第55話
「夫婦である前に、お互いに一人の人間であることを忘れず、対話を重ねること。エルクシード殿もリリアージェ殿も、よい顔つきをしている。互いに尊重することを忘れず、残りの期間も過ごすように」
三カ月に一度の離婚猶予期間の面談で、ジェイブ大司教は二人の顔を見やりながら、瞳を細め、そう締めくくった。
宮殿での大捕り物から十日ほどが経過をしていた。月が替わり、日差しはまだ厳しいが夜になれば幾分冷たい風が吹くようになっていた。
大司教に色々な感情が筒抜けになっているようでもあって、少々照れくさい。
帰りの馬車の中、リリアージェはエルクシードと手を絡ませ、横並びで座っている。
カラカラと車輪の回る音と少しの振動。車窓から見えるスフェリの街並みはいつもと変わらず、今日も平和そのものだ。王都らしい賑わいを見せている。
「エルの忙しさも、そろそろひと段落つきました?」
「そうだな。トラバーニ伯爵の尋問と強制捜査もあらかた片付いた」
「まさか、あのトラバーニ伯爵がご自分の領地の立地を生かして不正貿易と通行税のちょろまかしをしていたとは……。人というのは、恐ろしいものですわね」
リリアージェは彼の表の顔しか知らなかった。芸術家のパトロンとして名を馳せている彼は、少し傲慢で自慢が過ぎるところもあったが、悪い人には見えなかった。
その彼が、長年にわたり領地を通る街道の通行税の額を国に過少報告していたことも、エルメニド側の商人と手を組んで盗品を流通させていたことも、リリアージェにとってはまさに青天の霹靂。
聞けば、エルクシードはニコライと一緒に伯爵の不正の調査を進めていたようだ。
だが、今一つ証拠に欠け、追及することが出来なかった。
「結果的にダリアンに借りを作ったことになるな。悔しいが、彼がばらまいた書類が証拠として決め手になった」
「伯爵はとても驚いたでしょうね」
「あの日、宮殿から慌てて逃げ出そうとしていたところを、殿下が速やかに拘束した」
社交シーズンを締めくくるはずの宮殿での舞踏会は結果大きな騒ぎに発展した。
何しろ、大泥棒とトラバーニ伯爵の捕縛という、大きな出来事が起こったからだ。
巷を騒がせる大泥棒の正体が、今をときめくダリアン・ロンターニということは多くの人々に衝撃をもたらした。彼はその甘い顔でご婦人方から熱烈な支持を得ていた。彼は陰謀に巻き込まれたのだと言って、彼の無実を訴える投書が何通も届いたくらいだ。
彼のヴァイオリンの腕を見込んで自身が開催する演奏会に招いたクラウディーネも、この報がもたらされたときは、さすがに落ち込んでいた。
ニコライに「あんな外面のいい男に騙されて」とかなんとか、当て擦られたそうだが、クラウディーネは反論が出来なかった。悔しそうに歯を噛みしめて彼女はリリアージェに「一つ勉強になったわ」と吐露した。
しかし、あの人当たりの良さはもはや才能ではないかとリリアージェは思うのだ。まさか彼が裏で泥棒をしているとは考えつかなかった。
「結局、花火をあげていたのは、ダリアンのお仲間でしたの?」
「それは分からない。宮殿のすぐそばで花火をあげていた男たちは、あれは宮殿の余興の一部だと信じ切っていた」
花火師にとっては災難極まり無い話だ。金で雇われていただけなのに、犯罪の片棒を担がされていたのだ。彼らが人間不信にならなければいいと、リリアージェは願った。
ひとつひとつを尋ねていくと、それは本当に小さな細工の積み重ねだった。
ダリアンは下働きとして事前に宮殿に侵入をして、シャンデリアに細工をした。大広間の窓の上にも同じように仕掛けを施した。清掃用の小窓の一部を開けておいて、そこから大きな薄紙を巻き付けておいた。
紙は細い糸で屋根裏部屋の扉と繋がっていた。あらかじめ少しだけ開けておいた扉を、ちょうどよい頃合いに下働きに閉めに行かせる。すると、紙を巻いていた細工が引っ張られた糸によって外れ、あたかも窓の外に誰かがいるような影が浮かび上がる。
知ってしまえばなんてことのない細工である。
しかし、予期せぬ花火に驚いていた招待客らはダリアンの扇動の声にまんまと引っかかった。
「本当に見事に騙されましたわ。わたくし、てっきり同郷のヴァイオリン奏者だと思っていましたのに」
ため息交じりにしみじみと呟いた。
「今、セルジュア音楽院に人を遣っている。ダリアン・ロンターニというのも、偽名だろうな」
「まさか」
「泥棒が本名を軽々しく名乗らないだろう。あそこまで人々の印象に残るように、振舞っていたんだ。私なら、偽名にするか他人の名前を借りる」
「ということは、ダリアン・ロンターニという別の人間が実在するということですの?」
「調査で明らかになることだ」
まだしばらくはこの話題で宮殿はもちきりになるだろう。手際の良さもさることながら、彼は不正を暴いて見せた。犯罪者であるトラバーニ伯爵ですら、ダリアンの人たらしにやられて、ずいぶんと隙を見せていたそうだ。でなければ、不正の証拠を彼が持ち出せるはずもない。
リリアージェとしては、彼が執拗なまでに自分に構ってきた理由を知って、少々面白くないのだが。セルディノ家で仮面舞踏会が行われた日、ダリアンはかの家から盗みを働いた。こっそり宿に戻るところをリリアージェに目撃をされた。暗がりだったため、顔の判別はついていなかったけれど、確かにあの一瞬目が合った。
彼はリリアージェがそのとき見た顔を覚えているか、確かめたかっただけだ。そして、もう一つ。ブリュネル公爵家の嫁だから。
エルメニド統治領のトップであるブリュネル公爵家に一泡吹かせてやろうと考えて、リリアージェを誘惑しようとしたそうだ。
(だいたい、人のことをバカにし過ぎなのよ! わたくし、エル以外の人間なんて好きにならないもの!)
