第49話

 リリアージェはバスケットにお菓子をいくつか詰めてもらい、宮殿表側にある政務棟へ足を踏み入れた。政治の舞台でもあるここは、文官が多く同じ宮殿だというのに、空気が引き締まっている。


「リリー」

 案内人の後ろを歩いていたリリアージェは、声の主を認めて破顔した。


「エルクシード様」

「ここからは私が案内をする」


 エルクシードはリリアージェから籠を奪い、歩き出す。大して重くも無かったのだが、心遣いがくすぐったくもある。


 あれから少し経過して、二人は互いに時間を合わせてお茶の席を共にするようになっていた。

 義務ではなく、会いたいからという単純な理由であることが嬉しい。


 今日、政務棟まで赴いたのは一度は夫の職場を見てみたいという好奇心からだ。それにせっかくなのだから、ディアモーゼ宮殿の中を探検してみたい。そういうわけで、普段とは違い、藍色のドレスを選んで、少々大人っぽく仕上げてみた。これなら、浮ついているとは思われないはず。


 通された応接間は、宮殿奥にいくつもあるサロンよりも華やかさを押さえた内装だった。もちろん調度品はすべてが一級品である。そこは宮殿なのだ。


「今日は、わたくしのおすすめのお菓子をお持ちしましたわ。クラウディーネ様のお茶会で、わたくしも色々なお菓子を食べ比べしましたの」


 最初こそお菓子の数を間違えて伝えてしまうという失敗をしたリリアージェだったが、その後は順調に上級女官として采配するようになっていた。もちろん、まだ一人では不安があることのほうが多いのだが、ガルソン夫人によれば、あとは経験だという。

 長年宮殿に仕えているガルソン夫人が言うのだから、その通りなのだろう。


「ちょうど甘いものを取りたいと思っていたところだ」

「ふふふ。たくさん召し上がってくださいな。もちろん、皆さまの分もありますのよ」


 出来る妻は、気配り上手でもある。彼の部下の分もきちんと用意をしてある。

 お菓子を食べながら、最近の出来事を語り合い、ときに笑い合う。幸せな時間だった。


「そうですわ。わたくし、この間刺繍を刺したのです」


 リリアージェはもう一つ、彼に渡したいものがあることを思い出す。

 取り出したのは手巾である。空いた時間にせっせと刺した。


「私に?」

「あの……、妻っぽいことをしてみたくて」


 リリアージェはぽっと頬を赤らめた。昔から憧れていた、旦那様の身に着けるものを用意する妻というシチュエーションである。


 エルクシードはリリアージェが差し出した手巾を広げた。


「ありがとう、嬉しい。……可愛い馬? だな」

「にゃんこですわ、エルクシード様」

「あ、ああ。確かに、猫だな。ああ、猫にしか見えない」


「わたくし、久しぶりに絵から刺繍の図案を起こしましたの。お母様から、わたくしの図案は独創的すぎるところがあるから、普段は既存の図案を写しなさい、と言われているのですが、エルクシード様への最初の贈りものですもの。張り切ってしまいましたわ」


 絵心の無さをヘンリエッタから独創的と表現されるリリアージェである。手巾には茶色の不思議生物が刺繍されてある。

 ちなみに制作過程でリリアージェの手元を覗き込んだクラウディーネは「見慣れてくると愛くるしいわね」という感想をくれた。


 リリアージェとしても、今回のこれは自信作だったため、満面の笑みで「はい」と答えた。

 エルクシードはまじまじと手巾の上に刺されている猫を眺めた。近くにはエルクシードのイニシャルも入っている。そちらはとても美しい流れるような筆致だ。


「この文字もきみが?」

「はい。昔からカリグラフィーは得意なのですわ」


 えへんと胸を張ると、エルクシードは手巾とリリアージェを見比べた。


「ありがとう。大事に使わせてもらう」

「ふふ。妻っぽいことが出来て嬉しいですわ」


 二人で話し合った結果、リリアージェは離婚猶予期間中は宮殿で行儀見習いを続けることを決めた。夫の見極め期間でもある。


 とはいえ、エルクシードはきっと、家庭にも気を配ってくれるだろうとリリアージェは予感している。離婚をすると決めたあと、リリアージェは彼に本音をぶつけまくったし、ブリュネル公爵夫妻のすれ違いの顛末を間近で見ていた二人である。


