第32話

 滞在先の宿は、マリボン旧市街の一等地にあった。

 昔権勢を誇っていたとある貴族の館を改装しただけあって、敷地内は広く建物は古いが、手入れが行き届き、重厚な家具と調度品でまとめられている。


 王家の名代として遣わされているだけあって、用意されていた客室は上等なもので、大きな天蓋つきの寝台に飴色に磨かれた机や複雑な模様が刺繍された絹張の長椅子、それから広々とした露台までついている。上階のため、遮るものもなく美しい古都の風景を独り占めしているような気分になった。


 数日間マリボンに滞在をする予定である。せっかくなのだから、少し羽を伸ばしてきなさいとクラウディーネからも言われている。


 だが、早くも暗雲が立ち込め始めていた。


「わたくしはお留守番て、一体どういうことですか!」


 セルディノ家を出て、宿の部屋に戻ったとたん、エルクシードに呼ばれた。

 今回、二人は同じ部屋に泊まっている。客室は家族がゆっくり滞在できる規模の部屋で、居間や応接間、控えの間は共用なのだが、寝室は別々だ。エルクシードが寝泊まりする主寝室には書斎も付いている。


 その客室の居間で、彼から告げられたのは「仮面舞踏会には私だけが出席する」という非情なものだった。


「きみは仮面舞踏会がどのようなものが知っているのか?」

「もちろんですわ」


 リリアージェは胸を張った。

 エルクシードが先を促したから、リリアージェは知識を披露することにする。


「ええと。仮面を身に付けて、基本的に本名は名乗らないのだとか。その場限りの夜を楽しむというお遊びだと」

「……それで、きみはその場限りのお遊びを楽しむつもりか?」


 エルクシードの声が硬くなった。


「ご自分だって遊ぶのでしょう?」

「私は仕事の一環だ」

「わたくしだって同じですわ。今回は王家の遣いなのですから、セルディノ家との友好を円滑に進めるのが夫婦に課せられた使命なのでは?」


 声を大きくして訪問目的を唱えると、エルクシードは額に手をやり「いや、その通りなんだが……」と少々項垂れた。


 ほらみたことか、とリリアージェは彼から一本取った気になった。

 大体、他の使者たちは夫婦で出席をするのに、自分だけ仲間外れということが頂けない。


「他のご婦人方は世間慣れをしている。妙な誘いにほいほいと引っかかったりしないだろう。大体、どうして仮面舞踏会なんだ。セルディノ家からは悪意しか感じない……」


 最後は大分投げやりな台詞を吐いたエルクシードである。本気で嫌がっているところをみると、仮面舞踏会が好きではないのは本当のようだ。


「ええと。正体を明かさないため、無礼講が許される少々賑やかな舞踏会なのですよね? どうしてそこまで嫌がりますの?」


 純粋に思い質問をするとエルクシードが絶句した。


「なにか……?」


「いや、そこからかと思って。仮面舞踏会は表面上はただの仮装舞踏会だが、風紀に懸念がある。正体を明かさぬことを理由に、あやしい薬を焚いたり、休憩室では夫婦以外の、その……一夜の楽しみに興じる者もいる。主催者がそれを推奨していると、さらに風紀は乱れる」


「なっ……!」


 今度はリリアージェが絶句する番だった。自分の知っているお遊びとはカード遊戯だったり、少々の賭け事だったり、仮面を付け自分とは違う人間になりきるのを楽しんだり、とそういうものだった。


 破廉恥な行為を想像してしまい、リリアージェの頬が瞬時に赤く染まった。想像とはかなり違う類の宴だったわけだ。

 そして今度はむくむくと苛立ちが湧いてきた。


「そ、そのような、ところに一人で向かうなどと……。エルクシード様は誰とひと晩のお楽しみをするつもりですか」


「違う! そんなことするわけがないだろう」

「セルディノ家からの招待を受けられていましたわよね!」


「表面上はあくまでも、普通の舞踏会と変わらない。皆、身分と本名は隠すが。それに、セルディノ家がそこまで風紀を乱した舞踏会を開くはずはないと、信じたいし、私はべつに遊びに行くわけではない」


