第9話
それから六日後、リリアージェはヘンリエッタと共に王都内の聖教庁の建物へ召集された。
呼び出し人はこの教区の大司教である。ヘンリエッタから召集に関する手紙を受け取ったリリアージェは訝し気に眉をひそめた。この時期に、普段何のかかわりもない大司教より呼び出されるなど。心当たりとして浮かぶのは、エルクシードとの離婚くらいなもの。
ディアモーゼ宮殿までリリアージェを迎えに来たヘンリエッタは、扇をしきりに開いたり閉じたりしていて、せわしなかった。馬車の中で聞いたのは、離婚免状が一向に届かないことに関する愚痴だった。
近日中に届くよう算段をつけたからこそ、リリアージェはエルクシードに離婚を切り出した。それが一体どうして。今日の召集もあって、なんとなく、嫌な予感がする。
スフェリ大聖堂に隣接する聖教庁の建物の、来客用の待合室に通されたとたんにヘンリエッタはぎりりと歯噛みをした。
「これは絶対にエルクシードの差し金ね。まったく。大司教殿に泣きつくだなんて、女々しいったらありゃしないっ!」
ヘンリエッタがせわしなく扇を動かしていると修士が訪れ、大司教のもとへ案内するという。二人は立ち上がり、男の後ろを歩いた。階段を上り廊下を進み、大きな樫の木の扉の奥へいざなわれた。
案内されたのは、長方形の大きな机が鎮座した、やや天井の高い部屋だ。深い茶色の机は年季を感じさせるがつやつやに磨かれていて、二十近くの椅子が並んでいる。平時は会議に使われているのだろう。
リリアージェたちが通されたのとほぼ同時にエルクシードとニコライが入室をした。
多忙なはずのニコライが同席することに、リリアージェはぽかんとしてしまった。今朝、クラウディーネは何も言っていなかった。
こちらもヘンリエッタを連れている以上、エルクシードに一人きりで来いなどとは言えない。互いに味方を引き連れてきたわけだ。
ヘンリエッタが気色ばみ、口を開きかけると、それを牽制するかのようにニコライが話始める。
「私のことはお気になさらず。リリアージェ夫人にブリュネル公爵夫人という心強い味方がつくというのなら、エルクシードにも味方がつかないと、不公平というものでしょう?」
ヘンリエッタは不承不承という顔で押し黙った。
しかし、何かを言わないと気が済まないらしい。ヘンリエッタは扇を広げて優雅に動かしつつ、冷ややかな声を出す。
「離婚免状が届かないのよ。あなたたち、なにか知っていて?」
その言葉に男性二人は黙ったまま。しかし、その沈黙が肯定の証でもあった。
ヘンリエッタが好戦的なため、リリアージェは挨拶をする機会を失ってしまった。エルクシードに何か、声掛けをしたほうがいいのだろうが、優雅に挨拶という雰囲気でもない。
結局沈黙を選んで、ヘンリエッタの隣で大人しくしていることにした。
五分ほど経過したのち、大司教が部屋の扉をくぐった。背の低い細身の男性で、口ひげを生やしている。年の頃は六十代に届くだろうかという風情だ。
「さて。今日この場にあなたがたをお招きしたのは、ここにいるエルクシード・ノワール・ブリュネル殿から相談があったからだ。自身に同意のない離婚を進められている、と」
「同意など必要ありませんわ。わたくしの息子は、長い間妻を放置し、夫としての義務を怠っております。これはもう、婚姻を継続する意思がないと判断されても仕方のないこと。それを世間体だのなんだのと、今更ごねるのは見苦しいですわ」
ゆったりと話始めた大司教に噛みつく勢いで、ヘンリエッタが声高に主張をした。
大司教はすべてを聞き終え、エルクシードに視線を向けた。
男性と女性が対面に座り合い、大司教は全員を見渡せる席にその身を落ち着かせている。
「私たちの結婚はいささか特殊でした。リリアージェが私の妻となったとき、彼女はまだ八歳でした。妻としての立場を求めずに、母上に預け、健やかな成長を願うのは当然のこと」
今度はエルクシードがゆっくりと声を紡いだ。
それを聞いたヘンリエッタは鼻で笑った。
