ、その程度がいい。借金して行くもんじゃないぜ。くそっ、宝くじでも当らねえか。そうすりゃ豪勢に温泉巡りでも何でも、好きなだけ出来る。それに、夫婦で海外旅行だって夢じゃないぜ」
「杉山、気を付けろ。お前の場合は宝くじ当たる前に、自動車に当たり大怪我するかもしれねえからな。確率としては、そっちの方が高いかもしれんぞ」
小倉が茶々を入れると反発した。
「馬鹿野郎、縁起でもねえこと言うな!それにしてもいいよな、女房と二人で温泉旅行か。一泊で行くんだったら、お前、あっちの方も激しいんだろう。ゆったり温泉に入り英気を養って、あっちへ転がり、こっちで組み合いと、燃えるだろうな」
「何、馬鹿なこと言ってる。そんなの随分ご無沙汰だ。今さら古女房とじゃ、その気にならねえよ」
「小倉、そんなこと言っていいのか。お前、頭が上がらねえんだろ。今の発言撤回した方が身のためだぞ」
促されるが、それでもあっけらかんと抜かす。
「まあ、若い娘なら、話しは別だがな」
「まだ懲りずに、そんなこと言っているのか。暢気に喋っていることが奥さんにばれたらどうする。取り返しがつかなくなるぞ。いいんかばらして!」
「へへん、何言いやがる。女房がなんだ!」
虚勢を張るが、直ぐに言い訳しだす。
「いいや、待て。それは困る、俺が言い過ぎた。今の話なかったことにしてくれ。くそっ、撤回すればいいんだろ。撤回すれば!」
すると、杉山が嗜めた。
「そうだ、人間素直でなければいかん。言い過ぎたと思ったら愚直に謝る。それが夫婦円満の秘訣だ」
「何ごちゃごちゃ言っている。お前だって、一つや二つ、疚しいことがあるだろ。自分のことを棚に上げて、いい格好するな!」
杉山にほざいた。
「ああ、それにしても余計なこと言い過ぎた。少し悪酔いしたかな」
小倉が愚痴った。
「小倉よ、これからも奥さんと旨くやってくれ。俺も見習って日帰りの温泉ぐらい行くか。女房に相談してみるかな。いや、待てよ。今までそんなことしたことねえから、驚いて『どうしたの?急にそんなこと言い出して。会社で何かあったの?』なんて、言われるのが落ちだ」
「そうだろうな。杉山のところだけじゃなく、俺んとこだって、お前のかみさんのように言われちまうぜ。それを思えば、小倉のところは大したもんだ」
上田が褒め上げた。すると杉山が話を変える。
「それなら次回は、上田が幹事でハイキングにするか。丹沢へ行き、清流でビールを冷やして飲もうぜ。川のせせらぎ、小鳥の鳴き声、何だか想像しただけで、日頃の憂さも癒される気がするよ。皆、当日雨にならないよう、心掛けはきちんとしくれよな」
「ええ、どうしてだ。何で今さら、そんなこと言う」
小倉が気に掛けると注意を促した。
「特に小倉は気を付けろ。山は天気が悪けりゃ最悪だからよ。さっきの話じゃねえが、お前の場合は、温泉へ行き奥さんとしっぽりやっているんだろ。いざという時腰が定まらんから、だから言うんだぞ」
「てやんで、おおきなお世話だ!」
「自身の行いだ。小倉、言うこと聞けや」
「ああ、分かった。静かにしていればいいんだろ。静かに温泉に浸かっていれば。くそっ、余計なこと話すんじゃなかった」
小倉が嘆くと、皆、声を上げて笑い出した。そこで上田が乗ってきた。
「うん、そうだな。丹沢へのハイキング後の計画として、次は温泉と言うことにしようか」
「あれれ、嫌味か?」
小倉に聞かれ惚けた。
「いや別に、そうではない。まあ、ちょいと洒落ただけだ」
そして摩り替える。
「いや、それにしても、今夜は気持ちがいい。この酔い心地、そして皆との語らい。そうよ、明日が休みとなれば、弾む気分になる。しかし、こういう心持ちは、今も昔も変わりねえな。
若い頃は休みの前になると、知らす知らず張り切り、仕事をしたもんだ。今もって弾む気持ちは同じだものな」
「そうだよ。やはり一週間働いて、休みがあるからいいんだ。それがずっと休みでいてみろ、退屈で嫌になる。めり張りがなくなるから、どんな仕事であれ、精神的にも働くと言うことはいいことだ。そういうことで誰に何を言われようと、この会社をやめねえ。例え転勤命令が出たってな」
小倉も乗った。
「そりゃそうだ。営業だって何だって経験してきたんだ。若い奴らと混じってやってやる。今時他じゃ、この歳で雇ってくれるところがねえから、定年までしがみついてやる。
こうなったら、何されようと手を挙げねえぜ。つい目先に目が眩み、割増退職金に飛びついたひにゃ、ろくなことねえ」
杉山が力を込め、更に切り替えた。
「ところで話し変わるが。小倉、年金のこと詳しいよな」
