第12話
離婚などすぐに成立すると思っていたのに、これは大誤算だった。
まさかエルクシードがこのように往生際が悪いとは思ってもみなかった。世間体とは、とても大切なものらしい。
結果、一年もの間リリアージェはエルクシードと一緒に過ごさなければならなくなった。
とはいえ、クラウディーネの話し相手という立場は変わらない。このあたりのことは、大司教も「世間を知ることはよいことだ」と頷いてくれた。
リリアージェは現在もディアモーゼ宮殿で寝起きをしている。
「リリアージェ、音に少し迷いが出ていたわよ」
一曲弾き終わると、クラウディーネが声を掛けてきた。
彼女は趣味でチェンバロを嗜んでいるため、二重奏を行っていた。ちなみにリリアージェは嫁いで来て以降、ヴァイオリンを習っている。
「いえ、そんなことありませんわ」
「そう? エルクシードから何か強いられたら、わたくしにちゃんと相談するのよ」
「ありがとうございます」
リリアージェはクラウディーネに大司教との面談結果を伝えた。一年の離婚猶予期間が設けられたことについて聞いた彼女は、呆気に取られた。戸惑うリリアージェに代わって感情を爆発させた彼女がいてくれたから、早く立ち直ることが出来た。
その後、エルクシードからは手紙が届いた。
これまでの不誠実を詫び、二人きりの時間を作ろうと提案する内容のもので、さっそくスフェリ散策でもどうかと、彼は手紙の中で誘ってきた。
今まで散々放っておいて、この手の平返しはどうなの。素直に従うのも面白くなくて、リリアージェは宮殿に上がったばかりであることを理由に断った。
実際、今は何もかもが初めてで、エルクシードと呑気に遊んでいる場合ではない。
「もう一曲、何か弾きましょうか」
クラウディーネが楽譜から曲を選定し始めたところで、女官がしずしずと近づいてきた。
午後も早い時間だというのに、ニコライが面会を求めているとのこと。
クラウディーネの眉がぴくりと跳ね上がった。
「わたくし、忙しいの」
女官に伝言を伝えさせ、彼女がニコライの伝言を持ってきて、を繰り返すこと、二回。
ついに、扉が開いてニコライが入室をしてきた。後ろにはエルクシードが続いている。
なるほど、クラウディーネがごねた原因はこれか。リリアージェは夫婦の問題にクラウディーネを巻き込んでしまったことに対して心の中で詫びを入れた。
「やあ、クラウディーネ。たまにはきみと過ごしたくてね。小休憩をもぎ取って来たよ」
「なにを、白々しい。ちゃっかりエルクシードまで引き連れて。わたくしを訪ねてきたなどと、嘘八百を。本命はリリアージェでしょう」
クラウディーネが目を吊り上げた。
「いやあ、さすがに門前払い記録が四日間更新中では、私の出番かなと」
「あら、わたくしたち毎日お取込み中ですもの」
クラウディーネがつんと顎を逸らす。
リリアージェは思わず彼女を見つめた。
(門前払いって、どういうこと? もしかして、エルクシード様はここ数日、わたくしを訪ねていらしたってこと?)
ニコライの話した内容から察するに、そういうことなのだろう。ちっとも気が付かなかった。リリアージェは大抵クラウディーネと行動を共にしているし、そのほかの時間はガルソン夫人から宮殿の作法やしきたりなどを学んだり、他の女官と交流を深めたりしている。
「クラウディーネ、これはエルたち夫婦の問題だ。そして、大司教が判断を下された」
「恣意に満ちたものですけれどもね!」
クラウディーネがリリアージェの代わりに怒ってくれている。
リリアージェはまだ、気持ちの整理がつかない。ようやく、彼から離れると決めたのに。それがどうしてもうあと一年も一緒にいなければならないのか。
期待をしてしまいそうになる自分が嫌になる。
「さて、クラウディーネ。私と一緒に子供たちの様子でも見に行こうか。なんなら、庭を散歩しよう」
ニコライがクラウディーネの手を取った。
「ちょっと、ニコライ。わたくし、色々と」
ニコライが笑顔を作ったままクラウディーネを連れ出した。
「大丈夫。女官を控えさせるから、二人きりにはならないよ」
「ちょ、そういうことでは――」
クラウディーネの声が遠ざかった。
結果、リリアージェはエルクシードと共にとり残された。ニコライの言った通り、女官が入室をしてきた。部屋の扉は開いたままである。
「ヴァイオリン、まだ続けていたんだな」
「はい」
生国、セルジュアでは放置され気味だったリリアージェだが、ブリュネル公爵家に嫁いで来てからは淑女教育の一環として様々な習い事を受けさせてもらった。もちろん、勉強も教養もみっちり仕込まれた。
「クラウディーネ様から、今年の演奏会に参加をしないかとお誘いを受けております。わたくし、多くの人前で演奏をするのは初めてなので、上手くできるかどうか」
「妃殿下は毎年夏に仲の良いご婦人方と一緒に小さな演奏会を開いていたな。殿下も時間を作って聞きに行かれる」
「それは……緊張しますわ」
「きみが舞台に上がるというのなら、私も是非聞きに行く」
「それは……。わたくしからは、どうぞご勝手にとしか」
リリアージェは曖昧な表現にとどめた。ここで是非いらして、なんて言えない。だって、これは離婚猶予期間中のリップサービスに決まっているから。
来たければ来ればいい。その他大勢の観客くらいにしか思わなければいいのだから。
「それで、本題なんだが」
「お手紙の件なら、断りましたわ。わたくし、忙しいのです」
「ああ。分かっている。だが、ほんの少しの時間も無いのか? スフェリを見て回るのもよい経験になると思う」
「わたくし、宮殿に上がって日が浅いのです。せいぜい昼食の時間くらいしか空いていませんわ。それだって、本当ならば他の方々と一緒に」
と、ここでリリアージェは口をぴたりと噤んだ。
なぜなら、エルクシードが口角を持ち上げたからだ。
(やられたわ! スフェリ散策が本命ではなかったのよ!)
「そうか。昼食の時間くらいならば、私に割いても支障はないのか」
「毎日ではありませんわ! わたくしにだってお付き合いというものがありますのよ」
「ああ。わかっている。友人を作ることはよいことだ」
「なんですの、その年上発言は」
「気のせいだ。私も僭越ながら、ニコライ殿下の学友として一緒に学ばせていただいた。殿下とは主君と臣下という関係ではない絆のようなものがある」
「ええ。存じておりますわ。大変に仲がよろしいのですね」
当て擦ると、エルクシードが目を少しだけ丸くしてそれから笑った。
リリアージェはなんとなく、ばつが悪くなった。気が付けば、会話が続いてた。あれほど、彼と話すのが気まずかったのに。こんなふうにぽんぽん言い合いをするような関係になるとは思ってもみなかった。
「そうだな。殿下は優先事項を忘れることは無いが、それ以外では臣下に対して情を持たれる」
それはきっと、政に携わる時には別の顔があるということ。エルクシードも同じなのだろう。彼が忙しいのは、国の中枢で働いているからだ。
この時代、滅私奉公など当たり前のことだった。彼は王太子の側近なのだから、携わる政務だって膨大だろうし、そのどれもが重要なものに決まっている。
「では、二日後に昼食を一緒にとろう。気温次第にもよるが、テラスに用意させる」
「わかりましたわ」
「迎えに来るから、どうか逃げないでほしい」
「わたくし、尻尾を巻いて逃げるような弱虫ではございません」
だいたい、逃げれば何を言われるか。次の面談で大司教にリリアージェが非協力的だと言われでもしたら、たまったものではない。
「楽しみにしている」
エルクシードは上機嫌である。
結局、リリアージェは彼と一緒に食事をすることになってしまった。
(なんだか……わたくし……普通にしゃべれていたわ)
先日、スフェリの公爵家の屋敷で二人で晩餐をとったときは、重苦しい空気が流れていたというのに。この違いはなんだろう。
リリアージェは去っていくエルクシードの背中を見送った。
このような茶番をどうしてエルクシードが続けるのかが分からない。
それなのに、今の時間が存外に心地が良くて、ふと昔の楽しかった食事の時間を思い出してしまった。たまの休暇の折、領地に帰ってきたエルクシードと同じ食卓を囲むことを、あの頃のリリアージェはとても楽しみにしていた。
十四、五歳の思い出。他愛もない話を穏やかな顔で聞いてくれた。
寂しさに胸が包まれる。無邪気さだけで過ごすことが出来たあの頃が懐かしい。
このままでは、流されてしまいそう。
(ううん。だめ。気をしっかり持って)
リリアージェは心の中で何度も自分に喝を入れた。
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