第2章 大海鳥



アホウ鳥がそそり立つ断崖岸壁に立ち、視線を水平線の彼方に向けていた。じっと先を窺い、何を思うのか。身動きせず鋭い視線を走らせる。

大海原から吹き上げる潮風が強い。押し寄せ間段なく砕ける散る波頭が、岸壁の縁を沿い駆け登ってゆく。巻き上げるように湧き立つ潮騒が、地を這い足元から全身を貫き両翼を揺らしていた。

この岩棚では、潮香の強風が止むことはない。何時も海原から岸壁を伝い、青い空へと吹き上げているのだ。眼下を望めば限りなく広がる紺碧の海原と、頭上には遥か彼方まで広がる青空が、どこまでも澄み渡っている。

朝と夕の二度、彼らは餌を求めて大海原へと繰り出す。今の季節、夜明けの時刻は以前に増して早くなった。如月の頃に比べれば、淡い朝日も幾分強くなってきたようだ。朝の六時には地平線から陽が昇り、眩いばかりの朝日が岸壁を照らし、飛び交う波頭に反射して煌びやかに輝く。砕け散る波の華が、真っ白な無数の真珠に化身し、潮風に乗って岸壁を這い上がり四方に飛翔する。そんな朝日に輝く白波の遊戯は、まるで早朝の煌めく眩い宝石のようだ。これぞ早春の息吹を漂わせる光景だが、現実はまだ肌身に厳しい。卯月になれば海水も温むであろうが、吹き上がる潮風はまだ冷たい。

海鳥の腹時計が空腹時間を指していた。今日もまた彼らの一日が始まる。何時もの狩の時間だ。のろりと歩き慣れぬ身体を不器用に動かし、コロニーから出て岸壁の縁にたたずみ、五感を研ぎ澄ませ、絶え間なく吹き上がる海風の動きと強さを探る。

凛とした眼光の輝きが、一瞬光った。顔をくいっと上げたその瞬間、両翼を大きく広げ岩棚の石ころを強く蹴った。身体が離れ落下するように飛び立つと、海原から上昇気流が、一段と強く吹き上げてきた。二メートルにもなる翼を力強く羽ばたいた。それも二度、三度。すると、大海鳥の身体が気流を捕らえ、みるみる大空へと駆け上がっていった。

たちまち眼下に広がる海原と巣棚の岸壁が、はるか眼下に映えていく。そこでもう一度、大きく両翼を気流に向け一、二度打ちつけた。すると、更に天空へと翔け上っていた。砕け散る波頭の音も、コロニーでの若鶏の鳴き声も、すでに微かなものとなった。広げる翼を上昇気流に預け、思うがままに高度を稼ぐ。そして、昇り上がったところで頷いた。

まあ、こんなところでいいか。そう言い、両翼で調整し水平飛行へと切り換えた。まるで熟練業師のように滑翔し、ゆっくりと弧を描いて旋回しだす。

なあに、これも何時もの通りさ。若い頃と何も変わらん。これは経験のなせる技と言うものだが、この技術だけは昔のままだ。けれど、今じゃめっきり縄張りも狭くなった。

細めた視線を彼方へと投げ、懐かしむように若かりし時を思い巡らした。

あの頃は血気盛んだったし、縄張りも広かった。海風を自在に操り、俺はここいら一帯を支配していた。他の仲間が侵入しようものなら、追い出すため果敢に攻撃したよ。縄張りの奪い合いが激しくなり、時には空中戦へと及んだこともあった。まあ、当時の支配領域は千を五回数えるくらいだったから、よく若いアホウ鳥が侵入して来たもんだ。

それにあの頃は、広範囲にも係わらず、更に縄張りを拡大すべく奔走していたぞ。けど、今じゃ。縁る年並みで、その縄張りもめっきり少なくなった。

視線を和らげ空ろうが、どことなく寂しげに風に乗り飛行する。それでもプライドを捨てきれず、くいと首を上げ若き日の有体を追っていた。

当時は自信があった。だから、今日のように大空へと翔け上り、争いに負けることなく広範なエリアを守ってきた。だがな、今じゃそうもいかなくなったよ。ただ、気力だけは変らんが、身体がいうことをきかねえ。縄張りも千を二回ほど数えるくらいになったし、俺の権威も昔ほど威光が光らなくなっている……。

