第50話

 休憩時間が終わり、リリアージェはエルクシードと一緒に宮殿内を歩いていた。


(お仕事は大丈夫なのかしら?)


 リリアージェのためにただでさえ忙しい彼が寝る間を惜むくらい多忙になるのは本意ではないのに、もう少しだけ彼と一緒にいられることに喜んでいる自分がいる。


「そういえば、先日トラバーニ伯爵がいらしていましたのよ。彼はダリアンの唯一のパトロンですもの。自分の目の確かさをとても自慢しておいででしたわ」

「ダリアンか。すっかり宮殿に自分の場所を作ったな」

「あの方、とても不思議ですわよね。するりと、心の中に入り込んでくるように、警戒心を解くのがお上手なのですわ」


 リリアージェは宮殿の奥にいるため、話題はもっぱら女性たちの間で流行っているものや、見聞きしたことが中心だった。


 クラウディーネ主催の演奏会以降も、彼は頻繁に宮殿のサロンに顔を出していた。マリボンでの音楽会は無事にすべての日程を終え、スフェリ社交界を渡り歩いている。

 宮殿は、市民階級には敷居が高いが芸術家は別だ。貴族の同伴があれば入ることが出来る。また、音楽好きなクラウディーネは彼を頻繁にサロンに招いていた。


「そういえば、ダリアンはわたくしと同じセルジュア出身なのだとか」

「セルジュア……?」

「ええ。そうおっしゃっておりましたわ」


 リリアージェは世間話のついでとばかりに話した。今期の話題の中心人物なのだから、自然と彼に関する話が多くなってしまう。


 何しろ近頃のご婦人方ときたら、彼の話ばかり口にするのだ。話題に乗り遅れまいと皆が右に倣え状態になっているため、リリアージェは内心感心している。一人の男性に、ここまで熱狂するとは、流行というものはすごいのだと。


「そろそろ、社交シーズンも終わりですわね」


 夏の盛りを終え、来月になれば人々は徐々に領地へと戻っていくだろう。秋は収穫の時期でもある。


「そうだな。月終わりに開催される舞踏会で実質終わりだな」

「寂しくなりますわね」


 スフェリに残るのは王都で要職を得ているものか、跡取りの重圧のない道楽者かくらいになる。


「今年は母上もスフェリに残ると言っていた」

「はい。社交シーズンも終わり、わたくしも時間が取れますので、もう少し頻繁にお屋敷に顔を出せますわ」


「では、三人で食事会でもしようか」

「それはいい考えですわね!」

「私から、母上に話しておく」

「わたくしも手紙を書きますわ」


 二人は微笑みあった。こういう些細なことで心が通じるのが嬉しくもある。


「少し、散歩をしていかないか?」

「……少しだけなら」


 エルクシードともう少しだけ話したくて、リリアージェは頷いてしまった。クラウディーネも「ゆっくりしておいでなさい」と言ってくれたから、まだ少しだけ余裕はある。


 宮殿の奥へと続く庭園へと足を踏み入れ、二人でゆっくりと歩いた。お茶と一緒にお菓子も食べたため、歩いて消化をさせたい。

 なんだかんだとお菓子を食べる機会が多くて、最近頬がぷにぷにしてきた気がする。これは由々しき事態だった。


 二人はあまり奥まで行かずに、建物近くの庭園を歩いていく。

 そろそろ戻ろうかと足を進めていると、小館の外側で人を見かけた。赤みがかった金髪の男性である。


「ダリアン」

 リリアージェが名前を呼ぶと、彼がこちらへ顔を向けた。


「一人か」

「ええ。少し散策を。お二人は、仲がよろしいのですね」


 ダリアンの視線が下を向き、それからもう一度リリアージェたちへと戻った。手を繋いでいるところをばっちり見られて、気まずい。夫婦なのだから、別に手くらい繋ぐのだが、人に指摘をされると顔に熱が集まってしまう。


