第42話


 それから数日間、リリアージェは付ききりでヘンリエッタの看病を続けた。

 目を覚ましたあとのヘンリエッタは食欲も出て、寝台の上に起きあがれるまでに回復をした。そこからはさらに早かった。


 死にかけたことが嘘のように「寝台の上はつまらないわ」と唇を尖らせているが、今回ばかりは屋敷の人間全員が声を揃えて「大事になさってください」と言っている。


 おかげで目が覚めてから五日目の今日もまだ、ヘンリエッタは寝台の中に留まっている。

 リリアージェは退屈な彼女の気を紛らわせるために、ヴァイオリンを弾くことにした。


 ヴァイオリンを習い始めたのはサフィルに嫁いできたからのこと。貴族令嬢が受ける教育を彼女はリリアージェのためにたくさん施してくれた。実の母はリリアージェの教育には無関心だった。

 楽器の演奏に声楽、外国語、刺繍など。上達すると頭を撫でて褒めてくれた。そのことがどうしようもなく嬉しくて、さらに上を目指して頑張った。


「とても上手ね。王太子妃殿下の演奏会のメンバーに選ばれたのでしょう。さすが、わたくしの可愛いリリーね」


 ヘンリエッタが所望した曲を弾き終わると、彼女は少女のように目をきらめかせて拍手をしてくれた。


「お母様のおかげですわ。わたくしがこうして大きく育ったのも、宮殿でなんとかやっているのも、全部お母様のおかげです」

「ありがとう。リリーは本当にいい子ねえ。それに引き換えエルクシードときたら。一人で大きくなったかのような顔をしちゃって」

「ふふ。男というのはそういうものらしいですわ」

「本当よね。泣き虫だったあの頃のことなんて、まるで無かったかのように振舞って。可愛げが無いったら」


 すっかり元気になったヘンリエッタの辛辣な息子批判に嬉しくなる。やはり、彼女はこうでないと。エルクシードには悪いが、彼の子ども時代の話を聞けるのも貴重なので、リリアージェは好きだった。

 あの完璧人間にも子供時代があったのかと思えば感慨深い。


「そろそろ、中庭くらいには出たいわねえ」

「お母様、駄目です。安静になさってください」


「そう言ってもう何日も部屋の中に閉じ込められっぱなしだわ。いい加減飽きてしまったのよ。体力だって落ちてしまうわ。お腹だって空かないじゃない」


 ヘンリエッタの主張は一理ある。確かにそろそろ起き上がって、日の光を浴びた方がいいし、寝室に籠りきりになると、今度は筋肉量が落ちてしまう。

 人間横たわったままだと、今度は起き上がり、歩けなくなるものだとヘンリエッタの主治医が前に言っていたことを思い出す。


「ガーソン医師のお許しを貰ってからですわ」

「あの人も心配性なのよねえ」


 主治医の名前を告げれば、ヘンリエッタが苦笑した。彼女とガーソン医師の付き合いは長い。彼女がこの国に嫁いで来てからずっと彼が診ているのだという。

 ヘンリエッタはふと、窓の外に視線をやった。


「エルクシードは戻ってきたのに……」


 見上げるのは空の向こう。その言葉の後ろには一体どのような言葉が続けられたのだろう。それきり黙り込んでしまったため、分からない。

 リリアージェは静かにヘンリエッタを見守った。


 しばらくして、侍女が手紙を携えて入室をした。お見舞いの手紙をヘンリエッタに読み聞かせたあと、リリアージェは退出をした。

 ヴァイオリンを片付けようと廊下を歩いているとエルクシードと出くわした。


「母上の容体は?」

「すっかり元気ですわ。先ほども、中庭を歩きたいと駄々を捏ねておいででしたわ」

「まったく」


 エルクシードは渋面を作った。


「もうすっかり元気になられましたもの。わたくしからもガーソン医師に口添えをしますわ。太陽の日を浴びることも大切なことですわよ」


 リリアージェが歩み始めると、彼も隣に続いた。

 マリボンでの言い合いが嘘のように、エルクシードとの間に流れる空気が穏やかだ。


 リリアージェは癇癪を起したというのに、彼はそれについて何も触れない。二人の間には妙な一体感が生まれていた。それは、ヘンリエッタの看病を通して湧いて出たもので、今こうしてわだかまりなく話を続けていられるのもそれのおかげだ。


(もう、隠しておく必要もなくなったのだし、素に戻ったということなのかしら)


 エルクシードはここのところ、表情が豊かになったと思う。

 大人の微笑ではなくて、素直に感情を現すようになったように感じられた。

 それは、まるで兄が妹に向ける顔のようでもあった。彼も取り繕うことを止めたのだろう。互いに今後の方向性が一致したのだと思う。


「ヴァイオリンの音色が聴こえてきた」

「え……?」


「実はこっそり聴いていた。母上の部屋の窓を少し開けていただろう。私もきみの演奏を聴きたくて。中庭に降りていた」


「ええと……」

 聴きたいのなら正直に言えば聴かせてあげなくも……無いと思う。たぶん。


「少し……話をしないか?」


 胸がひやりとした。

 リリアージェは立ち止まり、隣を見上げた。エルクシードの顔からは、彼が今何を考えているのか読むことが出来なかった。静かなはしばみ色の瞳の奥を探ろうとしたが、無駄に終わった。


(ついにこの時が来たのね)


 この後に及んで逃げてしまいたくなるのだから、往生際が悪すぎる。リリアージェはそう心の中で自嘲した。

 エルクシードに謝らなければならない。大嫌いと言ってしまったことを後悔していること、本当は嫌いではないと伝えて。


 それから。今度こそ、きちんと明るくお別れをする。彼の本音を知っていることをリリアージェは伝えたのだから、この先夫婦でいる必要はないのだ。


「わかりましたわ」


 リリアージェはしっかりと頷いた。それから侍女を呼び、ヴァイオリンを託した。

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