第45話
「リリー、男はどうせ口先だけなのだから、簡単に信じてはだめよ。宮廷人は、口だけは回るのよ。口だけなのだから、若い娘は特に注意が必要よ」
「母上のその言動こそがリリアージェを惑わせているのだと、いい加減に自覚してもらいたいですね」
夕食前に、二人そろってヘンリエッタのもとを訪れ、気持ちを確かめ合ったことを報告すれば、彼女は若い娘の親らしくリリアージェに注意を促した。
それに苦い顔をして返事をしたのはエルクシードだ。
寝台の上にクッションを置き、身体を起こしているヘンリエッタは険のある顔を息子に向けている。
「あら、太鼓判を押せるほど立派な息子なら、リリーにがんがん売り込みますけれどね。あいにくと、その要素が一切ないのよ。困ったことだわ……」
「目の前の母上に育てられましたしね」
「まーぁ、失礼しちゃうわねっ!」
ヘンリエッタが眉を吊り上げた。
リリアージェは親子の遠慮のない会話を聞いて嬉しくなってしまう。これこそがブリュネル公爵家の日常である。
「そういうわけで、離婚猶予期間も何もありません。今後、私はリリアージェを妻として扱います」
リリアージェの背中に回された腕に力が込められた。この先を予感させる台詞に、胸の奥が甘く疼いた。
「なにが、そういうわけで、ですか! いいこと、リリー。一時の衝動に身を任せてはいけませんよ。あなたは嫁入り前の大事な身。男が誠実で優しいのは最初の内だけなのだから、身持ちは堅くしておかないと。見極めは大事よ。それこそ、離婚猶予内に触れさせるだなんてもってのほか」
とくとくと言い聞かせる言葉の数々に、リリアージェは確かにそれは一理あるかもしれないと考えた。世間では言うではないか。釣った魚に餌をやらないとかなんとか。
宮殿に上がるようになって、リリアージェは世間一般の男女について様々なことを学んだ。
とはいえ、すでに口付けまでは許してしまっているのだが。
「嫁入り前ではありません。リリアージェはれっきとした私の妻です」
それもそうだ。今度はエルクシードの声に内心頷いた。
「大体、ブリュネル公爵家の男たちは冷たいのよ。政治家だかなんだか知らないけれど、家庭を顧みることなく、妻と子供を放っておいて。こんな男と一緒になってもリリーが苦労するだけよ」
「私は父上とは違います」
「どうだか」
ヘンリエッタが吐き捨てた。
「あの人は、わたくしが死にかけていても何とも思わないのよ……」
ヘンリエッタが顔を横に向け、窓の外を見上げた。
きっと、こういうとき彼女の頭を占めているのは、夫であるブリュネル公爵なのだとリリアージェは感じている。
エルクシードも、母の心に生じる寂寞に気が付いたのだろう。何も言わずにじっと母親の様子を窺った。
その静寂を突き破るかのように、唐突に寝室の扉が開いた。
一斉に驚き、三人は同じ方へ顔を向けた。
ヘンリエッタが目を丸くした。リリアージェもエルクシードも同じような顔を作った。
「ヘンリエッタ! 無事で、生きているのか?」
転がるように飛び込んできたのはブリュネル公爵だった。
髪の毛を乱した彼は足をもつれさせながら寝台へ近寄った。リリアージェとエルクシードは少しだけ移動した。公爵は倒れ込むように、寝台のすぐ横に膝をついた。
「お、おまえ……い、い、生きて」
「まあ、人を幽霊扱いとは。失礼なお人だこと」
ヘンリエッタは眉を吊り上げた。
ブリュネル公爵は顔を上げて、よろよろと両腕を持ち上げた。そのままヘンリエッタの頬をペタペタとさわり、彼女から「突然に無礼ね。やめて頂戴」と振り払われた。
「本物だ……」
公爵は、呆然とつぶやいた。いつもの威厳をどこかへ捨ててきてしまったのではないか、というくらい彼は焦燥していた。このように彼が取り乱したところを、リリアージェは初めて見た。
それはエルクシードも同じだったらしい。彼は石化していた。
「おまえが危篤だと聞いた。気が気ではなかった……。もしも、おまえが死んでいたらと思うと……眠ることもできなかった」
「人を勝手に殺さないで頂戴。わたくし、可愛いリリーの花嫁姿を見るまでは絶対に天に召されるつもりはございませんわ。残念でしたわね!」
ふんっとヘンリエッタが横を向いた。
リリアージェはエルクシードを見上げた。すると、彼と目が合った。彼の瞳の中にも困惑が浮かんでいる。おそらく自分も同じような表情をしていることだろう。
「起き上がっていて平気なのか? まだ顔色がよくないのではないか? 大体、どうしてスフェリにいるのだ。この時期はもっと涼しい場所で静養をしているだろう? 今からでも遅くはない、どこか空気の良いところへ……いや、病み上がりでの移動は身体に障ってしまう……ああ、どうすれば」
ブリュネル公爵は突然に堰を切って話しだした。
身を乗り出し、ヘンリエッタの顔を覗き込み、あれやこれと指図を始める。
ヘンリエッタはそんな夫を視界にいれまいとするかのように、無言を貫いている。
「食欲はあるのか? 今日は何を食べたんだ。今から滋養のあるものを取り寄せた方がいいな。それから、もう一度医者を呼んで診察を……」
「ええい、肝心な時に側にいなかったくせに、ぐちぐちとうるさいのよ!」
とうとうヘンリエッタが爆発した。彼女は子供のように大きな声を出してブリュネル公爵の言葉を遮った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます