第10話
「この数年間の交流の少なさについては全面的に私に非があることです。反省をしています。だからこそ、離婚などという短絡的な思考ではなく、私に挽回の機会を与えて頂きたい。神だって、失敗を断罪するのではなく、慈悲の心を持つよう教えているはずです」
「今更挽回ですって? そうこうしている間にも、リリーの貴重な時間は過ぎていってしまうのよ。あなたと離婚をして、それから新しく誰かと出会って婚約をして、などと考えていたら、今すぐにでもあなたと離婚をさせたいくらいだわ」
「ブリュネル公爵夫人、静粛に。これは、ここにいる夫婦の話し合いだ」
「しかし……」
「言うことを聞けぬのなら、退席してもらうことになる」
有無を言わさぬ台詞に、ヘンリエッタは今度こそ黙り込んだ。
頭に血が上っているヘンリエッタは悔し紛れに閉じた扇を捻った。ぽきりと、小さな音が聞こえた。ついに折れてしまったらしい。
「私はずっと仕事にかまけていて、リリアージェを母に預けたままにしておいた。しかし……彼女は私の妻だ。今年は、きちんと夫婦の義務を果たそうと、そう考えていました」
「……義務ですか」
ぽろりと、リリアージェの口から言葉が滑り落ちた。
小さな声だったが、エルクシードが口を閉ざした直後ということもあり、それは存外にその場に響いた。
「いや、ちがう。言葉の綾だ」
「いえ、取り繕わなくても結構です」
「義務というのは語弊だ。彼女と向き合いたく、用意していたものがあった」
エルクシードが上着の内側のポケットから小さな箱を取り出した。
天鵞絨張りのそれを、彼はリリアージェによく見えるように開いた。中には大粒のエメラルドが鎮座していた。
「本当は、あの日の晩餐の席で渡すつもりだった。今年の誕生日の贈り物だ。きみに似合うかと思って……。ブローチだ」
「え……」
突然目の前に現れたエメラルドに瞳が吸い寄せられる。美しい澄んだ色をしたそれは、もしかしなくてもリリアージェの瞳の色と合わせてくれたのだろうか。
「はんっ。それが何だっていうのよ? 毎年馬鹿の一つ覚えのように、くまのぬいぐるみを送りつけていた男が」
ヘンリエッタが再び低い声を出した。
「大体、リリーの誕生日前に用意をしたというところから作り話ではなくって?」
「宝石商の訪問記録と、購買記録です。帳簿も借りてきておりますから、日付の詐称は出来ません」
エルクシードが帳面を取り出した。
リリアージェも確認すると、確かにエメラルドのブローチは、誕生日の前に買い求められていた。
(これを……、わたくしのために、エルクシード様が用意してくださった……?)
やっつけ仕事ではなくて、ちゃんとリリアージェの誕生日前に用意してくれていたのだということに、胸の中にじわじわと喜びが浸食していく。
リリアージェは今すぐに手に取ってみたい衝動を必死になって抑え込んだ。
「リリアージェ」
エルクシードの真っ直ぐな声に呼ばれた。導かれるように視線を向けると、はしばみ色の瞳に射抜かれた。少し照れているのだろうか、顔がいつもよりも赤い気がする。
「これは、きみのものだ。渡しておく」
エルクシードが立ち上がり、リリアージェの近くまでやってきた。目の前に天鵞絨張りの小箱が置かれた。
誘惑に勝てなくて、リリアージェはついその箱を開けてしまう。
ずっと、憧れていた。旦那様から、エルクシードからぬいぐるみ以外のものを贈られることに。
成長するにつれ、いつかは彼から何か、身に付けるものを贈られたいと願うようになった。りぼんでも、手巾でもよかった。女性として見てくれているのだな、と感じることのできる品物を贈られたら。それはきっと大人として認めてくれた証。
贈り物一つで懐柔されてしまうのは不本意なのに。
ブローチをそっと手に持つ。金色の台座の上に乗っているのは、深い緑色の縦長の楕円形の宝石。
「きれい……」
「ずいぶんと探した。きみの、その。瞳の色と似たものが欲しかった」
どうしよう。まるで本当の夫婦みたいで、胸の奥が騒がしい。
ああでも。喜ぶ心とは別のところから警鐘が鳴った。
(だめ。だって、彼はわたくしのこと、お荷物だって。国から言いつけられて仕方なく結婚したのだって)
それは、二年前に聞いてしまった彼の本音。彼の声がリリアージェの脳裏にこびりついて消えてくれない。
「リリアージェ殿。そなたの夫は、これまでの己の行いを省み、変わろうと決意をしておる。彼に、ひとたびの時間を与えることはできまいか?」
「わたくしは……」
あとに続く言葉が出てこない。リリアージェはゆらりと瞳を揺らした。
さっきもエルクシードの口から、義務という言葉がでたばかりだ。彼がリリアージェのことを重荷に思っていることなど、とっくに知っているというのに。
思いがけず渡されたブローチこそが、彼の本心なのではないかと、信じてしまいたくなる。心がときめいてしまう。
だって、リリアージェはずっとエルクシードだけを見つめてきた。
年端もいかない頃は、自分が結婚していることなどまるで自覚もなかった。エルクシードはニコライと共に留学中であったし、帰国してからも彼はずっと王都にいたからだ。
けれど、あのころはまだ、無邪気に結婚ごっこが出来ていた。
そう、あれはただのままごとだった。年に数度会うリリアージェに、エルクシードが付き合ってくれていただけのこと。
自分の話を優しく聞いてくれる彼に胸をときめかせて、手紙を書いて。返事をもらうたびに喜んだ。
ちりちりと胸が痛む。彼を慕う心が、リリアージェの奥底から顔を覗かせる。
それに気づかない振りをして、リリアージェは平静を装い口を開く。
「わたくしは……お母様のために、花嫁衣装を見せて差し上げたいのです」
(お母様、ごめんなさい)
リリアージェは言い訳にヘンリエッタを使うことを内心謝った。
「私よりも、きみは母上を取るというのか?」
「……はい」
エルクシードの問いかけに、なんとか頷いた。このままエルクシードの妻でいても惨めなだけだ。
彼はこの先も、リリアージェを見ることなどないだろう。これまでだって、女性として彼の側に侍ることもなかった。
公爵家の今後を考えるのなら、エルクシードを自分から解放してあげるのが一番だと思った。それに、無理に彼と本当の夫婦になっても、余計に心の傷が広がるだけな気がする。
「それに……、わたくし、穏やかな家庭を作りたいのですわ」
「穏やか?」
「ええ。仕事で家を留守にするのは仕方がありません。けれども、妻のもとに帰ってくるのが年に数度だけ、というのは……寂しすぎますわ」
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