第2話 どこかの森の中

 混濁した意識の奥深くで——

「——キー君——」

 その呼び声に気づいたのは、この瞬間だった。


「——ッ!」


 すぐに意識が覚醒するが、視界はまだ真っ暗だ。脳が重力を捉えておらず、どちらが上なのか下なのかも分からない。あまりにも虚無しか認識できなかったため、再びそこで意識が朦朧とし始めていた。


 だが——

「——キー君……ッ!」

 今度は、何かが自分の身体をしっかりと掴んでいる感覚がある。


 同時に、懐かしい温もりも覚えており——

「——ッ……⁉」


 貴誠は、そこで完全に目を覚ましていた。同時に、玉のような汗を額にびっしりと掻いていることも理解する。悪夢にうなされていた時に状況が似ているが、どうやらそうではないようだ。まだ現状がはっきりと分からなかったが、自身の傍に誰がいるのかだけは、間違いなく認識できていた。


「……姉……さん……?」


 そう呟きながら、やっと全身に重力を感じている。後頭部から足のかかとまでの全てにかけて。どうやら、仰向けに倒れているようだ。そこまで状況を理解すると、貴誠はゆっくりと上体を起こし、顔を横に向けていた。


 その様子に——

「……うう……良かったあ……」

 想像通りの人物——亜矢が心底安堵した様子で顔面を崩している。オレンジブラウンの髪の一部が、涙で頬に張り付いている状態だ。一方の弟は何気に汗を片手で拭うと、おもむろに小さく頭を下げていた。


「……よく分からないけど……心配掛けて、ごめん……」

 この謝意に、姉は変わらない様子で鼻をすすり続ける。

「いいよー……このまま……意識が戻らないものかと……お姉ちゃん、こんなとこで独りぼっちかと思ったよー……」


 普段は見せない気弱な様子に、貴誠は少々戸惑っていた。だが、その後半の言葉で、ふと気づく。

「……?」


 ここは——いったい、どこだろうか。自分の記憶が正しければ、つい先程まで自室にいたはずだ。それなのに、いつの間にか二人はどこかの森の中にいる。また、一見しただけで分かったのだが、周囲の植生は自分の知識には全くなかった。


 訳が分からない。この場所は本当に地球上なのか。混乱していたが、ここでさらなる異変に気づいていた。

「姉さん……その格好……?」

 この指摘に、彼女は即座に反応。

「ああ、これ?」


 そう言いながら、すぐに立ち上がっていた。亜矢は弟よりも若干身長が高く、モデルといわれても納得できるスタイルだ。彼女は全身をくねらせながら、デザイン性の高いウエットスーツのような衣服を見せていた。


「よく分かんないんだけど……あたしも目が覚めたら、いつの間にかこれを着てたの。もう何が何やら……」

「……!」

 ただ、その振る舞いに、貴誠は思わず視線を逸らしている。あまりにも身体のラインがはっきりとしているため、正視ができなくなったからだ。


「……分かったから。もう少し大人しくしてよ……」

 ただ、その反応を見て、亜矢は即座に事情を察する。

「……あれ? もしかして、お姉ちゃんの身体で欲情しちゃった?」

「違う」

 貴誠が即刻否定していたが、なおも視線を逸らしていたため、その本音は見透かされていた。


「キー君も、お年頃だからねー。まぁ、仕方がないことだよ」

「してないから……! 身内として恥ずかしいだけだよ……!」

 ややムキになりながら続けている。一方の亜矢はそこでこれ以上の戯言は止めていたが、ここである指摘をしていた。

「……ふーん。ま、キー君も同じ格好だから、説得力には欠けるんだけど」


 これを聞いて——

「——え……ッ⁉」

 貴誠は思わず立ち上がって全身を確認。すると、カラーリングや意匠は異なるが、確かに似たような姿になっていることに気づく。いつの間にか靴も履いており、それも装いと統一感があった。


「……な……んで……」

 思わず絶句していると、ここで亜矢がさらに付け加える。

「あ、でも、そのマフラーは、あたしにはないんだよね」

「マフラー?」

 その言葉に反応して、貴誠は自身の首周りも確認。今まで気づかなかったが、確かにそれに似た何かが巻き付いていた。


「……これって……?」

 意味が分からない。さらに混乱していたが、一方の姉は呑気に感想を述べていた。

「なんか、ピンク色で可愛いし……キー君だけズルくない?」

「いや、そういう問題じゃ……」


 貴誠は思わず脱力している。一方で、このマフラーには何故か安心感のようなものを覚えていた。その理由が全く分からないため、一旦外して詳しく調べてみようとする。だが、そこで違和感に気づいていた。


「……あれ?」

「どうしたの?」

 亜矢が怪訝そうに顔を覗き込む中、弟は首を傾げていた。

「……なんか……うなじの辺りで皮膚に引っ付いてるような……」

「え?」


 その言動に反応して、亜矢が見えない場所を確認する。すると、確かにマフラーの片一方の先端が、うなじに張り付いていた。そこで、姉は強引に引っ張ってみる。だが、弟が痛がるだけで、一向に外れそうな気配はなかった。