「だったら、エルクシード様もわたくしと一緒にこの宿で健全にカード遊戯でもすればよろしいのですわ」


 それなのに、一人でそのような場所に出席するとは何事だ。これが大人の社交だというのなら大分乱れている。というか、乗り気だった他のご婦人方は大丈夫なのだろうか。うわさのヴァイオリン奏者も呼ぶとも言っていた。家格のある家なのだから乱痴気騒ぎには発展しないことだけを祈りたい。


 じっとエルクシードを見据えると、彼は黙り込んだ。そのまま口を堅く引き結んだが、リリアージェだって引かない。


 もしかしたら、仕事とは口実で、リリアージェ以外の女性、再婚相手候補を見つけることが目的かもしれない。可愛くない言動には自信があるリリアージェだ。一年を待たず、そろそろ見切りを付けられても(いや、すでにつけられているけれども)おかしくはない。


 リリアージェが顔を歪めると、エルクシードが狼狽えた。彼は懊悩し、「これは他言無用で願いたい」と呟いた。


 リリアージェが訝しながら頷くと、彼はゆっくりと口を開いた。


「王太子殿下から、密命を受けている。そのため仮面舞踏会には出席しないわけにはいかない」

「……わかりましたわ」


 リリアージェは今度は素直に頷いた。

 自分だって、ブリュネル公爵家の妻だ。王太子の側近を務める夫を持つ身である。妻にだって明かせないことがあることくらい理解している。


「分かってくれて嬉しい」


 エルクシードが目元を緩めた。ホッとした顔つきに、自分が仮面舞踏会に出席をしては、彼の気が逸れてしまうのだと感じ取った。確かに、リリアージェは世間知らずだ。仮面舞踏会の裏の顔を知らなかったのだから、彼が心配になるのも頷ける。


 彼は結局リリアージェの不参加を撤回はしなかった。

 この宿にいることが彼の最大限の助けになるのだ。それを考えると寂しさに襲われた。


「そろそろ寝支度をしますわ。おやすみなさい、エルクシード様」

「ああ。おやすみ、リリアージェ」


 あてがわれた寝室へと戻ったリリアージェは侍女にドレスを脱がせてもらい、化粧を落とし湯につかった。


 ほわほわと身体は温かいのに、心は沈んだままだった。

 今日もやらかしてしまった。原因は分かっている。エルクシードの言動一つをリリアージェが過剰に受け取って噛みついてしまうからだ。


(わたくし、だめね。エルクシード様にお仕事の内容の一部を言わせてしまったわ)


 落ち込み、寝台の背もたれに身体を預ける。エルクシードは政治の仕事に身を置いている。機密事項を扱うことの方が多いのに、自分はそれをくみ取ることが出来なかった。

 嫉妬と仲間外れにされたことが悲しくて、俯瞰して見ることが出来なかった。


(わたくしが、もっと大人だったら……。エルクシード様とそう年も離れていなかったら。世間に慣れていたら。一緒に仮面舞踏会に出席をして、彼を助けることが出来たのかしら)


 もしも、のことなんて考えても仕方がないのに。他の使者のご夫人たちと自分を比べてしまう。きっと彼女たちは場慣れをしていて、たとえ休憩室に誘われても優雅に、けれどもきっぱりと断るのだろう。言葉の裏の意味を読み取り自分の身を守ることが出来る。


 たくさんの世界を知って、そして自分の世間知らずと幼稚さを知ってしまう。そりゃあエルクシードだって、重荷に感じてしまうだろう。

 夜の闇は人を弱くする。まだ、エルクシードと離れたくない。ぎゅっと胸の前でこぶしを握り締め、寝台の上に横たわった。

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