「ううん、まあな。今の仕事で退職に係わる仕事をしているから、多少のことなら分かっているつもりだが」
「そうか、それは頼もしい。俺らよく知らんから、いろいろ教えてくれよ。今のところ必要ないが、近い将来、その知識が必ず役に立つし、それに退職金の計算とか、知らねえとその時になって、見込み違いでもあったらたまらんからよ」
杉山が乞うと、上田がグラスを挙げ頼む。
「同感だ。俺もからっきし分からねえから、そんときゃ頼むよ。小倉、お前だけが頼りだからな!」
胸を張り引き受けた。
「おお、分かった。それじゃ、俺が教えてやる。セミナー形式か、それともマンツーマンがいいか。それによっちゃ、まあそうだな。一時間当たり二千円のところ五割引して千円で引き受けてやる。いいか、特別割引料金だぞ」
「えっ、金取るのか!おいおい、人の弱みに付け込んで銭取るなんて悪代官のすることだ。通りで目つきが悪いと思ったよ。お前、俺らから金を取るなんぞしたら、ろくな死に方しねえぞ。分かっているな。何が、特別料金だ!」
杉山が貶すと、
「いいや、冗談だよ、冗談。そんなことすっか。ちょっとからかっただけだ。それを真に受けやがって」
にやつき取り消した。すると上田が提案する。
「それじゃ次回は、年金と退職金問題を取り上げようか。小倉、いろいろ資料を集めてくれ。俺らにとっちゃ大切なことだから」
「おい、待てよ。次回は丹沢へのハイキングじゃないんか?」
小倉が訝った。
「ああ、そうだ。河原でビールを飲みながら、こういう堅い話もおつなもんだぞ。それに、たまには飲み屋でなく、広々としたところで論じ合うのもいい。自然の中だ。心が広くなり、じっくりと学べるかもしれん」
平然と告げると、杉山が同調する。
「まあ、確かに。広い空に包まれ美味い空気を吸えば、気持ちが豊かになるだろう。特に河原で、ぎんぎんに冷やして飲んだら、相当スカッとするからな」
「それいいね。山の水は冷めてえし、そん中に入れて冷やせば最高だ。うぐ、今から喉が鳴ってくら」
小倉が生唾を飲むと、上田も真似て、更に注文をつけた。
「俺も早く行って飲みてえが、行くまで我慢しろ。小倉、それまでに俺らが理解できるよう纏めておけや」
「ちぇっ、仕方ねえ、分かったよ。簡単に纏めておくか。それじゃねえと、お前ら能無しには消化できんだろうからな」
偉ぶるようにほざくと、上田が口を尖らす。
「何言ってんだ、能無しは余計だ。まあ、確かに小倉の専門分野だ。難解な言葉の羅列じゃ分からん。だから俺らの頭で理解できるよう頼むぜ。それにもう一つ、聴きたいことがあったんだ。実はな。先日テレビで放映していたが、年金って、俺らの年齢じゃ、六十四歳からでないと満額支給されないよな」
「うん、今回の年金法改正でそうなったが、それがどうした?」
「そこら辺のところも詳しく頼むよ」
「ああ、分かった。それにしても今日は楽しかったな。皆といると、昔の若い頃に戻ったようで気分がいいぜ」
「そりゃそうだ。知り尽くした仲だ。気兼ねなく話が出来るから、スカッとするんだ。今日はいい酔いが廻ったぞ。そろそろお開きにするか?今日の収穫はっと。次回の飲み会を自然の中で楽しむことと年金問題。その話題が俺らの一番の関心事だ、小倉先生によるセミナーでの講義がな」
上田が同調した。
「ううん、そう言うことだ。いずれやってくる話だから、精々きばった話が聞きたいもんだ。小倉先生、期待していますよ」
「任せておけ、餅屋は餅屋だ。その日まで、仕事を放ってでも調べ、資料を揃えておくよ」
鼻をつんと上げ豪語した。
「雑言放題喋ったし、話しも尽きた。それじゃ残っているものたいらげて終わろうか」
上田が腕時計を見て告げた。
「しかしこの焼酎のお湯割り、気持ちよく酔わせてくれたんで感謝するぜ。それはそうと、何時も利用させて貰っている「黒べえ」は安くていいな。それに池袋まで足を伸ばして、馬鹿話できるなんて最高だ」
小倉が満足気に応えた。すると、
「それにしても飲んだし食った、腹が一杯になったな。勘定だってリーズナブルでこれまた結構、ああ、この酔い心地が何ともたまらんぜ。明日から、連休ですよ。実にいい気分だ!」
周りを覗いつつ、杉山が思いっきり背伸びをした。すると、小倉もつられて、「本当に気持ちいいや」と、背伸びをし大欠伸をした。
賑わう店内に、そんな二人のだみ声が違和感なく広がる。そして三人共々紅潮した顔に、満面の笑みを浮かべていた。
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