第56話
冬の荒ぶる風も幾分穏やかになってきた、ディアモーゼ宮殿の一角。
会議の間から出てきたニコライは、凝り固まった首を左右に倒した。
「はあ。ブリュネル公爵の後任人事、揉めてるなあ」
人の波が散り散りになったところで、ニコライがため息を吐き出した。隣を歩くエルクシードは「殿下」と小さな声でたしなめた。威厳も何もあったものではない。
「候補者たちの中で、これという決め手になる人間がいないんだよねえ」
父である国王からエルメニド統治領の後任指名を丸投げされたニコライは渋面を作ったままだ。
「ブリュネル公爵もこんな引責辞任みたいな形であっさり辞めなくてもいいのにさ。しかも、宮殿での役職もいらないとか。引退とか……。今まで仕事の鬼だったのに、何あの変わりよう」
「父上にも色々とあるのです」
エルクシードは簡潔に答えた。まさか、これまで仕事の鬼だった原因が、妻から嫌われていると仕事に逃げていただけとは言えまい。父の名誉のためである。
言葉足らずで夫婦間に溝を掘ってしまうのは、血のなせる業だろうか。エルクシードも父公爵も、だいぶ深い溝を掘り続けていた。
「私も早くも引退したい。いいなあ。夫人と一緒に夏は避暑、冬は避寒。これからは四六時中妻に付きまとう所存です、ってこれ本当に引責辞任なの? なにか、体よく利用された気がするのは私だけなのかな?」
「……」
一体、なんて手紙を送ってよこしたのだ。エルクシードは早くも頭痛がしてきた。余生を楽しむ気満々な文面である。
ブリュネル公爵はエルメニド統治領のトップとして、一連の不祥事の責任を取りその座から降りることになった。
エルメニド統治領内ではサフィルの法律が適用され、サフィル人が重用される。
トラバーニ伯爵はかの地で商人たちと手を組み、エルメニド人たちから多くを搾取していた。
現地では、サフィル側への不満が蓄積されている。彼らに誠意を見せるためにもブリュネル公爵が辞任をすることは理にかなっている。
本音としてはヘンリエッタに離婚を突きつけられた公爵が慌てて働き方改革ならぬ引退決意をしただけなのだが、そのあたりのことについてはあえて声を大にして言うことでもない。
ちなみに、四六時中付きまとわれることが決定したヘンリエッタはというと、夫の帰還日が近づくにつれてそわそわしている。今後は領地を生活基盤にするとのことだから、エルクシードとしても、母にリリアージェを独占されずに済んで万々歳だ。
エルクシードに愛されたいと願ったリリアージェ。己に好意を示してくれる彼女の純粋さと健気さが愛おしく、胸の奥にたくさんの感情が溢れ、彼女のすべてを欲してしまう。
今ですらリリアージェを想うだけで心が一杯になる。
「まあ、後任についてはうまいことやるさ」
ニコライが立ち止まった。
釣られてエルクシードも立ち止まる。窓の外から見えるのは、宮殿の別の棟。いつもと変わらぬ光景だ。
「もうすぐきみも結婚式か」
「ええ」
「クラウディーネが寂しがっていたよ。この一年、楽しかったって」
「リリアージェが宮殿を辞するのはまだ少し先ですよ」
「けれども、あっという間だろう。きみも、今度こそリリアージェ夫人を泣かさないように」
「泣かせませんよ。絶対に」
「妻を怒らせると怖いからね」
「それはこの身に染みて痛感しました」
「私なんか毎日戦々恐々としているよ」
ニコライがひょいと肩をすくめた。
長いようで短かった一年が、もうあと少しで終わる。あと二カ月もすれば、エルクシードのもとにリリアージェが帰ってくる。
彼女を早く正真正銘己だけのものにしてしまいたい。己の内にある、獰猛な男の本心を見せることに、まだ少し躊躇いはある。
それでも、お行儀のよい関係を続けることが、リリアージェを傷つけてきたのなら、エルクシードは男としてリリアージェを求めたい。
もう絶対に離さない。彼女を守り、慈しみ、生涯彼女だけを愛する。
窓の外に、こぼれんばかりの笑顔を向けるリリアージェの幻が浮かんだ。
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