第3話 女の子らしいが

 とにかく——

 一旦、落ち着け、自分。


 貴誠は自らの理性を総動員して、まずは冷静になっていた。常識外れの情報があまりにも一気に押し寄せてきたため、ここは整理が必要だ。自身の異変は、一旦棚上げにする。それでいいのか、と何度も懊悩したが、今は強引な自己欺瞞しか方法がなかった。


 まずは——

 目覚める前の記憶を思い出していた。貴誠はその時、自宅の自室でコントローラーを握っていたはずだ。最近、通学していない日はオープン・ワールドのサバイバル・ゲームに没頭しており、のんびりと時間を無駄にしながら過ごしている。特に、バーチャルの海や川は完全に制覇しており、釣り、水泳、養殖、潜水、生物の飼育等の成績はサーバーの上位に記録されていた。


 ただ、たまにコントローラーを姉に奪われる日がある。どうやら、その電脳世界の一部の機能に興味があるらしく、よくハンター気分で狩猟を行っていた。

 だが、大概は数十分で飽きてしまう。いつも発作的にやってきて強引にコントローラーを強奪されるが、少しの辛抱であるため諦観していた。


 今日も——

 確か、姉にゲーム機を占拠されていたはずだ。大したレベル上げも行っていないため、貴誠にはつまらない映像の連続でしかない。ただ、弟はこの日、いつもと少しだけ違う行動を取っていた。


 そこまで思い出して——

「——あ……!」

 貴誠は甲高い声を上げていた。その時に起こった事態が脳裏に蘇ったのだ。


 姉弟の自宅では、一匹の雄のデブ猫を飼っている。元は野良猫で、名前はトロ。よく夕餉の中トロを強奪するため、その名前がついた。気紛れでよく些細な問題も起こすが、それが逆に愛嬌でもある。だが、この時はその粗相が大事を引き起こしていた。


 貴誠の自室には、ゲーム機の他に熱帯魚を飼育している水槽がある。この日は姉にコントローラーを奪われている間、ついでに水替えの作業を行っていた。生物等の中身をバケツに移し終えてから、人工海水を半分ほど入れ替えると、水槽の水温が安定するまで待つ。その間はディスプレイ映像に注目を移していたため、バケツからはしばらく目を離していた。


 それがいけなかった。いつもは水槽にも熱帯魚にも全く興味を示さないトロだが、この日は何故かバケツに接近していた。


 そして——

 バケツを盛大にひっくり返していた。水槽の中で飼っていたカクレクマノミと、その棲み処であるイソギンチャクと共に。


 問題は、室内に巻き散らかされた人工海水が、床に置いていたゲーム機の本体にまで及んだことだ。無論、機器はショートして漏電する。直後、室内にいた姉弟は感電して——そこから先の記憶が完全になかった。


「……えーと……」


 考えたくないもないし、因果もよく分からないが——

 どうやら、それが全ての元凶のようだった。

「……トロ……お前ってやつは……」

 頭を抱えて唸っている。


 それは確かに独り言だったのだが——

「——勝手に全責任を押し付けられても困る」

 と、急に耳元で反応があった。


「——ッ⁉」


 貴誠はもう現実から逃げ出したくなっていたが、寸でのところで踏み止まっている。ただ、声の主はそんな心境には一切構わなかった。

「そもそも、猫のいる家庭に水槽を置くこと自体が非常識なのだ。我らの本能は知っているだろうに」

「なんだ……⁉ どこから……⁉」


 貴誠はしきりに周囲を見渡している。すると、声の主は大きな溜息と共に小さく身震いしていた。

「……ここだ、ここ」

 そう——例の桜色のマフラーのような身体を。


 貴誠は——

「——⁉」

 ただ目を丸くして硬直している。その心境は声の主も分かっていたが、やはり気にせず話を進めていた。


「……ようやく気づいてくれたようだな、主殿」

「マフラーが……喋ってる……⁉」

「まぁ、よくあることだ」

「あってたまるか!」


 貴誠が半狂乱になりながら叫んでいる。まだ冷静になれない様子であるため、声の主は諭すように続けていた。

「まぁ、落ち着きたまえ。こうやって会話できるようになったのだ。悪いことばかりではあるまい」

「……また異常事態が一つ増え——」


 と——

「……って、え……?」

 貴誠はそこまで呟いたところで、あることに気づく。

「……なんだ……僕を……知ってる?」

 恐る恐る相手の言葉に耳を傾けると、ここで声の主はどこか悪戯な色を口調に乗せていた。


「無論、知っているとも。学校とやらのテストの成績から、夜に行っているピストン運動の回数までもな」

「⁉」

 貴誠が色々な意味で絶句する中、声の主は話が脱線したことを反省する。


「……それはともかく、いつも美味い飯を食わせてくれて感謝しておるぞ。もう野良には戻りたくないな」

 ここまで聞いて——

「……まさか……トロ?」

 貴誠はようやくその正答に辿り着いていた。

 桜色のマフラーが大きく頷く。表現がこれで合っているのか、はなはだ疑問ではあるが。


「そうらしいな」

「⁉」

「ただ、元の姿のままこっちには来れなかったようだな。この細い身体……マフラーに見えるが、どうやらイソギンチャクに似た何からしい」

 なおも続いたこの説明に、貴誠はようやく少しだけ得心する。

「あ……ッ! それで……!」


 どうやら、トロは宿主のうなじの辺りで身体を固定しているようだ。貴誠が改めて桜色のマフラーのようなものを撫で回して状態を確認していると、一方の元飼い猫はどこか気持ち良さそうな声で喋っていた。


