第36話
「リリアージェ」
エルクシードがぎゅっとリリアージェを抱きしめた。
両腕がリリアージェの背中に回されている。初めての抱擁も、今のリリアージェには残酷なだけだった。形だけの行為に一体何の意味があるのだろう。
それなのに、口付けも抱擁も、心の一部では喜んでいるだなんて。彼もリリアージェと同じ想いを抱いているかもしれないと期待をしてしまうだなんて。
エルクシードが嫉妬に駆られてこのような行動に出たのだと、未だに考えてしまいそうになる自分がいっそおめでたすぎて笑えてくる。
それくらいに、エルクシードのことが好きなのだ。
十六歳の頃に彼の本心を聞いたのにも関わらず、リリアージェはまだ未練たらしく彼に想いを残している。
離婚を決意してもなお、エルクシードのことが好き。彼の一挙手一投足に翻弄されしまう。
今だって、このまま彼の嘘に乗っかってしまえと囁く自分がいる。自分が知らない振りを続ければ、エルクシードとはずっと夫婦でいられる。
(ああでも……)
愛されていないことがこんなにも苦しいだなんて。
やっぱり、自分は子供だ。愛が欲しいなどと、まだ心の底で叫んでいる。確かなものがほしいのだと、訴えている。
父を亡くし、母はリリアージェを顧みなくなった。父方の親族に厄介払いをされ、隣国へと嫁いできた。ブリュネル公爵家は想像以上に居心地がよく、ヘンリエッタはいつも気遣ってくれた。エルクシードとは離れていたけれど、大人と子供の生活空間が違うのは貴族社会では当たり前のこと。だから、不満はなかった。
けれど、リリアージェは大人になることを急いだ。
居場所が欲しかった。求められたかった。個人の気持ちが政略結婚では邪魔なことくらい察しているけれど、リリアージェはエルクシードに「きみだけだ」と言ってもらいたかった。
(ばかみたい……)
一年間の猶予期間のうちに、捨てたはずの夢が再び芽生えてしまった。
「あなたは残酷ですわ」
気が付くと、自分のものとは思えないくらい低い声を出していた。
エルクシードがぴくりと動いた。リリアージェはゆっくりと彼の胸を押し、二人の間に空間を作る。
「わたくしのような子供を押し付けられて、迷惑なのでしょう? 女性として見ることなど出来ないのでしょう? それなのに、勝手に唇を奪って抱きしめて……。適当に宥めておけばわたくしが大人しくなると……。そのように思われていらっしゃるのなら……とても屈辱ですわ」
「リリアージェ、どうしてそれを……」
エルクシードの顔から表情が無くなっていく。白くなる顔色を見ていると、頭の中が冴え冴えとしてきた。
「わたくし、あなたの本心など、とっくの昔に知っていますのよ。十六歳の頃の園遊会で、あなたはお友達の前で、わたくしのことを子供だとおっしゃっていましたわね。偶然にも聞いてしまったのです」
一度口火を切れば、あとは止まることなど無かった。
「わたくしが嫁いできたのは八歳の頃。留学からお戻りになって対面をしたときですら、わたくしはまだ十一を超えたばかり。子供のお世話はさぞ、大変でしたでしょうね」
心の中が痛みで悲鳴をあげていた。自虐的な台詞を吐くたびに、心の一部が乾き、砂のように散って行く。
「違う! あれはあのときのあれは」
「言い訳など結構ですわ。今更、なんだというのです」
リリアージェは口元に笑みを浮かべた。悲しさが混じった泣き笑いの顔にエルクシードが黙り込む。
「毎日毎日、もうたくさんですの。あなたの言動に一喜一憂する自分が嫌い。あなたに振り回されることなんて、もううんざり。わたくしを愛する気など無いのなら、もう放っておいて! 勝手に口付けなんてしないで! わたくしのこと好きでもないくせに、勝手に触れて、惑わして……。あなたなんて……」
ああだめだ。この先まで言ったら、後戻りが出来なくなる。頭の中で冷静なリリアージェが警鐘を鳴らしている。
けれども、一度爆発した感情は止まることを知らない。いや、今更止まれない。
「あなたのことなんて、大嫌い!」
悔しくて苦しくて泣きたくて。その全部をリリアージェは吐いてしまった。
気が付くとリリアージェは立ち上がり、そのまま駆け出していた。幸いにも散歩用のドレスはそこまで重たいものではなかった。
エルクシードから逃げるように宿の階段を駆け上がり、自分の部屋へと舞い戻る。子供のように大きな音を立てて扉を開けて寝室へと一直線に向かった。
侍女がびっくりした顔を作って何か言っていたけれど、今のリリアージェには聞く余裕も無かった。
天蓋付きの豪華な寝台の上に勢いよく頭から突っ伏した。
興奮が徐々に冷めてきて、動悸が収まってくると、ようやく頭が回り出した。
(ああなんてこと……)
まさか、勢いに任せてあんなことを言ってしまうだなんて。
大嫌いだなんて、そんなことまで言うつもりなかった。ただ、悲しかっただけ。頭ごなしに責められて、何の感情も籠っていない口付けをされて。そのことに血が上ってしまった。
自分の気持ちが彼に届かないことへの八つ当たりだ。
リリアージェはそっと、唇に指をあてた。
生まれて初めての口付けだった。大嫌いだと言った直後のエルクシードの顔が脳内に再生された。氷のように固まり、顔色を失った彼が眼裏から消えてなくならない。
どうして、エルクシードのほうがあんなにも傷ついた顔をするの。どうして。
答えなど出るはずもないのに、彼に大嫌いと言ったその事実が重くのしかかる。きっと、自分たちは終わりだ。
一年間の離婚猶予期間も何もない。彼の本心を知っていると白状したのだから、エルクシードだって対処法を考えるかもしれない。
(もう、お別れね。きっと、離婚になる)
ぽたぽたと涙があふれた。
今日は帰還日で、これからセルディノ家に挨拶に行くのだから泣いてはだめだというのに、雫が止まってくれない。
離婚をすると決めたのはリリアージェの方なのだから、これでよかったというのに。
あふれ出た気持ちは行き場を失い、リリアージェはしばらくの間、枕に顔を埋めた。
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