第10話 勧誘

 それから小一時間ほどが経過した時だった。自室で姉の帰りを待っていた貴誠は、唐突に自身の体温変化を感じる。


「——!」

 以前にも体験している熱量だ。同時に、自身の身体が男性のそれへと戻り始めていた。トロはずっと失神しているため、特に反応はない。そのまま無言で時を待っていた。


 どうやら、亜矢が帰ってきたようだ。どれほどの距離で、この現象が起きるのか。それはまだ分からないが、状況が落ち着いたら行えばよい。今は無断で外出した姉を問い詰めることが優先だった。


 部屋にノック。どうやら、何か弁明でもあるらしい。

「……どうぞ」

 あまり感情の籠っていない声に従い、ゆっくりと戸が開く。既に貴誠の性別は元に戻っているため、即座に口を開いていた。


「姉さん、いったいどこに——」

 が、その途中で言葉が途切れる。

「……って、え……?」

 姉の背後に、見覚えのある女性が続いたからだ。


「おはようございます、キセー君」

「……リシールさん?」

「はい。昨日はお世話になりました」

 朗らかな挨拶だったが、貴誠にはこの状況が理解できない。


「……どういうこと?」

 姉に視線を向けると、当の本人は色々な理由で緊張しながら語っていた。

「……いや、それがー……目が早くに覚めちゃって、ちょっと散歩に出ていたんだけどね。そしたら、いつの間にか捕獲されちゃって……」


 だが、全く要領を得ない。

「いや、全然分かんない。というか、まだ迂闊な行動は慎むようにとあれほど……」

「う……ごめん……」

 お互い小声で喋っていると、ここでリシールが口を挟んでいた。


「——よく分かりませんが」

『!』

「私がアヤさんに遭遇したのは、ただの偶然ではありませんよ」

 この言及に、貴誠は首を傾げながら訊き返す。


「……と、いうと?」

「この宿に向かっていたからです。その途中だったので、必然的に出会ったのでしょう。もちろん、御二方に用があっての訪問です」

『!』


 姉弟がやや身構えていると、リシールは微笑を浮かべながら尋ねていた。

「事後になってしまいましたが、少しだけ御時間を頂戴できませんでしょうか?」

 どうやら、逃げることは難しいようだ。そもそも、これだけ良くしてもらっているのに、邪険にはできない。


「……急ぎの用はありません。聞くだけなら……」

 貴誠が当たり障りのない返事をしていると、リシールは満面の笑みを浮かべていた。

「ありがとうございます」


 次いで、貴誠は訪問者を席に誘導する。亜矢の部屋からも椅子を持ってきて全員が座ると、もてなしの用意をする間もなく、リシールが本題に入っていた。

「では、単刀直入に申し上げます。御二方……フィルターズに入る気はありませんか?」

『え?』


 姉弟がポカンとしている。その反応は織り込み済みだったようで、リシールは気にせず理由を語っていた。

「実は、フィルターズは今、人手不足でして。少しでも戦力を増やしたいのです。如何でしょうか?」

 あまりにも唐突だったが、貴誠はなんとか整理して訊く。


「……それって……昨日のような戦闘を僕らにもやれ、と……?」

「あれは私だから請け負った任務です。通常は実力に見合った仕事しか回されないので、安心してください」

 なおもリシールが微笑を続けていたが、その裏の顔を知っている亜矢は思わず椅子ごと後退していた。


「……そうはいわれましてもー……」

 これを見て、リシールはバツが悪い様子で咳払いをする。

「……オホン。昨日は大変失礼致しました。あのような失態は二度と起こしませんので、その点は御心配なく」


 それを聞いても、亜矢は警戒を解かなかった。また、何か言いたげな視線を貴誠に向けるが、当の弟は我関せずを貫いている。その点に姉が頬を膨らませていると、リシールはさらに尋ねていた。


「確認しますが、既に他の仕事の目星があるのでしょうか?」

「……いえ、そういう訳では……」

「では、ある程度の蓄財があると?」

「……いえ、それも……」


 痛い点を突かれ、貴誠は閉口してしまう。これからのことを考えると、どうしても先立つものは必要だ。仕事も必須になってくるが、どこでどうすればいいのか。また、先程余計な条件が増え、さらに状況が困難になっていた。


 一方のリシールはそんな事情など知る由もなく、なおも懇願する。

「では、御一考のほどをお願いできませんでしょうか? それと、基本的にこの仕事はアクティア同士のタッグで行われます。御二方は御姉弟ということで、息も合うことでしょう。コンビでの登用となります」


 ただ、これを聞いて——

「……!」

 貴誠は思わず光明を見出してしまっていた。新たに背負った難題は、姉と職場を離せないことだ。もし距離ができてしまうと、登録とは違う性別で仕事をしなければならない。それは極めて問題が大きかった。


 だが、コンビで動けるのであれば、その危惧も消える。素直に事情を話すという手段もあるが、知ればあまりにも複雑な原因だった。自身の置かれた状況をその都度誰かに説明することは、面倒以外の何物でもない。それは、真っ先に相談しないといけない実の姉でも同じだ。そもそも、実際に目の前で証明して見せることができないのだから。


 もっとも、リシールにそんな懊悩は分からない。

「御興味が湧かれましたか?」

 期待を込めた瞳を向けると、貴誠は思わず無言で視線を隣へと移していた。

「うん? 何?」


 亜矢が不思議そうに見つめ返す中、弟は悩ましい様子で目を逸らす。

「いや、なんでもない……」

 なかなか決断できないようだ。これが最良なのか。まだ見分が狭いため、他の可能性を探したいところだった。


 すると——

「……分かりました」

 と、急にリシールが雰囲気を変える。

『?』

 姉弟が注目していると、相手はこれが切り札だと言わんばかりの表情で切り出していた。

「私が会計課と交渉して、ボーナスの方も出してもらうようにします。それで手を打ちませんか?」


 ただ、これを聞いて——

「——ボーナス⁉」

 亜矢が急に立ち上がりながら反応。

『⁉』

 他の二人が驚く中、亜矢はなおも小さく呟いていた。


「……ぼーなす……」

「ね、姉さん……?」

 貴誠が恐る恐る顔を覗き込むと、姉は真剣な表情で向き直る。

「キー君!」

「⁉」

「ボーナスって、正社員じゃないと貰えない例のアレだよね⁉」


 その勢いに、貴誠は仰け反りながら首を縦に振っていた。

「……あ、ああ……多分、それだと思う……」

 すると、亜矢は急に天に祈るような仕草で呟き始める。

「……ああ……非正規の身では、一生味わえないと思っていた甘美な響き……」

 ただ、その心情を理解した弟は、もうどうでもいいような気分になっていた。

「……姉さん……」


 そんな二人の様子に、リシールは戸惑いながら訊き直す。

「……えーと……それで、どうされますか?」

 すると——

「もちろん、引き受けました! 弟込みで!」

 亜矢が勝手に全てを決定していた。


「……やっぱり、こうなるか……」

 貴誠が頭を抱えているが、リシールにとっては都合が良い。

「……何やら色々と複雑な事情があるようですが」

 そこで意識を切り替えると、二人にいつもの微笑を向けていた。

「とにかく、歓迎しますよ」



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