第5話

 エルクシードの結婚が決まったのは、もうすぐ十七になろうかというときのことだった。隣国との親睦を深めるための、絵に描いたような政略結婚であった。


 東の隣国セルジュアとの間では、長年とある品の関税率について、話し合いがもたれていた。それがようやく解決し、その和解の象徴としてセルジュア側から王家の娘との婚姻を打診された。


 当時、王太子であるニコライはすでに婚約が決まっていた。そこで四代前の国王の息子を起源に持つブリュネル公爵家の嫡男であるエルクシードに白羽の矢が立った。

 年の差約十歳。しかも、輿入れしてくるセルジュア王家の姫、リリアージェは十にも満たない子供ときた。


 セルジュアからサフィルに嫁いできたリリアージェは当時八歳。彼女の誕生日をわずかに過ぎた、春の息吹が大地に芽吹く頃のことだった。


 貴族に政略結婚はつきものだ。エルクシードは王家の流れをくむ公爵家に生れ落ちた。自身の結婚に己の意思など反映されないことなど、早くから理解をしていた。


 この結婚をおままごとのようだと揶揄する貴族たちも多かった。


 中には貧乏くじを引いたな、と率直に言ってくる輩もいたのだが、エルクシードにしてみれば妙齢の女性を貰うよりもありがたかった。


 リリアージェは、領地の母のもとで育てられることが決まっており、エルクシードはその時間を使って王太子ニコライの留学に随行することができたからだ。帰国後もニコライの側に仕え、彼と一緒に国政への参加と経験を積むことに注力することが出来た。


 彼女とのやり取りは、季節の手紙が主だった。あまりに早い段階で互いを印象付けるのもよくない、というヘンリエッタの助言もあり、顔を会わせるのは夏と冬の長期休暇くらいなものだった。


 リリアージェは礼儀正しい娘だった。まだ年端もいかない頃に、大人たちの都合で祖国を離れることになった彼女に対して、エルクシードは丁寧に接した。


 初対面の時こそは、見知らぬ男に対する怯えが見えられたが、三年したのちに再会した時はずいぶんとサフィルでの生活にも慣れ、子供らしい笑顔を見せてくれたものだった。


 年を重ねるごとに、美しくたおやかに成長をしていったリリアージェ。天真爛漫という言葉は彼女のためにあるのではないかというくらい、明るく純粋な彼女の隣では、エルクシードも知略とは無縁に、心穏やかに過ごすことが出来た。


 彼女からの手紙を読むたびに自然と顔がほころび、ヘンリエッタのもとでのびのびと暮らしていることを自分のことのように喜ばしく感じた。


 そして、現在。


 昔の面影を残しつつも、十八歳という一番輝かしい年頃のリリアージェがすました顔をしてエルクシードの前に腰を落としている。


 その隣には、王太子妃クラウディーネの姿。

 先触れを出すと、クラウディーネはあっさりとエルクシードとニコライを招き入れた。


「私の側近であり、友人でもあるエルクシードの奥方がきみの女官になったのだったね。これは一体どういうことか、私にもわかるように説明をして欲しい」


 ニコライがややかしこまった声を出した。すると、クラウディーネが扇を広げ、口元を隠しながら、ころころと笑った。


「女官ではないですわよ、殿下。行儀見習いに娘を宮殿に上げたいのです、とブリュネル公爵夫人から相談を受けましたの。お義母様と相談をして、わたくしのもとで引き取ると決めました。それが何か?」


 金色の髪を緩やかに結い上げ、エメラルドグリーンの瞳を伏せがちにしたリリアージェは何も発しない。瞳の色と揃いの、鮮やかな緑色のドレスがとてもよく似合っている。


「行儀見習い? 彼女はエルクシードの奥方だ。きみのもとで何を見習うというのかな」


「わたくしの近くで社交を。お茶会や園遊会の采配の仕方や、お客様のおもてなし方法、それから流行りの話題の集め方や提供の仕方……そうそう、演奏会にも参加してもらうつもりよ。あとは、舞踏会のお供に、晩餐会の仕切り方も必要かしら」


「そういうものは……ブリュネル公爵家でも学べると思うよ」


「そうですわねえ……。でも、わたくしこの数年、社交の場でエルクシード、いえヴィワース子爵が夫人を伴っている場をとんと見たことがないのだけれど……。 ねえ、どうだったかしら? ガルソン夫人」


 クラウディーネが背後に控える女官に声をかけた。


「妃殿下の御記憶通りでございます」

「ああよかった。わたくしの記憶違いではなかったようね」


 年かさの婦人が示し合わせたかのように口を開くと、クラウディーネが笑みを深めた。しかし、瞳の奥に宿るのは、こちらを非難する色である。


 室内は、クラウディーネ主導で話が進められている。リリアージェはエルクシードの顔ではなく、胸元あたりに視線を定めたままである。


 離婚とは一体どういうことか。どうして急に宮殿に上がる気になったのか。

 彼女はずっとヘンリエッタと共に領地で過ごしていたではないか。

 聞きたいことはたくさんあった。


「妃殿下、人払いをお願い申し上げます」

 エルクシードはクラウディーネの背後に控えるガルソン夫人をちらりと見やった。


「彼女もすべての事情を承知していますわよ」

 クラウディーネがゆっくりと、そして確信的に口角をさらに持ち上げた。


「エル、事情ってどういう……」


 ニコライが訝し気に問いかけた。

 エルクシードは腹をくくることにした。一度呼吸をして、腹にぐっと力を入れ、リリアージェを見据えた。


「リリアージェ」


 名を呼ぶと、彼女はゆっくりとエルクシードの顔に視線を移動させた。宝石のように美しく輝く明るい緑色の瞳を縁取る金色のまつげが、ふるりとかすかに揺れた。


 エルクシードの胸の奥を、甘やかな感情が占めていく。いつの頃からだろう。「エルクシード様」と呼びかける、その無邪気な笑顔を誰にも見せたくないと考えたのは。


 何のためらいもなく、純粋にエルクシードを慕う彼女の無防備さに、心が怪しくざわめいたのは彼女がいくつの時だったか。


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