「……あー、確かに取れないよね。どうなってるの?」

「僕に訊かれても……」

 貴誠も困惑が隠せない。すると、ここで姉の方が何かに気づいていた。

「あれ?」

 と、今までマフラーで隠れて見えなかった、鎖骨の間を指差している。


「なんか……ここにタトゥーみたいなのがあるけど?」

「は?」

 弟がキョトンとする中、亜矢はさらに接近して確認をしていた。

「……これって……真ん中に描かれてるのは、魚かな?」


 そこには家紋のような円形のデザインで、刺青のような何かが彫られている。ただ、貴誠は角度的に視野に入らず、今はそもそも姉の頭頂部が邪魔だった。

「……よく見えないんだけど……」

 思わず呟いていると、亜矢がすぐに距離を取る。次いで、ここで急に意識が切り替わっていた。


「……とにかく」

 と、周囲にある未知の森へと視線を向けている。

「状況がさっぱり分かりません。まずは情報収集の必要があるかも」

 ただ、これには貴誠が慌てて止めに入っていた。


「いや、危険だよ。こういう場合は、最初の場所から動かない方が……」

 だが、亜矢は自信に満ちた表情で断言する。

「大丈夫。あたし、なんか、すこぶる体調がいいし。身体の奥底から、力が漲ってくるみたいな?」


「だから、そういう問題じゃ——」

 それでも貴誠が止めようとしていたが——

「——わわ……!」

 そこで、足がもつれて転倒しそうになる。

「あぶな——!」

 ただ、すぐに亜矢が反応していたため、弟は難を逃れていた。


 貴誠はそのまま腰を下ろして足の状態を確認するが、どうやらあまり力が入らないようだ。それを見て、姉は何かを理解したように大きく頷いていた。

「……キー君はまだ目覚めたばかりだからね。万全じゃないみたい。探索はあたし一人でやるから、ちょっとここで休んでいて。早急な問題として、食料の確保とかもあるし」


 だが、貴誠はこれを聞いて再び慌てる。

「え⁉ いや、まだ了承した訳じゃ——」

 すぐさま引き留めようとしていたが、亜矢は構わずに行動してしまっていた。

「無理はしないから。じゃ、行ってくるねー」


「ま——」

 と、手を伸ばすが、姉の姿はすぐに森の奥へと消える。だが、今の脚の状態ではそれに追随することができないため、その場に留まるしかなかった。

「……ほんとに……大丈夫かよ……」

 そう独りごちながら、なおも森の深奥に意識を向けている。

 ただ、ここで、だからこそ気づいた事実もあった。


「……?」

 木々の合間を縫って——

「う……わ……」

 大気中に、大きな気泡のような物体が浮遊していた。それはバレーボールほどの大きさで、数は一つや二つではない。視界内のあらゆる虚空に浮かんでおり、それぞれが無軌道に移動していた。


 危険は感じない。ただ、自分の知っている世界とは、あまりにも常識が異なっていた。

「ここ……ほんとに、どこなんだよ……」


 と——

 その刹那だった。

「……う……ん?」

 急に——

「——ッ⁉」

 自身の身体の深奥から、耐え難いほどの熱量が生じてくる。


「な……んだ……⁉ 身体が……熱い……⁉」

 慌てて全身を確認しようとするが——

 腕が思うように動かなかった。全身の神経の感覚が低下しているようで、状態は麻痺に近い。座ったままの姿勢を維持するだけで精一杯だった。

 これではもう——

 状況に身を委ねる以外の術がない。


「——————ッ!」


 貴誠はとにかく冷静になろうとするが、脳も膨大な熱量で動いていない状態だ。

 このまま——死んでしまうのではないか。

 そんな恐怖に、思考が完全に凍り付いていた。

 また、それ故に時間の認識もできていない。


 いつの間にか——

「……?」

 謎の現象が収まっていることに気づいていた。だが、どれほどの時間が経過しているのか。全く見当がつかなかった。


「……いったい、なんだったんだ……」

 とにかく、現状の確認が最優先だ。そう思って、まずは自身の身体を確認しようとしていたのだが——

「……え?」

 と、極めて強い違和感を覚える。


「……なんだ、これ……胸が苦しい……」


 先程から装着しているウエットスーツのようなもの。その密着具合のバランスが、全身で崩れているのだ。ただ、伸縮性があるようなので、それは一過性に終わる。すぐにその違和感は解消されていたが、ここでさらなる異変に気づいていた。


「……っていうか、声も何か……」

 自身の聴き慣れた声音ではない。かなりキーが高いように感じるのだ。裏声を出している訳でもないのに。


 やはり——

 自身の身体に、何か異常事態が発生しているようだ。そう感じて、貴誠はなおも全身にくまなく手を這わせる。すると、すぐにいくつかの相違点を発見していた。


 何故か、頭髪が先程までよりも少しだけ長くなっている。

 何故か、全身の筋肉量が減っているように思われる。

 色々と小さな差異があったが——

「——ッ⁉」

 ここで、最も重大な事案に辿り着いていた。

 それは——自分の手が、自身の下腹部に到達した時のことだ。


「……うん……ない……よね……」


 貴誠は——完全に無の表情で呟いている。それ以降、しばらくは思考することも億劫になり、ただ茫然と地面に鎮座することになっていた。



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