少々疲れ目で瞬きし、四方に視線を配り嘆く。

最近は我ら仲間以外にも、獰猛なユリカモメたちとの争いが一段と生じている。何時の頃からか、日常茶飯事の如く起きるようになった。そりゃ、変ったといえば様変わりだぜ。若かりし頃は、我ら仲間同士での勢力争いが主体だったのによ。それがこの有様だ。

それにしても、当時は広範囲に仲間も多くいた。でも近頃じゃ、比べものにならねえほど激減した。原因として、一つ二つ思い当たる節がある。我らの仲間は、こうして気流を捉え滑空し旋回するのは得意だが、俊敏に動いたり、瞬時に飛び立つことが苦手だ。

だから天敵には、随分痛い目に合ってきた。その中で人間どもの狩の標的になったり、いたちや狐らの餌食にもなった。特に我らの卵を狙うユリカゴメの横行が目に余る始末だった。

それでも若い頃は、外敵から巣営を守るため果敢に立ち向かったもんだ。そう狐などは、この大きな翼を広げ、くちばしで威嚇して追い払ったこともある。今思えば、漲る若さで強引なこともやってきた。でも、そうする以外に我が身や家族を守ることが出来なかったんだ。

けれど、結局は人間の強欲による濫獲で、随分仲間が犠牲になった。親父の話では、人間らによる野蛮な虐殺で、悲惨な事態があったと、寝物語によく聞かされた。これらの諸因で、我ら仲間が激減したのは間違いない。

飛翔しつつ長々と思考するうち、あらぬ方向へと進んだ。

ところが、話が矛盾するようだが、何やら人間たちが、我らの生存状況を鑑みて、絶滅の危機に瀕していると、昨今になり貴重な種族の保存だとか、自然界の生態系の危機だと日い、我らを国際保護鳥とか特別天然記念物だのと、勝手に規定し守るようになった。おかげと言ってはなんだが、最近はまた仲間が徐々に増えつつあるが、昔の数に比べれば圧倒的に少ない。これから昔の個体数になるには、幾年かかることやら。

人間様の保護政策は願って止まないが、そこでついと疑問を呈した。

それでな。どう言うわけか、我らを人間様はアホウ鳥と呼んでいる。他の鳥類の俊敏さと比べ、行動がのろまで不器用にみえるし、歩く姿が間が抜けているように映るらしい。

更に性格が大らかなことから、人間や動物を恐れない。だから狩の標的になりやすい。そんなこんなで、名づけ理由はこれらに起因しているという。それで、こんな妙な名前がつけられたみたいだ。

まあ、我らにとって、不器用に見える行動が当たり前だから、何の疑問も湧かんが、それにしてもアホウ鳥はないと思う。まるで馬鹿面した阿呆のように聞こえるじゃねえか。俺らにとって、人間界でのこんな呼び名は迷惑千万だ。この際忠言しておきたいが、百科事典でも鳥類図鑑でも改版する機会があれば、その辺を考慮してもっとましな名前に変えて貰いたいもんだ。

愚痴はともかく、話を元に戻すが、我らの仲間内でも最近の若い奴らは冒険心が希薄になり、昔の俺らと様変わりだ。若かりし頃の俺らに比べ、器が小さくなったのか、大胆な行動がなくなり、己の力を誇示する大きな縄張りを持とうとしないんだから。随分変わったもんだ……。

紺碧の大空をゆったりと滑空しながら、そんな戯言を胸内で呟き嘆いていた。

一通り思い巡らしたところで、現実に戻る。

勿論、こうして翼を広げ気流に乗り大海原を上空から窺うのは、獲物となる魚群を探すためで、それで縄張りを旋回しているんだ。

さて、そろそろ下降して餌となる魚を捕獲するか。おっ、鰯の大群が海面近くに浮き上がって来ているぞ。

目ざとく波立つ海原に視線を射た。過去を空ろう気持ちが、この瞬間に弾け飛び、両の翼に力が漲った。

くいっと鎌首を海面に投げ、鋭い視線で青背の魚群を捉え、そして、瞬時に全身をアンテナにし風の方向を探った。更に五感を働かせ下降気流を捉えると、それに乗って一気に波立つ海原めがけ、落下するように滑翔して行った。