隣にいる本人が聞いたら、頬を緩めっぱなしにしそうな台詞をリリアージェは心の中で吐いた。
あの舞踏会以降エルクシードは事件の後処理に忙殺されていた。今日が久しぶりの再会である。気になっていたことの顛末も聞くことが出来て満足した。
もちろん、エルクシードと会えたことも嬉しい。
(けれど、あの日わたくし、たくさんお説教をされてしまったのよね。エルったら心配性で過保護なんだから)
どうして一人で歩いたのだと言われても、正義感を発揮したのだから仕方がない。だって、騒ぎが起こっている宮殿で、一人で歩いている人間を認めれば気になるし、政務棟へ誘導するのが、正しい女官ではないか。
と言ったら「きみは女官ではなく、妃殿下の話し相手だろう」と諭された。確かにそうだが、括りで言えば女官だ。
エルクシードは過保護なのだ。最後リリアージェは追いかけた人間を幽霊と間違えて叫び、その声に釣られて彼はあの場に駆け付けたらしい。
結果、リリアージェも少しは役に立った。あの場でそう主張をしてみたら「それとこれとは話が別だ。こういうときは、絶対に誰かもう一人側に付けるんだ」と倍になって返ってきた。
「犯罪者の話題はこのくらいにして、今日はお茶でもしていこう」
「あら、お仕事はよろしいのですか?」
「たまには息抜きも必要だ。それに、母上を呼んである。三人で甘いものでも食べよう。きっと、母上も心配しているはずだ」
「それは確かに。エルもだいぶ、気の付く夫になりましたわね」
わざと茶化してみせると、エルクシードも乗ってきた。
「きみの気を引きたくて必死なんだ」
エルクシードがリリアージェの手を持ち上げ、甲に口づけを落とした。一瞬だけ触れた唇の感触に、ドキリとする。
それを悟られないように、リリアージェは高い声を出す。
「ふふふ。離婚猶予期間はすっかり、結婚式のための準備期間になりましたわね」
「けれど、本当にスフェリの大聖堂でなくていいのか? 領地の教会という希望だが、こじんまりしすぎだと思うが」
「あら、わたくしはすでに人妻ですもの。ささやかなくらいでちょうどいいのです。領地の屋敷のみんなにもドレス姿を見てもらいたいですし、招待客も多くなくていいのですわ」
エルクシードとのすれ違いを解消したリリアージェは、彼との婚姻維持継続を断る理由など何もない。結果、この期間を使って花嫁衣装を仕立てることにした。
ヘンリエッタはまだちょっと不満そうだが、最終的にはリリアージェの意見を尊重してくれた。エルクシードに「次に何かしでかしたら、本気の本気で覚悟なさい」と念押しすることは忘れなかったが。
「きみと改めて結婚式を挙げられるのを、楽しみにしている」
「八歳の時のあれは本当に形式的なものでしたからね」
確かリリアージェの記憶では、どこかの礼拝堂で、司祭の前で結婚証明書に署名をしただけだった。当時のリリアージェは結婚のためにサフィルに来たことは理解をしていたが、自分が結婚をする当事者だということに対して、どこか他人事だった。
今隣にいるエルクシードが柔らかく目じりを下げているから、リリアージェは彼との未来に思いを馳せることが出来る。
年が明けて、春になればエルクシードとの二度目の結婚式だ。
「釣った魚には、きちんと餌を与え続けてくださいね?」
「もちろん。離婚猶予期間が明けたら、もう容赦はしない」
「容赦?」
リリアージェはこくりと首を傾けた。
「もう逃がさないということだ」
「楽しみですわ」
リリアージェは笑った。
春が、楽しみでもあった。
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