第48話
そして、演奏会当日。リリアージェは柄にもなく緊張をしていた。
マリボンの野外劇場という大舞台ではない。社交シーズンのクラウディーネの戯れという位置づけの演奏会は、とてもこぢんまりとした内輪の会だ。
場所も宮殿の奥で、招待客もそれほど多くはない。
(でもでも! エルクシード様とお母様がおいでになるのよ。緊張してしまうわ)
演奏会では、みんな揃いの衣装を身に纏っている。少々時代がかったドレスは全員同じ深紅だ。
それぞれ楽器の最終調整をして、あとは本番を待つまで、というとき、ダリアンが近寄ってきた。
「緊張なさっていますか? ヴィワース夫人」
話しかけてきたダリアンはマリボンでの音楽会とは違い、抜けるような空色の上着を着ている。豪華な金糸の糸で袖や襟に刺繍が施されていて、こちらも古き良き、時代がかった衣装を身に纏っている。
「ええ。今日はわたくしの夫が観に来てくださっているのです」
夫、という単語だけやたらときらきら聞こえてしまうのはリリアージェの気のせいだろうか。とてもこそばゆくて、自然と口元がむず痒くなってしまう。
なにしろ、エルクシードと心を通わせてから、まだ数日しか経過をしていない。
「初々しいお方だ。あなたにそのような顔をさせるエルクシード・ノワール・ブリュネル様が羨ましい」
「まあ、お上手ね」
リリアージェはころころと笑った。ダリアンも釣られるように口の端を持ち上げた。
どうやら、緊張をほぐす心積もりであったようだ。
笑うことで、肩の力が抜けたのか、リリアージェは本番できちんと実力を出し切ることが出来た。
大理石が敷き詰められた中庭が本日の舞台だ。中央には、古代の神殿を思わせる小さな舞台が作られている。百年ほど前の王妃がお気に入りの音楽家のために作らせたという。
無事に演奏会が終われば、そのあとはなし崩し的に歓談の席になる。
今日はニコライも観客としてクラウディーネの舞台を見守っており、彼は大げさとも言えるくらい盛大に妻を褒めたたえた。
演奏会に名を連ねるご婦人方の夫たちも同じように妻を褒めちぎっていく。
ちなみにリリアージェはというと、ヘンリエッタに迎え入れられた。
「あんなにも小さかったリリーが、こんなにも大勢の前で立派に演奏を……。うぅ……本当に、大きく……ぐすっ……なって」
ヘンリエッタは感動で濡れた瞳を手巾で懸命に拭っている。彼女のそれはすでにびっしょりと濡れているためあまり意味を成していない。
「ありがとうございます。これもすべてお母様のおかげですわ」
「リリー」
「お母様」
初めての舞台を無事に終えたという高揚感から、リリアージェの涙腺も緩んでしまっていた。母娘でひしりと抱き合う。
「ヘンリエッタ、あまり泣くな。また体調を崩してしまうだろう」
その周りでおろおろした声を出すのはブリュネル公爵だった。彼はまだスフェリに留まっている。
「だまらっしゃい!」
一度リリアージェから身体を離したヘンリエッタが鋭い声で夫を制した。
「いや、しかしだな」
「ふんっ。いちいち小うるさいのよ。今日だって、わたくしの宮殿行きをぎりぎりまで止めようと……」
「それはおまえが心配だからだ」
「今まで散々放っておいて、よくもまあぬけぬけと……」
ヘンリエッタが手巾をぎりぎりと絞り上げる。夫婦仲の完全修復には程遠いらしい。しかし、憎まれ口を叩く彼女の頬がほんの少しだけ淡い色に染まっていることにリリアージェは気が付いた。
「あれはもう、母上の愛情表現の一環だ。屋敷でもあの調子だが、最近では執事たちも生暖かく見守っている」
エルクシードがリリアージェの背後へとやってきていた。
「そうですの。それを聞いて安心しましたわ」
彼と向き合うよう反対側を向いて、リリアージェはにっこりした。心の内にため込まず、全部吐き出しているのならヘンリエッタは大丈夫だ。
「それよりも、演奏会素晴らしかった」
「ありがとうございます」
エルクシードに褒められて、リリアージェは嬉しくなった。彼が最初から最後までずっと着席して聴いてくれていたことは、ちゃんと舞台からも見えていた。
「今度は二人きりの時に、私だけのために聴かせてほしい」
「もちろんですわ」
彼の目を見てふわりと微笑むと、エルクシードがリリアージェの頭をぽんぽんと撫でた。
「エルクシード様」
「なんだ?」
「わたくし、あなたの妻ですのよ」
「そうだな」
むむむ、とリリアージェは唇を少しだけ尖らせた。彼は絶対に分かっていない。
「頭を撫でるのは、兄が妹を褒めるときにすることですわ」
少々拗ねた物言いをすれば、彼はようやくリリアージェが言いたいことを理解したらしい。リリアージェの頭から手を離した。
「だが、ここで口付けをするわけにはいかないだろう?」
身を屈めて、耳元で囁かれた内容に、リリアージェは瞬時に顔を真っ赤に染め上げた。
「それは……そうですけれど」
「近いうちに、二人きりで会えないか?」
さらに追い打ちでデートのお誘いである。ずるい。エルクシードはどれだけ自分を翻弄するつもりなのだろう。
「もちろんですわ」
ドキドキしながら答えると、エルクシードの柔らかな眼差しを一身に浴びた。
今は、これが本物だと思うから、リリアージェも心からの嬉しさを瞳に乗せる。
エルクシードがさらに笑みを深めた。それにさらに胸をときめかせる。
今この場に、エルクシードしかいないような錯覚に陥って、リリアージェは彼の胸に頬を摺り寄せた。
「リリー……。これからはそう呼んでも?」
「ええ」
まるで自分の名前が特別になったかのようだ。ふわふわと、地に足が着かない心地になった。この先のことを予感して、エルクシードを見上げると、彼は別の方を向いていた。気になって、リリアージェは彼の視線を追った。
彼の視線の先にはダリアンがいた。
「エルクシード様?」
「いや、なんでもない。そういえば、彼もいたのだったな」
エルクシードの声が少しだけ硬いものになる。
「あの、一応言っておきますけれど……」
「分かっている。つまらない嫉妬で、きみと喧嘩をしたくはない」
ふわりとエルクシードが目を細める。自分の気持ちが彼にしかないことを、きちんと知っているという表情だった。それはそれで照れてしまうのに、穏やかな彼の微笑みにリリアージェはとくんと胸を高鳴らせた。
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