鳥類図鑑によれば、アホウ鳥はミズナギドリ目アホウ鳥科に属する海鳥である。確かに地上での動作は、決してスマートとはいえない。素早い行動が苦手であり、不器用と言ってよい。地上でも他の海鳥たちは、それなりに翼と足で器用に行動するが、アホウ鳥はそれが出来ない。同様に翼を使うが、広げるだけで器用に動き回ることが不得意なのだ。でも、一度飛び立てば、他の鳥らに負けない飛翔が出来る。

その身体は水鳥のガンより大きく、体色は主に白色で、肩羽、翼及び尾羽の先端は黒色。成鳥が翼を広げると二メートルにも達する。岸壁から飛び立ち上昇気流に乗り、旋回しながら海面を滑翔する。その姿は大鷲の如く雄大で、決して引けをとらない……伝々。

とまあ、最後のくだりは唯一自慢できることだが、離陸するまでの動きが億劫というか、のったりし過ぎて、他の海鳥と比べ俊敏さがないと馬鹿にされるんだ。それでも我らとしては、親の代から引継いだ所作で懸命に生きているのだが、図体が大きいからこれが精一杯なんだよな。

傍目から見れば緩慢に映るアホウ鳥だが、彼らにしてみれば至極当然と自負しているから、世間的な認識と差があり、その行動様式を変えようとせず幾世代も生きてきた。

まあ、それはそれとして。次に、我らの生存領域と名付けの由来などをお教えすることにしましようか。

これ以上出来ぬ努力を強要されても、迷惑というように話題を変えた。

やはりこれも鳥類図鑑から紹介しよう。繁殖分布状況は、現状では鳥島、尖閣諸島に限られ、残存することが確認されているだけで、乱獲による絶滅の危機に瀕し近年保護の手が差し伸べられ、国際保護鳥として特別天然記念物にも指定されている。

このように生活圏は、限られたところなのが実情だ。また、我らの陸上生活でも、樹木の枝の間に巣床を作る鳥類とは違い、地面の石ころや岩の間に作営している。だから、木々の間を飛び回るなどは必要ない。それ故逆に、外敵に狙われやすい弱点がある。その点、高い枝先に巣営する鳥たちが羨ましい。我らの地上生活より外敵に狙われる確率が低いからな。でもまあ、この生き様も代々営まれてきた生活習慣なんで変えるつもりはない。

虚勢を張りつつも岩棚に立ち、俊敏に飛ぶ海鳥を見ては、恨めしそうに嘆いた。

いずれにしても、他の海鳥にないミズナギドリ目アホウ鳥科に属する大海鳥である。また、広義にはアホウ鳥科の鳥の総称で、大形の海鳥。分布は南半球の海に多く、世界に数十種いる。日本でみられるのは、アホウ鳥・コアホウ鳥・クロアシアホウ鳥を差し、鳥島、尖閣諸島に生息するだけである。

まあ、俺らのことは大まかに紹介させて貰った通りで異存はないが、今後図鑑などの改定機会があったら、重ねてお願いしたい。もう少し格好いい名前を付けて欲しいね。

ふたたび岸壁に立ち視線を霞の彼方に投げつつ、そんな思いを巡らせていた。今にも飛び立とうとしているのか、それとも思考が深く入り過ぎているのかは、大海原から吹き上げる潮風を受けてたたずむ姿からは予想し難い。いずれにしても、一羽の老アホウ鳥が両翼を中途半端に広げ、そんなどっちとも取れる仕草で暫らく岸壁にたたずんでいた。


居酒屋のテーブルに身体をもたれ、伏せていた上田がむっくりと顔を上げた。

「うむむ、どうも夢でも見ていたんか……。俺がアホウ鳥になった夢をよ」

伏せつつ、上田がついと漏らす。

「それにしても不思議だ。夢にしても、大空高く舞い上がり、悠々と飛翔し旋回できるなんて、これは何とも気持ちのいもんだ。いや、俺がそんなものになるわけねえな。アホウ鳥なんかによ。だいいちアホウ鳥と言う名前がよくない。俺がその鳥になると言うことはアホウということじゃねえか。不埒なこと抜かせ。でも、どうなんだ。俺がそいつに化身し飛翔していたのか……」

摩訶不思議な気持ちになるが、すぐさま頭を振り否定し、現実の有体をほざき出した。

ちょっと待った、勘違いしないでくれよな。俺は南海の孤島に暮らす海鳥じゃないぜ。そりゃ、今じゃ職場の片隅に追いやられ、離島のような職場にいるが、れっきとしたサラリーマンだ。俺だって若い頃は、無鉄砲さも手伝って、ばりばり働いていたからな。とは言え、最近は一線を退いたし、少々草臥れているのは事実だが。でも、まだまだ若いもんには負けん!

