第4話
王太子の執務室近くに割り当てられているとある部屋の中。室内は、きのこでも大量に生えてくるのではないかというほど、どんよりとした空気に満ち溢れていた。
出入りをする文官たちは、口から魂が半分ぬけかけた部屋の主を内心恐れながら遠巻きに眺めていた。
奥にはこの部屋の主専用の執務机が置かれ、壁には棚が設えられている。
部屋の主、王太子の側近でもあるエルクシードは生気のない顔で書類を読んでいた。
しかし、文字として認識するだけで内容がまったく頭の中に入ってこなかった。
――エルクシード様、わたくしたちそろそろ離婚をしませんか?
突如脳裏に妻の愛らしい唇から紡がれた言葉が蘇った。
エルクシードはハッとして、辺りを見渡した。見慣れた宮殿の一室だった。王太子ニコライより与えられた側近用の執務室である。
(離婚など……)
うっと、胸が痛んだ。太い矢がぐさりと刺さったかの如く、酷い激痛だった。
胸を押さえて、浅い呼吸を繰り返していると、ちょうど居合わせた文官がぎょっとして飛び上がり「大丈夫ですか?」と尋ねてきた。
エルクシードは無理矢理顔に笑みを張りつけ「大事ない」と言った。文官はその顔を見るなり、酷い形相で部屋から逃げ出した。
エルクシードの胸は、まだじくじくと疼いている。
ついに、この日が来てしまった。いつかはこんな日が来るのかもしれないと、心のどこかで戦々恐々としていた。
二日前、エルクシードは妻から離婚を突きつけられた。
あまりのことに脳が考えることを拒絶し、固まっているといつの間にかリリアージェは部屋から出ていってしまっていた。エルクシードの凍結を解除したのは執事だった。
その後の記憶は断片的なものだった。正直、今だってどうやって出仕をしたのか覚えていない。
心と身体の歯車が合わないままエルクシードはこの二日間を過ごしていた。
「ねえ」
「……」
「エル。……エルクシード」
「――っ……。殿下、いかがなさいました?」
名を呼ばれ顔を上げると、執務机の前に上司である王太子、ニコライが立っていた。
「きみね。何度も呼びかけたのにぼおっとして」
「それは……申し訳ございません」
「いや、いいんだけどさ。明らかに様子がおかしいよね。だからちょっと見に来た」
いささか気安い口調でエルクシードに話しかけてくるのは、仕えるべき主でもある王太子ニコライだった。エルクシードと同じ年に生まれた彼は、やや癖のある金色に青い瞳を持った美丈夫である。人好きのする、話しやすい雰囲気をまとった彼は、長く学友を務めてきたエルクシードに対しては砕けた態度を取る。
「いえ。大して変わりません」
「それはないだろう。幽鬼のように青白い顔をしているとみんな心配をしているよ。きみ、滅多なことじゃ顔色なんて変えないだろう」
長い付き合いだ。確かに、人前で感情を表に出すことなど、滅多にないエルクシードである。常に冷静に行動し、国のために働け。こう言われて育ってきた。
ただでさえ、エルクシードの顔色を読むことに長けているニコライを前に、こうも酷い様相をしていれば、何かあったことなど一目瞭然。彼とは、十代の頃一緒に留学をした仲でもある。十年前にリリアージェと結婚をした直後のことだった。
その拍子にリリアージェとの思い出がよみがえる。
硬い蕾が柔らかく花びらを広げるように、美しく開花したリリアージェ。彼女の成長が眩しくて、いつの頃からか、一人の女性として想いを寄せるようになっていた。
エルクシードの愛らしい妻。その彼女から別れを告げられた。
「申し訳ございません。殿下にまで心配をおかけするとは不徳の致すところ。直ちに直します」
「いやいやそうじゃなくって。……とにかく、一度休憩をしよう。私も、きみに尋ねたいことがあるんだ」
エルクシードはニコライによって執務室から連れ出された。手近な小部屋に入り、二人の前にはコーヒーが置かれた。苦いそれに口をつける。
「きみの奥方、久しぶりにスフェリへ出てきたんだろう?」
今その名前は、痛みしかもたらさない。
「……あ、ああ。最近のスフェリは治安があまりよくないから、本当は領地に留まっていてほしかったんだが……。社交期もそろそろ始まるし、今年は母上も一緒だというから」
エルクシードは慎重に返事をした。二人きりになると、彼の言葉も砕ける。長い付き合いなのである。
ニコライを前に、彼女から離婚を切り出されたことを言うつもりはなかった。これは夫婦の問題だし、情けない姿を見せたくもなかった。
「巷を騒がせている大泥棒だっけ。盗みに入るのは名のある家ばかり。新聞に犯行声明文まで送りつけるという酔狂ぶり。こんなのがのさばるなんて、まったく。警邏隊は何をやっているのだか」
「それなりに共通点は見つかってきたようだが、なかなか尻尾を掴むことが出来ない」
「って今は大泥棒の捜査進捗はどうでもいいんだ。きみ、先日奥方と一緒に夕食をとったんだろう? 仕事の調整をしていたし、誕生日の贈りものに頭を悩ませていたじゃないか」
「……」
「奥方の瞳の色に合わせてエメラルドのブローチだなんて、堅物のエルにしては頑張ったよね」
「私だって、そのくらい気が利くつもりだ」
長年リリアージェの誕生日にくまのぬいぐるみを送っていたことは棚に上げるエルクシードである。毎年執事に「去年と同じものを」と用づけていた。年々彼のこちらを見る目が残念そうに垂れ下がっているのが気にかかっていたが、今年は自分で選ぶと告げたら、大感激する手紙が届いた。
「その、リリアージェ夫人が昨日から妻の話し相手として宮殿に上がったって聞いたんだ」
ニコライが少々困惑した声を出した。
「なんだと⁉」
そんなこと、エルクシードは一言も聞いていなかった。
いったい、どういうことだ。何のために。
驚きで次の句を継げないでいると、ニコライがその様子を観察し「やっぱり、聞いていなかったのか」と、背中を椅子の背もたれに預けた。
「いったいどうして……」
「クラウディーネに聞いても、そういうことになったの、としか言わなくてね。期限はいつまでと聞いても、はぐらかされたよ」
エルクシードは立ち上がった。
そもそも、宮殿に上がる準備など、いつの間にしていたのだ。いくら公爵家の人間と言えど、王太子妃付きの話し相手など簡単になれるわけではない。
エルクシードは家の者から何も聞かされていなかった。
どくどく、と急速に脈が早まる。離婚宣言の後の、宮仕え。これは、一体なんなのだ。
エルクシードはおもむろに立ち上がった。
「おい、エル。どこへ行く」
部屋を飛び出すと、ニコライに止められた。
「リリアージェに会いに行く」
「ということは、何も聞いていないのか」
「ああ」
「どういう経緯があるのか、夫であるきみは知る権利がある。先触れを出そう。私も同席するよ」
今すぐにリリアージェのもとへ乗り込むつもりだったエルクシードの頭が少しだけ冷えた。彼女が共にいるのは王太子妃クラウディーネである。
さすがに王太子妃のもとに事前の承諾も無しに乗り込むわけにはいかない。
それに、エルクシードが直接訪ねて、リリアージェは果たして彼の前に姿を現すのか。
「たのむ」
悲壮感が顔に出ていたのか、ニコライが力強く頷いた。
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