第34話
翌日の朝。リリアージェは少し早く目が覚めた。
まだどこか夢見心地で起き上がり、ふわわ、とあくびをする。窓を開けると、今日も外は晴れていた。小鳥のさえずりが耳に届く。
昨日はあのあと、すぐに部屋に戻ったのだが、眠りが浅かったようだ。
時計を確認すると、まだ教会の鐘も鳴る前だった。
そろりと起き上がり、鎧戸を開け放つ。朝から太陽の日差しが眩しくて、目を眇めた。
二度寝も良いけれど、せっかくだから朝の散歩に出かけるのはどうだろう。
今日はスフェリへ帰る日だ。明るい中庭の様子を目に焼き付けておきたいと考え、リリアージェは隣の部屋に足を向けた。
侍女はすでに目覚めていて、リリアージェが起きたことを知ると、てきぱきと動き始めた。水を用意してくれ、顔を洗い、髪の毛を梳ってもらう。
着心地の良い、薄手の衣服に着替えて帽子をかぶり、部屋の外へ出た。
散歩といっても中庭を歩くだけのこと。供もつけずに階下へ降り立ち、一番広い中庭を目指した。
案の定、早朝の散歩をしているのはリリアージェ一人きりで、清涼な雰囲気のこの場を独り占めしていることに高揚した。
とっても贅沢な気がして、鼻歌交じりに中央の噴水に近づき、縁に腰かける。そっと、水に手を浸けてみる。ひんやりとした感触が心地よくて、子供のようにパシャパシャと音を立ててみた。
無作法も、一人きりだと気にならない。
「おや、先客ですか」
碧い水を夢中になって眺めていると、背後から声がして「ひゃっ」と変な声を出してしまった。
「すみません。驚かすつもりはなかったのですよ。まさか、こんなにも朝早い時間に人がいるだなんて、思わなくて」
後ろを振り返ると、そこには赤みがかった金髪の青年が佇んでいた。
リリアージェもびっくりした。教会の七時の鐘が鳴る前である。こんなにも早起きの人がいるだなんて。てっきり自分一人だけかと思っていた。
「いいえ。こちらこそ」
慌てて立ち上がろうとすると、青年が制した。その顔にリリアージェはもう一度驚いた。
「あなた、ダリアン・ロンターニ!」
「おや、可愛いお嬢さん。私をご存じで?」
リリアージェの不躾な声に不快な態度ひとつ示さず、むしろ面白そうに目を細めたその顔は、まさに先日の音楽会で聞き惚れたヴァイオリン奏者ダリアンのものだった。
社交界を席巻する話題のヴァイオリン奏者が目の前にいることが信じられなくて、リリアージェは瞬きも忘れてその顔に見入ってしまう。
「可愛らしい天使は、地上の言葉をご存じでないのかな?」
ダリアンが少し困ったように首を傾げた。
リリアージェは我に返り、素早く立ち上がり小さく腰を落とした。
「無礼については謝りますわ。つい先日、野外劇場の音楽会に足を運びましたの。あなたの演奏、とても素敵でしたわ」
「いいえ。演奏を聞いてくれたのですね。光栄ですよ」
ダリアンは片手を胸の前に押し当て礼をした。音楽的な声にうっとりしそうになって、リリアージェは慌てて気を引き締めた。
「あなたもこの宿に滞在をしているの?」
「ええ。今日は何かの予感に突き動かされて、朝早くに目が覚めてしまったのですよ。きっと、あなたという女神に出会うためだったのですね」
リリアージェはぽかんとしてしまった。
これは素なのだろうか。それとも観客に対する演技であろうか。
「女神だなんて、ロンターニ氏はずいぶんとロマンチストですのね」
「私のことはダリアンと呼んでくれて構いませんよ」
ダリアンが距離を詰めてきた。気が付くと、彼はリリアージェの目の前に立っていた。
箱入り娘であるリリアージェは固まった。
「少し怖がらせてしまいましたか。すみません。日ごろから、たくさんのお嬢さん方が私とお友達になりたいとおっしゃるため、少し慢心していたようだ」
ダリアンは苦笑をしながら、再びリリアージェに座るよう勧めてきた。
リリアージェは噴水の縁にそっと腰を落とした。
「まあ、大層な自信家でいらっしゃるのね」
ダリアンが小さく肩をすくめた。
「あなたはどうですか?」
「え……?」
「私と仲良くなりたいと思ってくださいますか? 私に運命を感じる、なんてことは?」
「え……っと?」
突然にダリアンがリリアージェの前に片膝をついた。まるでこちらを口説くような台詞に今度こそリリアージェは口をはくはくと動かした。
こういうとき、物慣れたご婦人はどういう返しをするのだろう。
(淑女教育の中に、男性へのスマートな切り返し方なんてものはなかったわよ!)
