第23話

「わたくしも、リリーが可愛くて手元に置きすぎてしまった」

「だからクラウディーネ妃に預けたのですか」


「これからのあの子には、この国で助けてくれるお友達が必要だもの。いつまでも、わたくしの手元に置いておけないわ」


 ヘンリエッタの背中が急に小さく思えた。母の身体が急にしぼんだように感じられた。

 それは、彼女なりに迷い悩んでいたという告白だ。八歳の頃からリリアージェと共に暮らしていたのだ。彼女は身体が弱く、エルクシード一人を産むのが精いっぱいだった。


 昔から娘が欲しかったらしく、リリアージェがブリュネル公爵家に嫁してくることが決まると、張り切って迎え入れる準備をしていた。

 エルクシードとしても、母がリリアージェを慈しみ、惜しみない愛情をかけているのを知っていたから、預けっぱなしにしてしまっていた。


 まさかここまで二人の絆が深まるとは誤算だったのだが。


「娘が巣立つというのは、こうも物悲しいものなのかしらね」

「別に巣立ったわけではないでしょう。彼女はブリュネル公爵家の、私の妻です」

「あとは、あの子の花嫁姿と、孫の顔が見れれば、言うことないわね」


 息子の言葉をきれいに無視をして、彼女は独身娘を持つ母親のような台詞を言ってのけた。

 ヘンリエッタが窓の外を眺めた。空を、いや、遠くに思いを馳せたその視線の先に映っているものは何なのだろうか。


「花嫁衣装も孫も、私とならすぐに叶えますが」

「あなたじゃ、信用ならないのよ。これ以上わたくしを失望させないで」


「ご自分だって誤ったのだと、今しがた告白をしたでしょうが」


「わたくしのは……、数ある選択の中で、違うものを選んでいたら、また結果は変わっていたのかしら、という独白よ。あなたは、ずっとリリーを無視し続けた。リリーは、あなたを見限った。これが全てよ」


「ですから今全力で挽回をしている最中です」


 成果は未だに芳しくない。

 ヘンリエッタは室内を移動し、文机の引き出しを開けた。

 何かを手に持ちエルクシードの近くへ来て、目の前に紙を掲げた。


「これは……」


 視界に映る文字を黙読し、思わずうめき声が出た。

 それは、白紙の離婚免状だった。


「べつに、一年を待たずともあなたたちを離婚させることは可能なのよ」

「いつの間に……」


「なぜだかヘルディオ枢機卿からの使者が途中で足止めをされていたようなのよ。まったく、誰のせいかしらね」

「……」


 エルクシードは沈黙を選んだ。


「今回はニコライ殿下とジェイブ大司教の顔を立てたけれど……覚えておきなさい。わたくしはその気になればすぐにでもあなたたちを別れさせられる」


 目を見れば分かる。彼女は本気だ。


「私の署名が必要ですよ」

「そんなもの、何とでもなるわ」


 彼女の言う通りなのだろう。世の中、黒を白と主張をして、それが認められる方法など、いくらでも存在する。ヘンリエッタは権力を使うと決めたら躊躇わない。そう思わせるだけの感情が、彼女の瞳に宿っていた。


 だが、エルクシードだって譲れない。


 こちらに遠慮をしなくなったのか、リリアージェはエルクシードに対して辛辣な言葉を吐くようになった。

 昔の、どこか背伸びをしている彼女も微笑ましかった。よそよそしく目線を外されているよりも、今のように言いたいことを言ってくれている方が、彼女を近く感じることが出来る。


 十六歳のリリアージェに嫌われたのだと思っていた。

 面白みも無い、冗談の一つも言えないような堅物が夫なのだと、世間を知ったリリアージェにがっかりされ、幻滅されたのだと思った。今だって、彼女はエルクシードに対して複雑な感情を抱いているのだろう。


 それでも、どうにかして彼女との距離を埋めたい。まだ、縁を切らないでほしい。挽回する機会を与えてほしい。

 彼女ともっと会話を続けたい。明るくて元気な彼女を側で見つめていたい。それがエルクシードの偽りのない本心だった。


「……だけど……」

「何です?」


「いいえ。何でも。それよりもいつまで人の部屋に居座る気なの。夕食までゆっくりさせて頂戴な」


 言外に出て行けと言われたためエルクシードは退出することにした。


「ではまた後ほど」


 夕食は共に、と匂わせるとヘンリエッタは犬を追い払うように片手を持ち上げ前後に振った。



 素直に出て行ったその直後、ヘンリエッタは小さく零した。


「……あの子はわたくしの気持ちを尊重して離婚に頷いた。……知っているのよ。本当は迷っているのでしょう、リリー」


 その言葉はエルクシードには届かなかった。

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