 もちろん、リリアージェは彼が多忙なことも理解をしている。

 しかし、人生の先輩に言わせると、男は安心するとすぐに妻を放置するという。難しい問題である。


 リリアージェの気持ちとしては、せっかく宮殿に上がったのだから、せめて離婚猶予期間と定められた一年間はクラウディーネの側で勉強をしたい。この経験は今後、ブリュネル公爵家で役に立つ。

 彼も来年には公爵位を継ぐことになる。そうすれば、リリアージェも公爵夫人として、スフェリ社交界に身を置くことになる。女の昼間の社交は、夫の手助けにもなる。であるならば、今のうちに学べることは沢山吸収しておきたい。


「妻らしいこと、か」


 エルクシードがぼそりと呟いた。

 彼はやおら立ち上がると、リリアージェの隣へと腰を落とした。


「リリー」


 背中に腕を回され、引き寄せられる。ドキドキする間もなく、上を向かされ、口付けが落ちてきた。

 合わさった唇同士の感触に、背中がぞくぞくする。エルクシードは角度を変え、リリアージェの柔らかな唇を丹念に撫でていく。触れ合う箇所がとても甘くて、互いに唇をついばみ合う。


「エルクシード様」


 身体から力が抜けそうになり、つい上目遣いで彼を見つめてしまう。

 執務室の近くで、することではない。そういう抗議を込めた視線を送った。


「愛情表現を怠ると、大変なことになることを学んだ」

 ひどく真面目な声が返ってきた。


「で、ですが、誰が入ってくるやもしれないのに」

「それよりも、そろそろ私のことをエルとかエルクとか、愛称で呼んでほしい」

「愛称……ですか?」


 リリアージェは目をぱちりと瞬いた。予想もしていなかった要求だ。


「嫌か?」

「い、いえ。そういうわけでもないのですが……。エル様というのも何やら妙で……?」

「そこはエルでいいと思うのだが」

「うぅ……」


 心理的ハードルが高すぎる。


「私たちは夫婦だろう?」

「ソウデスネ……」


 今までずっとエルクシード様と呼んでいたのに、突然のお願いは慣れるのに時間がかかりそうだ。


「では今から練習だ」

「へ?」


 ぐいと顔を近づけられ、その分反射的に身を後ろにずらしたが、彼の腕が背中に回っているため、逃げるにも限界がある。


「リリー」

「ひゃい……」


 耳元で名前を囁かれたリリアージェは思わず声がひっくり返った。妻の欲目でもなんでもなく、エルクシードは色気があり過ぎではないか。こんなの、反則過ぎる。

 こっそり彼を窺うと、なにやら待ち望んでいる様子。これは、愛称で呼ばないと解放してもらえないらしい。


(ううう……、心の準備が)


 リリアージェは騒ぎ立てる心臓を一生懸命宥めた。決意を込めて、息を吸って、それから一言。


「……エル」


 初めての呼称に、語尾が震えた。


「もう一度」

「ひゃっ」


 耳元を、少しだけかすれたエルクシードの声にくすぐられる。


「……エル」

「もう一度」

「もう! 何度言わせたら気が済むんですの!」


 こっちは恥ずかしくってやっていられないというのに! そういう思いを込めて爆発すると、エルクシードがくつくつと笑い出す。


「何度でも。きみの愛らしい唇からエルと呼ばれると、こんなにも嬉しいものなのだな」


 さらにぎゅっと抱き寄せられ、逃げ場が無くなる。


「リリー」


 駄目押しに呼ばれ、リリアージェは何度も「エル」と呼んだ。

 額や頬に唇を寄せられ、そのたびに腰が砕けそうになる。けれども、彼に拘束されているため逃げることもできない。もちろん、逃げる気など無いのだが、甘さを多分に含んだ夫婦の距離に心が浸食をされていく。

 このままでは身が持たないかもしれない。いろいろな意味で命の危機だ。


「エルクシード様、そろそろお時間なのでは?」

「エル」

「ううう……エル、わたくしもそろそろ戻らないといけませんわ」


 室内の暖炉の上に置いてある置時計に顔を向けると、それなりによい時間が経過をしていた。

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