そもそも、自分は人妻なのだ。口説かれても困ってしまう。
(あれ、でも、わたくしは一年もしないうちに離婚をするのだから人妻と声高に叫ぶのも違うのかしら?)
余計なことを考えたら余計に頭の中が迷走した。次の句を見つけられなくて、そのまま彼を見つめてしまう。
ダリアンが笑みを深めた。
二人の空気を割るかのように「リリアージェ」という声が響いた。
ずいぶんと硬い声だったが、聞き間違えることは無い。
「エルクシード様」
声の主は、大きな歩調でリリアージェに向かって歩いてくる。
第三者の登場にダリアンが立ち上がった。
彼はあっという間にリリアージェの目の前へとやってきて、こちらを見下ろしてくる。その顔は強張ったままだった。冷たさを孕んだ空気を別のものに変えたくてリリアージェは口を開く。
「おはようございます、エルクシード様」
「……おはよう」
返事をする彼の声は硬質なままだった。
リリアージェに短く挨拶を返したエルクシードはちらりとダリアンに視線をやった。
どうしてだろう、彼の醸し出す空気がぴりりとしている。
「ダリアン・ロンターニか。こんな早朝に一体何をしている?」
「ダリアンとは、単に朝の散歩がかち合っただけですわ。先日の演奏が素晴らしかったのだとお伝えしていたのです」
「ダリアン?」
どうしてだか、エルクシードの声色が一層低くなった。
「誤解をさせたのなら、申し訳ございません。本当に、偶然なのですよ。お嬢さんがあまりに可愛らしくて、つい挨拶をしてしまいました。兄上殿もあまり彼女を責めないでください」
「夫だ」
「え?」
「彼女は、リリアージェは私の妻だ。妻が夫以外の男性と二人きりで話しているのを見れば、誰だって面白くないだろう。それもこのような早朝から。まるで示し合わせたように」
「それは本当に失礼をしました。しかし、私も彼女も偶然に出会っただけなのです」
その弁を聞いたエルクシードはダリアンに視線を据えた。彼はそれを黙って受け止めている。実に堂々した態度だった。
風がそよいだ。ざわざわと葉が踊り、噴水の水面がさらさらと揺れた。
男性二人が無言で向かい合い、どちらも静止をしたままだった。声を掛けるのを躊躇ってしまうくらいの空気にリリアージェの背中までがぴりりとした。
「動揺が無いところを見ると、貴殿の弁は本当なのだろうな。すまなかった。妻のこととなると、狭量になってしまう」
どのくらい時間が経過をしたのだろう。エルクシードが口を開いた。
ほんの少しだけ和らいだ場の雰囲気に、リリアージェも知らずに詰めていた息をそっと吐き出した。
「いいえ。このように愛らしい奥方なのです。心配するのも無理はありません。ずいぶんと純粋で無垢なお方のようですし」
ダリアンは微笑み、「では、失礼します」と頭を軽く下げて踵を返した。
エルクシードは無言でそれを見送った。
リリアージェはなんて声をかけるべきか迷ってしまい、結局は彼に倣うように無言になってしまった。
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