第2話

 サフィル王国の王都スフェリは比較的新しい都市である。

 瀟洒な建物が立ち並ぶ王都のやや北寄りに、壮麗なディアモーゼ宮殿はあった。

 正面入り口は総大理石造りで、大きな階段の上には美しい天井画。この世界に降り立ったとされる天の遣いが描かれたそれをゆっくりと眺める間もなく、奥へ奥へと連れてこられた。


 控えの間に案内をされ、リリアージェは小さく息を吐き出した。

 夫であるエルクシードに離婚を切り出した翌日のことだった。


「あなたと別れるのは寂しいけれど、いつまでもわたくしの手元に置いておくわけにもいかないものね」


 しっとりと柔らかな長椅子の隣に座るのは、実の母のように慕う姑ヘンリエッタだ。


「そうおっしゃるのなら、宮殿に行儀見習いに出す必要も無かったのでは? わたくしも、お母様のお身体が心配ですわ」


「あら、わたくし今日はすこぶる調子が良いわよ」

「けれど、王都に出てきたばかりですし」

「ふふふ。心配のしすぎよ」


 ヘンリエッタはころころと笑った。

 柔らかな茶色の髪の毛をゆるく結い上げ、黄色がかった瞳を細めている。数年で五十に手が届く年なのだが、威厳よりも柔らかさの目立つ姑のことを、リリアージェは大好きだった。


 身体の弱いヘンリエッタは、普段からブリュネル公爵家の直轄領の一つで暮らしている。夏になるとサフィルの北の保養地に移動をする。大陸でも南寄りに位置するこの国の夏は、日差しがとても強いのだ。


「でも、今年はわたくしのために避暑に行く予定を取りやめたのでしょう? わたくし、心配ですわ」


「あら、わたくしだってそこまでか弱くはないわ。みんな心配し過ぎよ。そりゃあ、確かに人よりも少し熱を出しやすい体質ではあるけれど。それよりも、今はあなたのことよ。無事に離婚が成立をしたあとのことを考えると、王太子妃殿下に後ろ盾になってもらえれば鬼に金棒よ」


 リリアージェは今日から王太子妃クラウディーネの話し相手として宮殿に上がることになっている。行儀見習いとしてクラウディーネの側に侍ることになった。


 この話を取り付けてきたのはヘンリエッタである。ブリュネル公爵家は四代前の国王の息子が臣籍降下した家系である。スフェリ社交界から遠ざかっているものの、ヘンリエッタは社交界に人脈を持ち、リリアージェが知らぬ間にクラウディーネ付きの話し相手という名目での宮殿入りをもぎ取ってきた。


「あなたが離婚を伝えて……それで、あの子は何か言っていて?」

「いいえ。とくには」


 リリアージェは昨日の光景を思い出す。王都にあるブリュネル公爵家の街屋敷で夕食を共にした。珍しく彼が予定を合わせてくれたのだ。

 二人きりの夕食は会話も必要最低限で、どちらかというと互いのナイフとフォークを動かす音の方が耳に残った。


 適度に近況報告をし合い、デザートを食べてそろそろ切り出すかと身構えていると、彼の方から場所を変えてもう少し話をしようと提案があった。珍しいこともあるものだと、またまた驚きつつ、後に付き従い家族用の居間でお茶を飲みつつリリアージェは本題を切り出したのだった。


「まったく。我が息子ながら本当にどうしようもない。わたくしから謝らせて頂戴な。ブリュネル公爵家の男はみんな仕事人間で家をないがしろにする酷い男たちなのよ。わたくしの夫がいい例だわ。二年我慢をしてきたけれども、もう限界。わたくし、リリーには幸せになって欲しいの。あんな仕事人間の朴念仁ではなくて、もっと誠実で優しくて家庭を大事にしてくれるまともな男とね!」


 実の息子ながら酷い言われようである。

 リリアージェは曖昧に微笑むに留めた。確かにその通りなのだが、ヘンリエッタは夫と息子の仕事馬鹿さ加減を毛嫌いしている。

 現在の当主であるブリュネル公爵も長い間不在にしている。


「お義父様は今年もお帰りにならないのでしょうか……」

「しらないわ。あんな人のことなんか。ずっとエルメニド割譲地に赴任をしたまま……。ろくに顔も見せないで。あんな人の顔なんてもう忘れてしまったわ」


 二十年ほど前にサフィル王国は南の隣国から攻め込まれた。長い歴史の中で幾度となく繰り返されてきた、領土や利権をめぐる戦。これを見事迎え討ったサフィルはエルメニドの国土の一部を割譲し、現在も支配下に置いている。