「……因果は分からんがー、水槽の中にいた奴と混じったようだなー。主殿の方にも何か異変があるのではないかー?」


 この指摘に——

「——もしかして……!」

 先程、姉に指摘された鎖骨の間に意識を向ける。視認はできないが、その中央に描かれている魚というのは、カクレクマノミではないのか。

「……マジ……ですか……」

 着ているウエットスーツのようなものの配色も含めて、色々と関連性が窺える。ただ、それでもすぐには受け入れ難かった。


 だが、一方のトロは呑気に語るのみ。

「まぁ、なんだ。よくある異世界転移によるバグだな。我の方は異世界転生のようなものだが」

「⁉」

「なんにせよ、気にしても仕方あるまい。あまり深刻に捉えずに、これからのことを考えるべきだな」

「お前は……」

 貴誠が思わず半眼になって睨んでいる。だが、元飼い猫はどこ吹く風だった。


 ふと——

「——ん?」

 トロが何かに気づく。その意識は、森の奥に向いていた。

「……姉御殿が戻ってきたようだ」

 どうやら、気配で察知したらしい。一方の貴誠もすぐに理解していたが、同時に酷く動揺もしていた。

「え……⁉ ちょっと待った……!」


 性が変わってしまっているという今の状況。その原因が、まだ分かっていないのだ。当然、姉に説明することもできない。慌てて助け舟を求めようとしていたが、ここで急速にトロの気配が小さくなっていた。


「——ん? うお……これ以上は……意識が……」

 そう言いながら、一気に深奥へと後退してしまう。

「え⁉ おい! トロ……⁉ ちょっと待て! まだ色々と訊きたいことが——」

 と、愕然としながら問い掛けたが、結局反応はなかった。


 ただ——

「——ッ⁉」

 ここで唐突に、先程と全く同じ熱量を身体に感じ始める。

「また……⁉」


 そのため、もう他のことには意識を向けていられなくなっていた。二度目であるため、先程よりも意識は保っている。ただ、何が起きているのか全く理解ができず、もう全てを投げ出したい心境に陥っていた。


 が——

「——ッ⁉」

 やがて、現状に気づく。熱量が引いた時点で、自身の感覚が以前の身体の輪郭を覚えていることに。


 慌てて全身を確かめてみると、確かに性別が元に戻っていた。

「……これって……?」

 何もかもが突然であり、思考が追いつかない。思わず呆然としていると、ここで聴き覚えのある声が耳に届いていた。


「——キー君?」

「⁉」

 貴誠が慌てて反応している。傍には、いつの間にかキョトンとしている亜矢が立ち尽くしていた。

「どうかしたの? なんかさっきよりも具合が悪そうに見えるんだけど……」


 何も気づいていない様子で尋ねている。そのため、一方の貴誠は思わず途中まで口を滑らせていた。

「……いや! トロが——⁉」

 そこで説明ができないことに気づいていたが、姉もすぐに反応する。

「え! トロ⁉」


 慌てて周囲を見渡すが、見慣れた飼い猫の姿はどこにもなかった。

「……いないけど?」

 少しだけ不満そうに訊き返す中、一方の貴誠は言い淀む。

「あ、いや……」


 先程の一連の出来事は——今は口にしない方が最良だと、直感的に判断していた。理屈が分かっていないことをここで喋っても、間違いなく混乱を招くだけだ。適切な時期が来れば、その時に相談すればいい。そんなことを、夜の秘め事は絶対に関係ないと思いながら結論付けていた。


「……なんでもないよ。見間違いだったらしい……」

「そう……」

 亜矢がそれでも怪訝そうにしている。そのため、弟は慌てて話題を変えていた。

「……それよりも、どうだった?」


 この問い掛けに、姉もすぐに意識が切り替わる。

「——あ! そうだった!」

 そして、森の深奥を指差しながら、非常に気になる情報を口にしていた。

「向こうの森の中に……建物があったの!」


 これを聞いて——

「——!」

 貴誠の内心では、一気に緊張感が生まれる。先程、トロはここが異世界だと言った。その真偽はともかく、この世界に文明があることは確定だ。問題は、自分達が受け入れられるのかどうか。その点が最後まで気になったが、いつまでもここに留まっていても仕方がない。姉の意思と自身の体調を確認してから、すぐに場所を移動していた。



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