第9話 性転換の理由
貴誠と亜矢は、ヴォルガの実家の宿にそれぞれの部屋を用意してもらっていた。二人は肉親であるため、同室でも大きな問題はない。お互いそれでも納得するつもりだったが、宿の一階に二部屋を与えられていた。
どうやら、今が閑散期というのは事実のようだ。姉弟にとっては有難い話だったが、恐縮する限りでもあった。
ただ、元の世界と違って、プライバシーはあまり守られていない。これは文明レベルを考えれば、仕方がないことだろう。男女別にこそなっているが、トイレと浴室は共用だ。唯一救いだったのは、それぞれの部屋に備え付けられているベッドがふかふかなことで、その日は布団の中でぐっすりと眠ることができていた。
翌日の朝。貴誠はまだ瞼が重いことを感じながら目覚める。上体を起こしてから窓の外を見やっていたが、そこは就寝する前と同じアクリールの街並みだった。思わず溜息をするが、それで何かが変わる訳でもない。とにかく、起床するためにベッドから離れていた。
この世界には、寝巻きの概念はないらしい。貴誠はずっとスケールスーツのままだ。この世界に転移して来た時、それまでの常識的な洋服とは強制的に交換されたようだった。
ちなみに、姉の方はアーチャーフィッシュ——テッポウウオの水紋を宿していた。特殊能力として、射撃が百発百中になる異能を持っている。スケールスーツが黄色と白のツートンであることも、理由は弟と同義のようだった。
お互い、その一張羅が不思議と落ち着く。また、このスケールスーツは丈夫なのに極薄であるため、洗濯が容易だ。ものの十分ほどで乾くということもあり、二人はそれぞれの部屋で、その日のうちに作業を終えていた。
だが、さすがにこれだけという訳にもいかない。資金の目処がつけば、二着目を真っ先に購入することにしていた。
なんにせよ、今はこの状態で過ごすしかない。
「……トイレ……」
貴誠はまだ寝ぼけ眼のままで自室を出ると、欠伸をしながら廊下を歩いていた。目的地は近いため、誰にも会わずに到着する。中にも先客はおらず、適当な個室を選んで、洋式便器の前に立っていた。
スケールスーツは一繋ぎに見えるが、実際には上下二つに分かれている。そのため、下部だけを下ろして用を足せるのだ。立小便をするため、この時も貴誠はそうしていたが、ここでふと違和感に気づいていた。
「……?」
手探りだけで探したのだが——何故か、どうしても見つからないのだ。
男性のシンボルが。
「……え……?」
貴誠は一気に覚醒すると、恐る恐る下腹部に視線を落とす。
既に予測はできていたのだが——
「——ッ⁉」
やはり、完全に性が入れ替わっていた。
慌てて自分の身体を確かめる。全身は全体的に丸みを帯びており、胸には柔らかい乳房が二つ。身長がやや縮んでいるが、その分、髪の毛が少し伸びてボブになっている。昨日もあった謎の現象だが、この時もそれが確認できていた。
もっとも、訳が分からない。
「……おいおい……なんだよ……これ……」
キーが高くなった声で、思わず呟いている。この現実に眩暈を覚えそうになっていたが、とりあえず尿意だけはもう我慢ができない様子だ。やむなく便座に座り、膀胱から全てを出し切っていた。
その直後だった。
「——なんか、我のことを忘れていないか?」
「——ッ⁉」
個室には自分以外誰もいないはずなのに、急に声を掛けられて硬直する。それには構わず、声の主はなおも続けていた。
「昨日もちゃんと存在を確認したではないか。忘れてもらっては困る」
ただ、貴誠も既に記憶を思い出している。
「……トロか……!」
この確認に、首元にある桜色のマフラーは鷹揚に頷くような動作をしていた。
「いかにも。主殿の立場も理解するが、もっとしっかりせねば」
ただ、急に出てきた理由が貴誠には分からない。
「……今までどうしてたんだ? あの時以来、ずっと気配を感じなかったけど」
すると、トロは自身の見解を喋っていた。
「どうやら、この状態でないと意識を表に出せぬようだ」
「!」
「主殿は気づいておらぬか? 自身の内から溢れてくる力の息吹に」
この問い掛けに——
「……ッ!」
貴誠は慌てて自身の内側に意識を向ける。昨日は混乱していて気づかなかったが、その深奥では元の性の場合よりもはるかに膨大な力場が発生していた。
「これって……」
ヴォルガからも説明で聞いているが、おそらく水心力という源泉だ。アクティアの総合的な能力は、これが最も重要らしい。それが、元の性の時とは比べ物にならないほど発生しており、思わず閉口してしまっていた。
