第52話
舞踏会は中止となったが、招待客を直ちに帰すわけにも行かない。人の波に紛れて狼藉者が逃げてしまう恐れがある。
しかし、今日この場に招待をされているのは貴族たち。全員を犯人扱いし、混乱の中長時間拘束をすれば逆に反感を買う恐れがある。難しい匙加減だが、ニコライとエルクシードならば大丈夫だろう。
(わたくしの旦那様はとても優秀ですものね)
リリアージェはクラウディーネと共に、大広間のある宮殿表側にある館から奥へ戻ることになった。近衛兵たちに守られているため、心にもゆとりがある。王妃と王太子妃が一緒に襲われる可能性も無きにしも非ず、ということで高貴なる女性は別々に戻ることとなった。
クラウディーネはリリアージェたち女官を気遣うほどの余裕があり、その空気が周りにも伝播しているのか、一緒に歩く者たちは皆顔色も悪くない。
しっかりとした足取りで、館を出て、奥へと進んでいく。
外回廊を歩いていると、中庭の生垣からスカートの切れ端が覗いて見えた。
「あら……?」
リリアージェが誰何の声を出すと、それに気が付いた近衛兵の一人が鋭い視線をそちらに向ける。
今にも殺ってしまいそうな気配に、リリアージェのほうが震えあがる。気を張り過ぎるにもほどがある。
「わたくしが様子を見ますわ」
「しかし」
異議を唱える近衛兵を宥め、リリアージェはクラウディーネに一言告げて、そろりと足を踏み出した。そっと近づき、生け垣の奥を覗き込む。
「あなたは……」
そこにいたのは、何度か顔を会わせたことのある一般女官だった。黒い髪をまとめ、女官用の飾り気のないお仕着せを身に付けた彼女は、確か商家出身で以前リリアージェの失敗を自らの機転でなかったことにしたこともあった。
「どうしたの、あなた……ええと、コルレアだったわね」
「あなた、わたしの名前……」
一般女官はリリアージェがまさか己の姓を覚えているとは思っていなかったのか、こちらを凝視した。リリアージェは少しだけ肩の力を抜いて、わざととびきりの笑顔を作った。近衛兵にも、彼女は顔見知りだと印象付けた方がいい。
「わたくし、同じ宮殿で働く人の名は、出来る限り覚えるよう心掛けておりますのよ。それよりも、立てまして?」
「どうやら、足を痛めてしまったみたい」
コルレアは力なく呟いた。
「何があったというの?」
「今日は舞踏会だもの。色々と所用を言いつかって行き来をしていたところ、誰かにぶつかってしまったようで。そのときの弾みで倒れたの。足を変に庇ったせいね。痛めてしまったというわけです」
不慮の事故ということらしい。
「わたくしたちが気が付いてよかったわ。今、大広間は大変な騒ぎだもの」
リリアージェは近衛兵に、コルレアの手当てをするよう頼む。彼はすぐに承諾をして、コルレアの了承を得たあと、彼女を抱き上げた。彼女には適切な処置が必要だ。
再び歩き出し、前方の一団を追いかけることにした。あたりに人気は無く、大広間での騒ぎが嘘のように静かだった。
今日の舞踏会は表側の棟が解放されていたが、中ほどのこの辺りの小館は解放されていない。篝火は平素よりも多いが、兵士たちも表側の騒動に人を取られているのか、静寂が支配をしている。
(なんだか、さっきの喧騒の方が夢なんじゃないかって思えてくるわね)
それぞれが無言で、だからこそ余計に大泥棒が出たことが幻のように感じた。ただ、漠然とした不安が胸の中にあるのだろう。リリアージェの歩調は普段よりも早かった。
歩いていると、視界の端を何かが揺らいだ。リリアージェはそちらに顔を向けた。
(何かしら?)
何か、影が動いた。
リリアージェは咄嗟に一緒に歩く近衛兵の顔を見た。長身でがっしりとした体躯の彼はコルレアをしっかり抱きかかえ、前を見据えている。どうやら、リリアージェのみ気が付いたらしい。
どうにも気になり、リリアージェはもう同じ場所を見た。
特に変わったところはなかったが、気が付くとリリアージェは足を踏み出していた。
「ヴィワース夫人?」
「招待客の誰かが迷っているのかもしれませんわ。わたくし、ちょっと見てまいります」
「え、ちょっと、待って」
背中に近衛兵の焦り声を受けたが、リリアージェは構わず足を前に向けて、駆け出した。
夜会用のドレスが少々重たい。スカートを膨らませるために、パニエをたくさん仕込んだ弊害である。
ディアモーゼ宮殿は広く、いくつもの小宮殿が外回廊で繋がっている。舞踏会が行われていた大広間は宮殿のちょうど真ん中に位置し、その奥にも中庭を挟んで左翼、右翼と建物が並んでいる。
招待客らは宮殿入り口近くの政務棟へ誘導をされているはず。もしも、迷っているのなら責任を持って案内しなければ。
リリアージェは建物の影から顔を出した。目を凝らすと、うっすら人影が浮かんでいるのが遠目に確認できた。
(誰かしら……?)
