第27話

 気落ちしたヘンリエッタに掛ける言葉が見つからず、リリアージェは黙って彼女の側に付き従う。

 外の空気はひんやりとしていて、長い時留まっていては彼女の身体に障ってしまう。


「……お母様」


 リリアージェは躊躇いがちに、そっと呼びかけた。


「そろそろ、帰ることにするわ。あの人も、わたくしに居てほしくないみたいだし」


 からりとした声はしかし、無理に出しているのだと思わせるには十分で。


 気休めを言うには、先ほどのブリュネル公爵の声は冷たく、言葉も素っ気なかった。嫁いできた当初からブリュネル公爵は屋敷を離れていることの方が多かった。いつの間にかそれが当たり前だと思ってしまっていた。


 しかし、成長をして、今日改めて二人が相対した場面に居合わせて、リリアージェが感じたこと。それは、公爵のあの態度はいかがなものか、というものだった。思いやりの欠片も無い態度と声に、ヘンリエッタがどれほど傷ついたのか。

 自分の夫があのようだから、彼女がリリアージェに優しくて誠実な夫を、と望むのも理解できた。


「正面玄関まで送りますわ」

「侍女を連れてきているから大丈夫よ。あなたはまだ若いのだから、楽しみなさい」

「わたくし、もうしばらくお母様の側にいたいのですわ」

「ありがとう。リリー」


 リリアージェはヘンリエッタの腕に自分のそれを絡めた。

 なんとなく甘えたくなった。離れる間際まで一緒にいたい。ヘンリエッタを一人にしたくない。


 控室に寄り帰り支度を整えたヘンリエッタを馬車まで見送り、リリアージェは大広間に戻ることにした。


 ヘンリエッタと別れてしばらくすると、沸々と怒りが湧いてきた。ここは娘としてガツンと意見したほうがいいのではないか。だってあの態度はあんまりである。

 サフィルに戻ってきているなら、屋敷に顔を出せばいいのに、ヘンリエッタのあの様子では、公爵の帰還だって今日知ったに違いない。


 大広間に戻り、ブリュネル公爵の姿を探すが、あいにくと見当たらない。別の場所にいるのかもしれない。宮殿内のいくつかの部屋は客人たちに解放されており、煙草を吹かせたり、休憩をしたり、撞球室で遊んだり、その過ごし方は様々だ。


 大広間を一人で歩いていると、次のダンスを申し込まれた。リリアージェは今度は丁重に断り、別の部屋へと向かった。

 歩いていると、徐々に頭が冷えてきた。


(……さすがに義理の娘が突然に抗議をするのは……無礼よね)


 ふう、と息を吐き出す。


 リリアージェはいくらか冷静になって、辺りを見渡した。公爵も見当たらないが、エルクシードの姿もない。


(そういえば、お母様が先に帰ってしまったから、公爵家の馬車は不在だわ)


 一度屋敷へ戻って再び宮殿まで取って返すまで、しばし時間がかかるだろう。ヘンリエッタの帰宅も知らせておいた方がいい。


 リリアージェはひとまずエルクシードを探すことにした。

 そういえば、せっかくの舞踏会なのに結局彼とは最初の円舞しか踊っていない。しかもあれは曲の途中で横にずれていくから、踊る相手がすぐに変わってしまう。

 あれでは、一緒に踊った内にも入らない。


(そういえば、彼は誰かと踊ったのかしら……?)


 自分も立て続けに見知らぬ招待客からダンスの申込をされたようなことが彼にも起こったのだろうかと考えた。すると胸の奥がずーんと重たくなった。舞踏会は社交の一種なのだから、誰と踊ろうと仕方がないのに。


 現にリリアージェだって、何人もの男性と踊る羽目になったのだから、エルクシードを非難する権利はない。

 エルクシードと舞踏会を楽しめるほど自分の心は純粋ではないのに、彼が誰かと踊っているところを想像するだけで物悲しくなる。


 リリアージェは慌てて意識をもとに戻した。

 解放された続き間をいくつも通り過ぎていく。この先は、シガールームだ。


 男性たちが歓談にふける場であるため、一人で入っていく勇気はない。彼がいるとも限らないのだし、男性の社交場に女性一人で立ち入れば、無作法に写ってしまう。

 従僕でも捕まえようとか思案していると、前方からお目当ての人物が歩いてくるのが目に入った。


「リリアージェ」

 エルクシードがすぐに見つけてくれた。どうしてだか、そのことにとても安堵した。


「どうしたんだ? 母上は?」

 大きな歩調で近づいてきた彼が、あっという間にリリアージェの目の前までやってきた。


「それが、色々とありまして」


 リリアージェが言葉を濁すと、エルクシードの後ろから複数の顔がのぞいた。


「噂をすれば、ヴィワース夫人ではないですか」

「ああ本当だ。エルクシードをせっついてもなかなか紹介してくれなくて、焦れていたところなのですよ」

「おい」


 全員エルクシードと同じ年頃の青年たちだ。皆宮廷装束に身をまとい、髪の毛をきちんと撫でつけている。貴族階級の男性たちに視線を注がれて、リリアージェは少々面食らう。

 彼らはエルクシードの友人なのだろう。そのことに思い至り、リリアージェは一歩身体を後ろへ引き、ドレスの裾を摘まみ上げ、礼をした。


「エルクシード・ノワール・ブリュネルの妻、リリアージェと申します」


 にこりと微笑めば、彼らも釣られた様に、顔に対外的な笑みを浮かべた。その瞳には隠しきれない好奇心が覗いていた。

 複数人の男性から近しい距離で注目を浴びる機会など今までなかった。少々面食らっていると、彼らが次々と話し出す。


「このように美しい奥方をエルクシードは長い間一人独占していたとは」

「宮殿でもあなたのことはずいぶんと噂になっていますよ。今日は何とかして声をかけたいと意気込んでいたのです」

「このあと是非ダンスを一曲お相手いただけませんか」


 一人の青年がずいと前に出る。

 リリアージェは突然のことにびっくりした。エルクシードの友人だから無下にすることもできない。まあ、一曲くらいなら社交辞令だ。そう思い、笑顔を作って承諾しようとしたところで、エルクシードがリリアージェを隠すように、立ちはだかる。


「妻は初めての舞踏会で疲れている。ただでさえ、先ほど立て続けに踊ってくたくたなんだ。悪いが、次の機会にしていただきたい。では失礼する」


 彼は一気に言うと、リリアージェの背中に腕をそっと添えた。

 エルクシードが歩き出したため、リリアージェもなし崩し的に足を踏み出す羽目になった。


 友達相手に、少し素っ気なさ過ぎやしないだろうか。リリアージェのほうが心配になってしまう。休憩を取って足の疲れも和らいできた。一、二曲くらいなら別に付き合える。

 そう言おうとするのにエルクシードの歩調が速くて、ついていくので精一杯だった。


 いくつかの続き間を抜けたところで、ようやくエルクシードが立ち止まり話しかけてきた。


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