「ええ。わたくしたち、夫婦ですもの」


「あなたのような美しいお方が、その花を咲かせたときにはすでに一人の男のものになっているという事実に、多くの男たちが絶望をしたのでしょうね」


「――っ!」


 優しくも切なげな声を出されて、リリアージェは息を呑んだ。そろりと、横を窺うと、エルクシードが冷気を放っている。


「もちろん、私もそのうちの一人です。このように可憐で愛らしいリリアージェ嬢と知り合う機会があったというのに。もうすでに他の男のものだったなんて。しかも、あなたはあなたの意思とは関係なく、幼いころからブリュネル公爵家のものだった」


 ダリアンは、エルクシードの背後に漂う極寒の空気に気が付いていないのだろうか。リリアージェはそれはもうビシバシと感じている。今すぐここから逃げ出したいと思うくらいには横から発せられる空気は冷たすぎる。


 リリアージェは隣のエルクシードに聞かせるために口を開く。


「わたくし、彼が夫で幸せですわ」

「現在、お二人は別々に暮らしているというのに?」


 ダリアンは目を少しだけ眇めた。


「私たちの事情など、貴様には関係の無いことだろう」

「失礼いたしました。リリアージェ様はとてもお美しい方。その美を湛えたかったのですが、言葉の選び方を間違えてしまいました」


 エルクシードの厳しい視線を、ダリアンがふわりと受け流した。


(うう……早く逃げたいわ)


 寿命が縮まりそうなので、切実だ。


「では、私はこれで」

 ダリアンが一歩足を引き優雅に礼をした。ホッとしたのもつかの間。


「待て」

 エルクシードが彼を呼び止めた。


「他に、何か?」

「ロンターニ氏はセルジュアの出身だったか」

「ええ、まあ。彼の国の王立音楽院を卒業しております」

「そうか」

「卒業証書をお見せしたほうがよろしいでしょうか?」


 ダリアンは茶化すような口調で肩をすくめた。


「いや。ただ……少し気になっただけだ。あなたの発音は、あまりセルジュア人っぽくないと」


 サフィルを含めた数か国では同じ言語の言葉が使われている。とはいえ、広い範囲にわたり使用されているため、地方によって多少言葉や発音は変化をする。

 リリアージェは小さなころにサフィルへと移住したため、セルジュア風の発音がどんなものだったか、忘れてしまった。


「私は音楽活動で色々な国を回りますから。多少、その地方独特の発音やら言い回しが移ってしまうようなのです」

「ではエルメニド滞在歴もあるわけだ」

「それが何か?」

「いや、彼の地方の発音の癖が耳に残っただけだ」

「それはお恥ずかしい。私は滑らかなサフィル宮廷風の発音をできているでしょうか?」


「もちろん。あなたの言葉は聞き取りやすいわ」


 男二人の緊張をはらんだ空気を取り払いたくてリリアージェは朗らかな口調で口を挟んだ。


「失礼した。今後、他国の話でも聞かせてほしい」

「喜んで」


 笑顔で答えたダリアンは今度こそ歩いて行ってしまった。

 エルクシードは黙ったままだった。

 リリアージェはそっと彼を窺う。口元を引き結ぶ彼の顔からは、感情があまり読み取れなかった。


「彼は一体何をしていたんだ」


「きっとお散歩ですわ。宮殿が珍しいらしくて、ああして歩いているのですわ。最近ではお散歩の権利を巡って、女官たちが熾烈な争いを繰り広げているとかなんとか」


 物腰の柔らかいダリアンは宮殿の女性たちから大人気だ。さすがに宮殿の奥まで入ることはできないが、女官たちは進んで彼を案内したがる。短期間の間で、すっかり宮廷人たちを魅了してしまったのだ。

 リリアージェの説明を聞いたあと、エルクシードは再び沈黙してしまった。


「エルクシード様?」

「いや、なんでも」


 と言った彼はそのあと再び口を開き「エル、だ」とリリアージェに愛称呼びを強請った。

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