 土地の細かな管理は領主に任せているが、サフィル本国からの支配命令を円滑に行き渡らせるために行政府を置いている。


 王の補佐として働いていた公爵が、かの地に赴き総督の座に就任したのが約十年ほど前のこと。

 その間、彼が帰還をしたのは数えるほどで、それだっていつも宮殿に詰めるか、公爵家の土地管理について代理人と話し合うかのどちらかで、ヘンリエッタと親交を深めることはあまりない。


「いいこと、リリアージェ。いくら名家だろうと公爵家だろうと、愛のない結婚ほどつまらないものはないわ。政略結婚だろうがお見合いだろうが、夫婦なのだから、歩み寄りが必要だと思うの」


 ヘンリエッタはいつもリリアージェに聞かせる持論を展開し始める。

 優しかった面差しが一転、険し気に眉に深いしわが刻まれる。


「それなのに、ブリュネル家の男どもときたら、年がら年中仕事仕事と、そればかり。ああ嫌だわ。一人息子まであんな朴念仁に育ってしまって……。わたくし、どうあなたにお詫びをしていいか」


「ですが、八歳であるわたくしを妻として見ることが出来ないのは、当時十八歳のエルクシード様には当然ですわ」


「そうね。当時八歳だったあなたを妻として見ることが出来ないのは、わたくしも同意よ。あのときのあなたに必要だったのは、花嫁修業の前に勉強と淑女教育。のびのびとした子供時代を過ごすことの方が大事だとわたくしも考えたわ」


 当時、八歳で嫁いできたリリアージェの夫になったエルクシードは十七歳。その三か月後に十八歳になった。年の差、約十歳。


 当然、結婚生活には支障がありまくる。

 名ばかり夫婦となった二人は新婚から別居だった。というのも、エルクシードは王太子であるニコライの遊学に同行したからだ。


 リリアージェだって、右も左も分からずに周囲の大人の思惑だけで、隣国に押し付けられた。八歳の花嫁に家の切り盛りなど出来るはずもなく、義理の母となったヘンリエッタのもとで、語学やサフィルの歴史、各種習い事などなど、貴族の娘が受けるであろう教育を施された。


「だから、べつに結婚当初からエルクシードがあなたに見向きもしなかったと腹を立てているわけじゃないのよ。幼いころのあなたと過度に顔を会わせると、妻ではなくて妹としてしか見られなくなる可能性もあったし、あなたにとってもそれは同じだと思いましたからね」


 結婚の概念すらよく分かっていなかったリリアージェは優しいヘンリエッタのもとでのびのびと育てられた。祖国ではあまり手を掛けてもらえなかったため、淑女教育と勉学の教師を付けてもらい、貴族の娘としてさまざまなことを教えてもらった。


「けれども! 十六歳に成長をしたリリーと本当の夫婦になることもなく、現在まで放置しているのはあり得なくってよ! 仕事にかまけてちっとも会いに来ないし、王都に呼び寄せもしない。おまけに手紙は年に二度、時候の挨拶のみで、誕生日の贈り物が未だにくまのぬいぐるみ! うちの息子はポンコツなの? ああもう、本当に酷くてよ。わたくし、子育てを間違ってしまったわ! 本当にごめんなさい、リリー」


 ヘンリエッタはこれまた毎度おなじみの台詞を一息で言い切った。


 ついでに手に持った閉じた扇を握りしめぎりぎりと圧力を加えている。先日同じことをやって、ぽきりと折ってしまったことは記憶に新しい。職人が丹精を込めて作った精巧な扇である。できれば、長持ちさせてほしい。


「まあまあ。くまのぬいぐるみだって、あれはあれで嬉しかったですわ」

「ああもう。うちの娘はこんなにも気遣いのできる素晴らしい子に育って!」


 今度はよよよ、と泣き始めた。どちらに転んでも扇はきりきりと握りしめられている。そろそろ骨組みが折れるかもしれない。


 ヘンリエッタをどう宥めようかと思案していると、先触れの女官が入室をしてきた。彼女に招かれ、次の間へと移動をする。

 広い室内は豪奢だが、女性好みの淡い色の調度品でまとめられていた。


 そくざに切り替えたヘンリエッタが淑女の礼を取る。それに倣い、リリアージェも同じように膝を折った。


「ごきげんよう、ブリュネル公爵夫人、ヴィワース子爵夫人」


 鈴を転がしたような声がかけられた。

 ヴィワース子爵というのはブリュネル公爵家が持っている爵位の一つで、エルクシードが形式上名乗っている称号だ。リリアージェも夫と同じように、宮殿ではこのように呼ばれる。


 面を上げると、そこには艶やかな貴婦人がいた。

 濃い茶色の髪の毛は優雅に巻かれ、その一部を緩くまとめている。つるりとした白い肌に、バラ色の頬。社交的な笑みをこぼすのはサフィルの王太子妃であるクラウディーネである。

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