第39話

 屋敷に到着をしたエルクシードを迎えたのは執事であった。


「母上の容体は?」

「医者の見立てによると季節性の風邪かと。三日ほど前に発熱をしました。いつもなら、高熱が出てもひと晩眠れば下がるのですが、今回はいつもとは違い、ひと晩経っても熱は高いままでした」


 執事は沈痛な面持ちで経過を報告する。


「お熱は高いままでしたが、意識はございました。いつものことだから、お二人には報せるな、とご気丈に振舞われておりました。しかし、その日の晩になってもお熱は下がらず、朝を迎える頃には意識を失われ、そのままでございます」


 ヘンリエッタは身体が丈夫ではない。それもあって、王都から離れた場所で静養も兼ねて暮らしている。季節の変わり目や気温の落差で熱を出すため、屋敷勤めの者たちは皆、彼女が寝込むことに慣れていた。


 これはもう体質のようなものだから、というのがヘンリエッタの口癖のようなものだった。だから、エルクシードもどこかで楽観していた。

 母が熱を出しても、いつものことなのだと。


 しかし、今回は違った。とうとう意識を失い、このままではいつどうなるか分からない。宮殿に滞在するエルクシードとリリアージェに連絡をすることとなった。


 執事の報告を聞きながらエルクシードはすぐに屋敷の奥へと向かった。


「リリアージェは?」

「はい。リリアージェ様も先ほど戻って参られました。……ひどく動揺をしております」


 階段を上り、ヘンリエッタの部屋へ足を踏み入れた。続き間を進んだ先の寝室にリリアージェの姿があった。

 彼女は必死になってヘンリエッタの額に浮かぶ汗をぬぐっている。


「医者が言うには、あとはご本人の体力と気力の問題だと」


 ヘンリエッタ付きとして長年仕える侍女がエルクシードにひっそりとした声を出す。彼女の顔には疲労が濃く浮かんでいる。


「父上には報せたのか?」

「はい。早馬を手配しました」


 部屋の中は薄暗かった。頭のどこかで、これは現実では無いのではないか、と考えている己がいた。身体が弱いとはいっても、ヘンリエッタはこれまで普通に生活を行っていたし、実の息子に対して辛辣な口ばかり叩いてきた。


 今、寝台の上に横たわっているのは本当に己の母だというのか。

 エルクシードはのろのろと足を進めた。

 ヘンリエッタが横たわるすぐそばにリリアージェが座っている。


 彼女はヘンリエッタに縋るように身を乗り出し、「お母様」と繰り返す。その身体が痛々しいほどに、小刻みに震えている。


「お母様、お願い……目をお覚ましになって」


 何かをしていないと落ち着かないのだろう。手巾を手に持ち、ヘンリエッタの額に何度もそれを当てている。

 ヘンリエッタは目覚めない。


「母上……」


 呟きは口の中に吸い込まれた。

 エルクシードは呆然と母を見下ろした。ただ、側に付いていることしかできなかった。それがこれほどまでにもどかしいのだと、エルクシードは痛感した。


 深夜になり、ヘンリエッタの熱が上がってきた。屋敷に戻って以降、ずっと彼女の寝台の側で看病を続けてきた。

 ヘンリエッタに水分を補給するため、果汁と水を混ぜたものを匙に乗せ、定期的に彼女の口元へ流し込んだ。薬湯を飲ませても、彼女の熱は高いままだった。彼女の主治医も屋敷に待機をしているが、出来ることには限りがあった。

 丸い月が空に浮かんでいる。そのせいか、暗闇であっても、平素より室内は明るく感じた。


「リリアージェ、一度休んだ方がいい」


 彼女は屋敷に戻って以来、碌に飲み食いせずにヘンリエッタの側に付き添っている。燭台の細い炎が照らすリリアージェの姿は憔悴しきっていた。


「お嬢様、あとはわたしが代わりますから、一度お休みになられてください」

「いや」


 強い拒絶の声が返ってきた。彼女は視線をヘンリエッタに据えたままだった。


「リリアージェ。今日は私が夜通し母上の看病をする」

「いやです」

「だったらせめて何か口に入れてくるんだ」

「食欲なんて……」


 うつむいたリリアージェの身体がぶるりと震えた。


「しかし」


 碌に食べていないのはエルクシードも同じだった。こんな状態で、悠長に自分のことを考えている暇はない。エルクシード自身、何をしていいのか分からないのだ。

 心のどこかでヘンリエッタに甘えていた。母という生き物は、何があっても己の目の前から姿を消さないものなのだと。漠然と安心をしていた。


 確かによく熱を出し、床に伏せっていた。しかし、それすらも日常の一部なのだと慢心していた。

 しかし、今こうして寝台の中で眠るヘンリエッタを見下ろしてみると、ずいぶんと彼女が小さく見えた。歳相当な小さな皺が目じりに陰影を作っている。己が年を取った分、彼女も同じ年月をその身に刻んでいた。このような状況になって初めて気づかされた。


「お嬢様、どうかお休みくださいまし」


「いや! どうして? どうして、お母様がこんなにも苦しんでいるというのに、わたくしだけが眠れるというの⁉ お母様が苦しんでいたのに、わたくし何も知らずにのほほんと生活をして……」


 リリアージェはひとしきり吐き出した後、黙り込み、唇をかみしめた。感情がこれ以上身体の外側に漏れるのを必死で食い止めているかのようだった。


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