第35話

 本来であれば清々しい場所であるはずの中庭には妙に重苦しい空気が流れていた。

 リリアージェはそっと隣を窺う。


 ダリアンが去った後、エルクシードは無言で彼女の隣に着席をしたのだ。けれども、彼は口を堅く引き結んだままだった。一言も発しない。


 リリアージェはどうしたものかと困惑をした。やましいことは何もしていないのだから、明るい声で朝の挨拶をすればいいのに、隣に座る彼からは何か、人を寄せ付けない空気を感じる。

 しばらく無言で何とはなしに景色を眺めていたけれど、さすがに沈黙に耐えきれなくなってきた。


(よし。朝食はなにかしら? 的なことを話して空気を変えるのよ)


 リリアージェが意気込んだその時、エルクシードがこちらに向けてやおら手を伸ばしてきた。

 彼の手の先が、リリアージェの頬をかすめた。突然のことに、ほんの少しだけびくりと肩が揺れてしまう。それをエルクシードは見逃さなかった。


「私に触れられるのは、嫌か?」


 彼の声は想像以上に硬いままだった。


「い、いえ。ただ……」

「ただ?」

「今のエルクシード様は、なにか、いつもと違うので」


 はしばみ色の瞳の中には何の感情も浮かんでいないようだった。それが妙に気になって、リリアージェは慎重に返事をした。


「きみはもう少し、物を考えて行動をするべきだ。大体、どうして供もつけずに中庭をふらふらと歩いていたんだ?」


「それは……。たまには一人きりになりたいことだってありますわ」

「私と一緒にいるのは、それほどまでに気づまりだということか?」

「なっ……。そんなこと、ありませんわ」


「だったら一言声をかければいいだろう? それとも、一人きりで中庭に赴かなければならない理由でもあったのか?」


 言外に、ダリアンと密会の約束でもしていたのか、と問われたリリアージェはさすがに頬を紅潮させた。ひどい言いがかりだ。


「わたくしは純粋に朝の散歩を楽しんでいただけですわ」


 その声の直後に、教会の鐘が響いた。そろそろ街の住人たちが本格的に動き出す頃合いだ。労働者の朝は早い。遠くに響く鐘の音が鳴りやむのを待って、エルクシードが再び話し出す。


「きみはあの男の演奏をひどく気に入っていた。あのように女性たちからちやほやされるような男が、きみの好みなのか?」


「たしかに、耳に心地の良い声と、優し気な態度ではありましたけれど」

「そのような男に、女はすぐに騙されるんだ」

「わたくし、騙されませんわ。女神だなんて言われて、呆気にとられたくらいですもの」

「女神……。そのように口説かれたのか。女神だなんて言われて、きみはそんなにも嬉しかったのか?」


 エルクシードの詰問めいた口調がさらに強くなった。


「わたくしの話を聞いていらしたの? いま、わたくしは呆れてしまったと言いましたのよ。エルクシード様のほうこそ、失礼ですわ。ああいうお方は女性を褒めるのが生活の一部ですのよ。いちいち真に受けていたら身が持ちませんわ」


 そう、あれはダリアンの挨拶のようなものなのだ。うっかり、動揺をしてしまったことを押し隠してリリアージェは澄ました声を作った。


 妹くらいにしか思えない妻だろうと、彼にも体面というものがあるのだ。だからこそ、公の場でリリアージェが夫以外の男と親し気に話をしているところを目撃して、怒っているのだろう。

 とはいえ、誤解なのだから、いい加減怒りを解いてほしい。大体、一度は納得をしたのではなかったのか。二人きりになった途端に蒸し返すだなんて、面倒この上ない。


「きみは自分の顔を鏡で見たことがあるのか?」

「おあいにく様です。毎日きちんと見ておりますわ」


「では分かるだろう。リリアージェ、きみはとんでもなく愛らしいんだ。もっと、自分の姿かたちに自覚を持って行動をしてほしい」


 エルクシードがとうとう意味の分からないことを言い出した。人の顔にまで文句をつけるとは、どういうことだろう。


「あなたの体面を傷つけたことは謝りますわ。ですが、今は早朝。幸いにも目撃者はおりませんでした。以後気を付けますわ」


 リリアージェはさっさとこの場をおさめることにした。

 不毛な話し合いほど、体力を消耗することはない。確かに、リリアージェにも軽率な部分があった。


「私はきみに謝ってほしいのではない」

「では、なんと言えばいいのですか。エルクシード様はわたくしばかりを責めていらっしゃるし、わたくしの言うことなど信じてもくれない」


 立ち上がりかけたリリアージェの腕を、エルクシードが掴んだ。


「きみは私の妻なんだ」

 一瞬、エルクシードが知らない男のように思えた。


「あのような男に気を許すくらいなら……。私を男として見てくれ」


 えっ、と思った瞬間には、柔らかなものが唇に触れていた。目を見開いたまま、リリアージェはその身に起こったことをまざまざと感じた。


 エルクシードに口付けをされている。

 頭の中が真っ白になったのはほんの数秒のこと。リリアージェは渾身の力を込めて、エルクシードの体を押した。


「いやっ!」


 自分が想像した以上に大きな声が出た。

 拒絶の声に、エルクシードが傷ついたような顔をつくった。


(どうして……どうして突然にこんなことを……)


 彼の行動が理解出なくて、リリアージェの頭の中が混乱する。

 だって、エルクシードはリリアージェのことなんかなんとも思っていないのに。妹のようにしか思えない相手に、どうして唇を押し付けたのか。

 はしばみ色の瞳が切なげに揺らいでいる。


「きみが何と思おうと、私はきみを離すつもりなどない。離婚もしない」


 言い聞かせるような声は甘さの欠片もなかった。

 宥めるような口付け。いや違う。ただ、事実を押し付けるだけの、彼にとってはなんの意味もなさないものだった。


 そのことがひどく堪えた。

 政略結婚に愛など必要ない。そんな風に、言われているかのようだった。現にエルクシードは何とも思っていないリリアージェに、あんなにもあっさりと触れてきた。


 彼の心が欲しいと思った。自分が彼に対して想う半分でもいいから手に入れたかった。手を伸ばすのはいつだって自分の方だ。


 胸の奥が音を立てて崩れ落ちる気がした。無いものねだりをしているのはリリアージェの方なのだ。

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