そこでがばっと起き、のたまった。

「ところで、何でこんなアホウ鳥なんたらの話題になっちまったんだ?」

疑問を呈すると、杉山に訝られる。

「おいおい、お前酔っぱらって、寝入っていたじゃねえか。変な夢でも見たんか。可笑しなこと抜かしてよ。だから、さっき話していたことと合わないんだ。どだい、アホウ鳥と俺たちを一緒にする奴があるか」

「確かに、一緒には出来ねえ。海鳥と人間を結びつけるなんてナンセンスだからな。それに、あの間抜け面のアホウ鳥と、同類視されても困る。まあ、俺も今じゃ多少動きに緩慢さがみられるが、まだまだ現役で頑張っているんだ」

胸に痞えるが、無理やり夢と現実の辻褄を合わせた。

「そうだろ、どこかで結びつきを探しても容易に見つからん。けれど、どういうわけか、酒の肴に出てきちまったんだから、仕方ねえよな」

更にこじつけ続けた。

「まあ、阿呆面は横に置いといて、優雅に大空を舞う姿を思えば、せせこましく働く現状からは、羨ましい限りだがよ。

そもそも海鳥の生態と俺らの生き様と、どんな関係があるんだか。詮索すること自体不自然だし、たとえ成り行きといえど、あまりにも唐突だと思うが。けど、こんな話は寝物語のようなもんだ。気にすることもねえが、もしかしたら、気づかぬところで共通点があるかも知れん。その辺不思議だが、案外アホウ鳥の生い立ちと、少々草臥れた俺たちを、ある意味生き様の延長線で結びついているかもしれんな。はっきりとした根拠は示せねえがよ」

上田の屁理屈を聞く杉山が戸惑う。

「そう言われても、どうもしっくりしねえよな。お前の説明では、どこに共通点があるのか、皆目見当がつかん」

「まあまあ、それほどマジに考えることもないぜ」

「まあな……」

杉山は腑に落ちぬまま生返事をした。

「しかし、無責任かもしれんが、夢に出る以上俺らとアホウ鳥はどこかで相通ずるものがあるんだろな。そうじゃなければ、夢に出てくるわけねえからよ」

上田が、更に屁理屈をこねて、頷きつつ結論付けた。

「まあ、結局はそういうことだ。後はあまり深く考えると、かえって頭の中が混乱するから止めとくよ。そうだな、今度の週末に、酒の肴をこの件に絞ってじっくり考えてみるか」

「そうするか、上司の悪口ばかりじゃ申し訳ねえだろ。たまには、変った肴もおつなもんだからな」

杉山が戸惑いながらも、また飲む口実と賛同すると、黙っていた小倉が酔い目で応じた。

「おお、それがいい。何やらわからんが、この問題は複雑すぎるから、一度頭を冷やすためにも次回に譲るということで、いいんじゃねえか」

すると唐突に、上田が今の話題と無関係な、己の職場の有体を節をつけ歌いだした。

「ガス抜き、息抜き、減らず口。ため口、逃げ口、嘆き節。数ある憂さは多けれど、どれもこれも一杯の美味い酒が和ませる。明日が休みと思えれば、量も増えるし唇も踊る。談論風発なんでもござれ。ああ、週末はいいもんだ。今宵は楽しい花金ぞ。老いも若きも楽しまにゃきゃ損だぜ。トコトントコトン、トコトントン。おっと、忘れるところだった」とひと言挟みし、手をかざし調子よく続けた。

「お酒の肴も、上司の虚仮下ろしばかりじゃ能がねえ。次回には、間抜け面のアホウ鳥。君らと俺らのゆかしき仲も、話題のひとつに入れよじゃないか。ハア、ヨイヨイヨイトナ」

すると杉山が図に乗り、グラスの縁を箸で叩き調子をとり唄いだす。

「まあまあ、ややこしい話は置いておき、笑み満タンの座興をお先に進めよじゃないか。ゴザレゴザレ、ソウゴザレ」

……伝々。と唄う二人の掛け合い戯言で、現実の社会に戻って、今の我らの有態をつぶさに眺めてみることに致しましょう。





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