トロが続ける。
「どうやら、今の状態が主殿のパフォーマンスを最大限に引き出すようだ。その力を苗床にして、我も表に出て来れるという訳だな」
元は猫でしかないトロに、今は人間並みの思考回路が備わっている。そこには次元が違う何か別の理屈が確かに必要だった。
また、転移の際にはゲーム機も巻き込まれたと推察される。性転換をしている場合に亜矢とこれほどの力量差が発生するのは、お互いの電子情報の差が影響しているのではないだろうか。この異世界は二次元に近いと思われる。シンクロしている可能性は充分にあった。
もしくは、実際の生体との関わりか。貴誠の方は飼っていたカクレクマノミと混じっているようだが、姉の方はゲームの世界で狩猟を行っていたことによる影響のみと思われる。両方かもしれないが、とにかく、考えられる可能性はこれぐらいだった。
「……それは……なんとか分かったけど……」
ただ、貴誠はまだ釈然としない。
「そもそも、どうして僕だけ性が反転するんだ? 姉さんの方には、そんな兆候は全く見られないのに……」
当然の疑問だったが、一方のトロは既に何かに気付いている様子だ。
「それは、カクレクマノミの生態が主殿の肉体に何らかの影響を及ぼしているからではないのか?」
これを聞いて——
「——ッ⁉」
貴誠も何かに思い当たる。それを補足するように、トロが続けていた。
「意識は表に出ていなくとも、我も会話は聞いていたからな。それと、主殿はあの魚類を飼育していたはず。その性質も詳しく知っているのでは?」
「……まさか……!」
カクレクマノミを含むスズキ目スズメダイ科クマノミ亜科。一般的にはあまり知られていないが、その生態は魚類の中でもかなり特質だった。イソギンチャクを棲み処にしているのは、誰もが知っていることだろう。ただ、そこで暮らす群体には、ある一定の法則があった。
群れの中で一番大きな個体。それが雌と決まっているのだ。また、二番目の個体は雄なのだが、もし雌がなんらかの理由で消えた場合には変化がある。その雄が雌へと性転換をするのだ。そして、次に大きな個体とペアとなり、その群れを維持するという特殊な生態があった。
問題は、貴誠と亜矢の関係だ。二人は家族であるため、客観的に見て一個の群れと認識できる。また、身長は姉の方が少し上だ。そこに、マフラー型のイソギンチャク。二人が一緒の状態なら何も起きないだろうが、亜矢が弟の元を離れれば条件は別だった。
同じく家族である元飼い猫は今、その存在がイソギンチャクと重なっている状態だ。その意識は別物として、群れの一員とカウントされるかもしれない。この場合、姉が近くにいないと、一番大きな個体は貴誠という判定になる可能性があった。
もしかしたら、この状態でパフォーマンスが最大になることも、これが一番の要因なのかもしれない。ただ、今はその考察よりも先に、確認しなければならないことがあった。
「——!」
貴誠は慌てて下を穿くと、男子トイレから慎重に脱出する。今の姿を誰かに見られるのは厄介だからだ。人目がどこにもないことを確認してから廊下に出て、自室の隣にある姉の部屋へと向かう。そのままドアをノックしてみたが、中から返事はなかった。
「……いない……どこに……!」
小声でそう呟きながら、慌てて自室に戻る。次いで、静かにドアを閉めると、再びトロが口を開いていた。
「どうやら、確定のようだな。姉御殿とある程度の距離ができると、この現象は起きるようだ」
「……マジ……ですか……」
貴誠が頭を抱えている。理由はやっと分かったが、これは非常に厄介な問題だった。
だが、一方のトロは他人事のように語る。
「まぁ、姉御殿が帰ってくれば、元の雄に戻るのだ。気にすることはあるまい」
「……全ての元凶が何か言ってるよな……」
貴誠が恨めしそうに呟くが、トロの様子に変化はない。それどころか、ここでさらに火に油を注いでいた。
「まだ何か根に持っておられるようだが……それよりも、主殿」
「……?」
「排尿後の処理をちゃんとしていない様子。年頃の乙女が朝から股間を濡らしていると、あらぬ誤解を受けるぞ」
この指摘に——
貴誠は無言で桜色のマフラーを両手で握る。そして、それぞれの手を力一杯に逆方向へと引き絞る結果になっていた。
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