第41話
いつの間にか、眠っていた。
意識を浮上させると、頭を誰かが撫でている。リリアージェはうっとりと微睡んだ。大きくて優しい手のひらの感触はどこか懐かしくて。もっともっとそのままで、というリリアージェの希望とは裏腹にすぐに離れていってしまった。
ほんの少し前の温もりが恋しくて胸の奥がつんとした。
(ん……。朝……?)
閉じた目の向こう側がぼんやりと明るい。
そろりと瞳を開けると、見慣れぬ掛け布が視界に飛び込んでくる。自分の寝台ではなかった。ここはどこだ、と考えたのも一瞬だった。
「お母様!」
リリアージェは勢いよく体を跳ね上げた。
そうだった。ヘンリエッタが危篤という報せを受けて、急いで宮殿から帰宅をしたのだ。寝台に横たわる彼女を前に目の前が真っ暗になった。今にも儚く消えてしまいそうな姿に絶望が身を襲った。
「……リリ……」
「おかあ……さま……」
かすれた声は覇気がなく、消えてしまいそうなくらい小さなものだった。けれどもまぎれもなくヘンリエッタのものだった。
「心配……かけちゃった、わね」
「お母様! お母様!」
もしかしたらもう開くことは無いのではないかと思った、黄色がかった緑の瞳がリリアージェに向けられている。
「お嬢様のおかげですよ。エルクシード様と一緒に、夜通しずっと、奥様にお声がけされていらしたでしょう」
ヘンリエッタ付きの侍女が水差しを運んできた。顔色は優れなかったが、彼女の顔には穏やかな笑みが浮かんでいる。長い付き合いの彼女のその表情を見て、リリアージェは自分の心が緩むのを感じた。
「母上は少し前に意識を取り戻した。峠は越えたのだと。そう医者も言っていた」
すぐ横から男性の声が聞こえた。顔を向けると穏やかに目元を緩めたエルクシードと視線がぶつかった。はしばみ色の瞳が言っている。もう、大丈夫なのだと。
(よかった……よかった、お母様……)
すとんと胸の中に事実が落ちてきた。すると、じわじわと水分が目の奥に集まってきた。
侍女がヘンリエッタに水を飲ませている。
まだ顔色は優れないが、何よりもヘンリエッタに意識が戻った。これ以上に素晴らしいことはあるだろうか。
「あとはわたしたちで看ますので、お嬢様は一度お部屋へ」
「まずは何か胃に入れた方がいい」
侍女とエルクシードから言われてしまい、リリアージェは名残おしくヘンリエッタを見つめた。すると彼女も小さく頷いた。
「はい」
立ち上がると、くらりと視界が揺れた。
思えば昨日から碌に何も食べていないし、飲んでもいない。身体はカラカラに乾いている。立ち眩みがするのも当然だった。
「リリアージェ」
身体を支えたのはエルクシードだった。彼はひょいとリリアージェを横抱きにした。
「部屋まで運ぶ」
一人で歩けます、と強がりたかったのだが、ヘンリエッタが目覚めたことによる安心感なのか、身体が飢えを訴えていて、リリアージェは不本意ながら彼に身をゆだねることにした。
なにより、触れている部分から伝わる彼の体温が心地よいと感じてしまったのだ。相当に心が弱っていたらしい。けれども無理はないと思った。
リリアージェにとって、ヘンリエッタがすべてだ。小さなリリアージェを育ててくれたのは彼女だった。実の母の記憶はあまり持っていない。優しかった母は父が亡くなった後、徐々に様子が変わっていった。彼女が望むものはささやかな幸せではなくて、目に見えてわかる地位や名声だった。実の母にとってのリリアージェとは、それを叶える足掛かりでしかなかった。
「お母様……よかった」
「ああ。あとは養生をすれば回復すると、ガーソン医師が話していた」
心からそう呟けば、エルクシードが穏やかな声をかけてきた。
リリアージェは昨日の記憶をあまり持ち合わせていなかった。ただただ必死だった。目の前のヘンリエッタを看ることに精一杯で、他に気を回す余裕など、欠片も無かった。
「エルクシード様、良く見れば、酷いお顔ですわ」
上を見上げて、素直な感想を漏らしてしまう。何しろ彼ときたら、本当に顔色が悪いのだ。土気色をしている。
「ひげは剃ったんだが……確かにここのところ碌に眠っていなかった」
「わたくしのことをとやかく言えた義理ではありませんわ。エルクシード様もきちんと静養なさってください」
マリボンでのわだかまりも忘れて、リリアージェはぷんすか怒った。
すると、エルクシードが切なそうに、目を細めた。しかし、それも一瞬のことで、彼はくすくすと笑い「わかった」と返事をした。
リリアージェは目を見張った。今まで見たこともないような、無防備な笑い方だと思ったからだ。
とくん、と胸の鼓動が一度大きく跳ねた瞬間に思い出した。エルクシードを傷つける言葉を吐いてしまった。本当なら、こうして話す資格すらないのに、大人な彼はリリアージェに相変わらず優しくしてくれる。
部屋に到着をして、エルクシードがリリアージェの身体を下ろしてくれた。その少し前に、一度彼の腕に力が入って、リリアージェはエルクシードの胸に身体を押し付けられた。
「スープか何かを運ばせる」
「ええ……。ありがとうございます」
別れ際、はしばみ色の瞳が何か言いたげだった。その色の中に、彼の強い感情を見つけた気がして、リリアージェは彼が立ち去ってもしばらくその場から動くことが出来なかった。
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