第40話

「わたくしには……お母様しか、いないのに……」


 掠れた声を出したのを最後に彼女は黙り込んだ。さらりと、その横顔に金色の髪の毛が一房落ちた。

 侍女はもう何も言えないと思ったのか、同じように口を引き結んだ。


 エルクシードが隣にいるのに、彼女にはヘンリエッタしか見えていない。いや、彼女には真実、ヘンリエッタしか頼るべき者がいなかったのだ。長いあいだずっと。


 そのことに、気づかされた。


 たった八歳で、リリアージェはこの国に嫁がされたのだ。それはどれほど心細いことだったのだろうか。幼い彼女の教育をヘンリエッタに任せた。それは間違ってはいなかったと思う。結婚したとはいっても、夫婦となる以前に互いに学ぶべきことがたくさんあったからだ。


 世間でいう適齢期になるまでは、妻としてではなく、ただの娘としての時間を持たせてやりたいというのはエルクシードとヘンリエッタ共通の考えだった。


 それでも、エルクシードはリリアージェに気を配ってやらねばならなかった。

 手紙のやり取りではなく、彼女が心から頼りたいと思ってくれるような夫でなければならなかった。


 ヘンリエッタ以外にも、いや夫以上にこの国に頼りになる者はいないのだと、それくらいリリアージェに思わせるような男でなければいけなかった。


「リリアージェ」


 エルクシードは隣に座る妻の名を呼んだ。ヘンリエッタだけではない。己もきみの側にいるのだと、訴えたかった。

 しかし、リリアージェにエルクシードの声は届かない。


「お母様……わたくしを、おいていかないで……」


 リリアージェが自身の顔を両手で覆った。両手の隙間から嗚咽が漏れ始めた。


「リリアージェ、大丈夫だ。母上はどこにも行かない。それに……、きみには私がいる」


 一人きりではないことに気が付いてほしい。今更なことは、己が十分にわかっている。しかし、今このとき、彼女は孤独ではないのだと教えたかった。

 エルクシードはリリアージェを抱き寄せていた。彼女を安心させてやりたかった。拒絶されてもいい。嫌なら突き飛ばしてくれてもいい。

 きみは一人ではない。そのことを何とかして伝えたい。


「うぅ……うっ……」

「大丈夫だ。きみを置いて母上はどこにも行かない。行くはずがないだろう。リリアージェの花嫁姿を見るのを楽しみにしていたんだ」

「花嫁……」


 嗚咽の合間に、リリアージェが単語を拾う。


「そうですよ、お嬢様。奥様はお嬢様の花嫁姿をご覧になられるのをそれはもう楽しみにしておられたじゃないですか」


 侍女が口を開いた。

 彼女の励ましに、リリアージェがゆっくりと顔を上げた。


「お母様、わたくしの花嫁姿をご覧になって。それまでは絶対に冥府へなど行ってはだめですわ」


 はらはらと涙を流しながらも、リリアージェの声に活力が戻ってきた。彼女は横たわるヘンリエッタの片方の手を両手で握りしめ、ゆっくりと語り始めた。


 それは理想の結婚式についてだった。緑に囲まれた郊外の教会。壮麗な大聖堂でなくてもいい。家族が全員そろって笑い合って。花嫁のための花束を用意して。

 花嫁の頭にかぶせるレースは、お母様が結婚式で使ったものを。教会の鐘の音が二人の門出を祝い、白い鳩たちが青い空に向かって一斉に飛び立つの。


 お母様とたくさんお話した、幸せな結婚式。

 優しい声でリリアージェは囁いた。何度も何度も。同じ言葉を繰り返す。


 エルクシードは初めて、リリアージェの夢を聞いた。夫なのに、そんなことも知らなかった。


 成長をした彼女との時間を取らなかった己の責任だ。彼女から逃げていたのだ。

 傷ついていたリリアージェがエルクシードから離れてしまうのは無理はない。

 ずっと、不甲斐ない酷い夫だったのだ。

 だから、もうあきらめるときなのかもしれない。

 リリアージェが愛おしい。だからこそ、贖罪の意味も込めて彼女を自由にする。


 エルクシードは良い夫ではなかった。自分の気持ちではないとはいえ、彼女を傷つけ、己のちっぽけな自尊心を守るために、彼女から逃げた。リリアージェがエルクシードを信じられないのも無理はない。


「母上、私は花嫁の身支度など専門外です。ですから、早く目覚めてください」


 気が付けば、リリアージェに倣うように、エルクシードもヘンリエッタに声をかけていた。

 内容は大分情けないものだった。だが、堅物として名を馳せてる己に、女性の夢の結晶でもある結婚式の細かい采配など手に余ってしまう。

 リリアージェを愛らしい花嫁に仕立て上げるなら、ヘンリエッタの手がどうしても必要だ。


「母上は、リリアージェの花嫁姿を見たいと、駄々をこねていたのでしょう」


 このまま、リリアージェを悲しませるつもりなのか。まだ冥府へ旅立つには早すぎる。

 リリアージェが本当の母だと慕うヘンリエッタを守るのが己の責務だ。彼女がエルクシードの妹になりたいというのなら、それを受け入れようと思った。


 心の痛みが伴うが、これも自身が蒔いた種だ。

 だが、最後に。彼女に心の内をつげてもいいだろうか。

 傷つけたことを謝りたい。その過程で、本心を知ってもらいたい。決して彼女を蔑ろにするとか、子供だから嫌なのだとそのような気持ちではなかったのだと伝えたい。


 そのあとは、きちんと彼女の想いを汲み、この気持ちを封印することを誓う。あのときの言葉は、リリアージェを傷つける意図はなかった。それだけは弁明したかった。


 この日、エルクシードはリリアージェと一緒になって夜が明けるまでヘンリエッタの側で、優しく語り続けた。

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