昼間とは違い、光量が少ないため目視で詳細までは確認が出来ない。
リリアージェは訝しがりながら、そおっと足を進めた。人影は男性で、影の形から帯剣はしていないようだ。ということは見回りの衛兵ではない。
(やっぱり、迷子?)
リリアージェは足を進めた。
人影が向かっている先は宮殿の奥。人の多くいる場所とは反対側だ。
けれども、人影のあとを追い続けながら、リリアージェは少しだけ疑問を持った。彼の足取りに迷いが無いのだ。迷子ではないのかもしれない。頭の中で、これはどういうことだろう、と考え、とある可能性が浮かび上がった。
もしかしたら、逢引きかもしれない。舞踏会で、人知れず男女が密会をするのは、お約束といってもいいほど、頻繁に行われる。だとしたら、後をつけるのは無粋というもの。
引き返そうと考えたところで、人影が壁に吸い込まれた。
「まさか……幽霊?」
自分で呟いた台詞に、背筋が凍った。
いや、そんなことはない。とは、言い切れないのではないか。築百五十年ほどの宮殿には、勤め人に語り継がれるその手の話があったりするのだ。
リリアージェも世間話の一環としていくつか聞かされたことがあった。あれはもう、洗礼のようなものだった。こちらの反応を見て、話し手は明らかに楽しんでいた。
リリアージェの頭の中に、以前聞きたくもないのに聞かされた幽霊話が浮かんだ。
「いや、違う。迷子かも……しれないし」
最後は尻すぼみになってしまう。今更なのだが、どうして明かりの一つも持ってこなかったのだろう。とても心細くて、前と後ろ、どちらに進むべきか足を踏み出す方向が定まらない。
じっとその場で身動きが取れずにいると、視界が再び黒い影を捕らえた。
(ひぃぃ!)
もはや、半泣きである。
怖くて、がくがくと震えそうになる足を、どうにか堪える。
(わたくしは、クラウディーネ様のお話し相手なのよ! ええい、こんなところで幽霊に負けるわけにはいかないわ!)
もはや幽霊一択で、心の中で話を進め、リリアージェは己を鼓舞した。
とにかく、この地面に縫い留められているように動かない足をどうにかしなければ。
リリアージェはゆっくりと片足を動かした。一度動けば、あとはなんとか交互に足が前に出た。
そのまま、影を見かけた方へゆっくりと歩き出す。
けれども、怖いものは怖い。そろそろと歩いていると、突然目の前に黒いものが現れた。
リリアージェは今度こそ、頭が真っ白になった。
「きゃぁぁ――……」
高い悲鳴は、途中からかき消された。口を塞がれたのだ。
「ごめん、少し黙っていてくれないかな?」
などと言われて、恐慌状態に陥った人間が素直に言うことを聞くだろうか。否、である。
リリアージェは何が起こったのか、訳も分からず目をつむったまま両手を動かした。
自衛本能だけで動いていると、突然に口元から手が離れた。
「いて。ヴィワース夫人、だよね? きみ、案外に元気なんだね……」
砕けた喋り方はどこか面白がっているようでもあった。何か既視感があるのに、思い出せない。いや、目の前の男は幽霊のはず。そもそも幽霊というのは、意思疎通が出来る生き物なのだろうか。
リリアージェは恐る恐る、瞳を開いた。咄嗟に目をつむっていたのだ。
目の前にいるのは、ひげ面の男だ。月明かりに髪の毛が反射をしている。明るい髪色なのか、そのおかげで、暗がりではあったが顔の造作まで目視で来た。元より、ずいぶんと近しい距離感だった。
「あなた……幽霊?」
呆然とつぶやくと、男性は数秒真顔になり、そのあとくつくつと笑い出した。
あまりにも屈託なく笑うから、リリアージェは拍子抜けしてしまう。
「あなた……失礼よ」
「いや、ごめんね。さすがに幽霊と言われるとは思わなくて」
リリアージェは彼の足元を確認した。きちんと地に足が着いていることにホッとした。
男性はまだ肩を震わせていて、リリアージェはその姿に頬を膨らませた。
「だいたい、あなたがこんな人気のないところをふらふらしているのがいけないんだわ。今は宮殿の一大事なのよ。お客様は一時的に執務棟の方で待機をしなければならないの」
どうやら人間らしいと、確信を得たリリアージェ先ほどの恐怖から解放されて、王太子妃に仕える女としての威厳を損なわないよう、強気な声を出した。
できれば、幽霊に怯えていたさきほどまでの態度は忘れ去って欲しい。
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