「わたくしが言いたいのは、そのあとのこと。世間では十六になれば結婚をするお嬢さんが大半よ。それが早いというのなら、十七でもいいわ。けれども、あなたは年頃を迎えたリリーと本当の夫婦になるどころか、年に数度手紙を寄越すくらいだったじゃないの。この子は、今月ついに十八になったわ。そろそろ行き遅れと言われる年頃よ」
この国では大抵の女性が十六、七で結婚をする。
ヘンリエッタの言う通り、リリアージェは春の始まったこの季節、十八歳になった。
もう十分に大人だ。それでも、エルクシードはリリアージェに対して、手紙の一つも寄越さなかったし、王都へ来るよう求めもしなかった。
(けれど、仕方のないことだわ……。エルクシード様にとってわたくしはお荷物以外の何物でもないもの)
胸がちくちくと痛むが、彼の本音を十六歳の時に聞いているのだ。
あの日、園遊会でのことだった。スフェリにある公爵家の屋敷で、多くの人を招いての午後のひと時は、リリアージェにとって楽しいものになった。
エルクシードは優しい表情で始終リリアージェを気遣ってくれていた。彼はあまり表情を表に出さないけれど、昔からリリアージェに対しては顔をやわらげてくれていた。きっと、初対面の時に怖がって泣きそうになったからだ。
招待客らに挨拶をして、十六歳を迎えたことへの祝いを述べられて。
楽しい時間はあっという間に過ぎた。各ぞれぞれが談笑にふけっていると、いつの間にかエルクシードの姿が無かった。
人に尋ねると、どうやら友人たちの相手をするために屋敷の中に入ったとのこと。彼を探しに行こうと、建物へ近づいたとき、開いた窓から声が聞こえてきた。
――子供を妻に押し付けられて、私だっていい迷惑だ。
その瞬間に、リリアージェの世界は崩れ落ちた。
彼がリリアージェに対して距離を置き続けるのは、リリアージェのことを押し付けられた妻としか見ることが出来ないから。
彼の内心を知っているため、昔のように屈託なく手紙を出すことも憚られるし、たまに会っても何を話していいのかわからなくて、ぎこちのないやりとりしかできなくなった。
空気も読めずにまとわりついて、これ以上失望されたくなかった。
「確かに、私は仕事にかまけてリリアージェを母上に任せきりにしていた。だからこそ、今後は彼女ときちんと向き合いたい」
「はっ。口では何とでも言えるのよ。今年、わたくしたちがスフェリへ赴くと手紙を書いたとき、あなたは最初忙しいからこちらには来るな、と返信を寄越してきたじゃない」
「あれは、本意ではありませんでした。母上はご存じないかもしれないが、今スフェリでは金持ちの家ばかりを狙った、大泥棒と呼ばれる同一犯の犯行が相次いでいます。そのような場所に妻を招くことなど出来ないと。それが最初に断りの手紙を書いた理由です」
「取ってつけたような言い訳だわ。そんなもの、警備を万全にすればよいだけよ」
「だから最終的には承諾したでしょう」
親子はしょっぱなから火花を散らし合う。リリアージェが口をはさむ隙間もなく、話し合いが進んでいく。いや、この場合は言い合いである。実の親子というだけあって、互いに遠慮が無いのか、どんどん語気が強まっていく。
「お二方、静粛に」
大司教の声が二人の間に割って入った。
ヘンリエッタとエルクシードが同時に口を噤む。
場が静まり返ったところで、大司教がそれぞれから意見を聴取した。今度はヘンリエッタではなく、リリアージェの口から離婚を希望する理由を求められた。
一同の目がこちらに向いている。
リリアージェは一呼吸をしてから口を開く。
「結婚をして、十年が経過をしました。そろそろお互いの人生について考えてみる時期なのではないかと思いました。わたくしたちは、最初から夫婦ですらなかったのです」
「大司教殿。こちらに、二人が白い結婚であることを証明立てる証言や行動を記した書類がございますわ」
ヘンリエッタがすかさず、あらかじめ用意してあった書類を取り出した。
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