第9話 忙しない日々と甘い匂い・後編
しんと静まった屋内訓練場で、該当のページを開いた魔導書を構えながら、もう一方の腕を突き出す。呼吸を整えてから、俺は慎重に詠唱を始めた。
『
ここまでは変装術と同じで、幻で外側、要するに外見を作り出すための呪文だ。呼びかけに応え、腕の先に魔力が集まってくるのが感じられる。
変装術と違うのはこの先、幻の中身を作る作業である。一度全部の空気を吐き出し、再び短く吸ってから続けた。
『形作るは土、宿りしは火。寄り集いて我が
かちりとハマる感覚があり、術が成功したのを悟った直後、カッと強い光が生まれた。それを、目を閉じてやり過ごし、再び開けば、そこには
「さてと、今度はどうだかな?」
実はもう何度目かの挑戦だった。師匠はなんなくやってみせていたというのに、自分でやってみると全然うまくいかず、失敗続きだったのである。
最初は外見が上手に作れなかった。サイズを間違えたり、顔が別人だったり。キーマに見られたら絶対ネタにされるやつだ。うん、絶対に黙っておこう。
「自分自身の観察が足りぬからじゃ」
「んなこと言われても、ナルシストじゃあるまいし、自分をじろじろ眺めまわす趣味なんかねぇっての」
そう突っぱねたら、師匠に魔導書の強靭な角で殴られた。相変わらずお仕置きが痛い! 覚えた知識が耳から零れる!
「ならば、今の自分ではなく、変装術で作り慣れた姿で練習すれば良いではないか」
「断固お断りッ!」
馬鹿野郎、そんなのはただのセルフ拷問じゃねぇか。だいたい、今度こそ「趣味」確定になってしまうし、ナルシスト以上にヤバ過ぎるヤツの完成だ。
地団太を踏んで憤慨していると、師匠は自主練に励んでいたココを呼び寄せた。
やはりというか、緻密な作業が得意な彼女はこの術の習得が早く、作り出した分身にどう命令を下せば思ったように動かせるのか、試行錯誤する段階に入っていた。
ココは分身を連れて近くにやってきた。似るように作ってあるのだから当たり前ではあるのだが、同じ顔が二つあるってのは変な感じだ。
「お呼びですか?」
「お主はそろそろ、自分でないものを作ってみるのも良い頃合いかと思うての。ヤルンを作って、手本としてやってくれ」
「あ、はい。それでは」
ココは目を丸くしたが、すぐに冷静な表情に戻って俺のまわりとぐるりと一周した。前にも似たようなことがあったっけな。何度経験しても慣れることはないが……あ、そうだ、一応クギはさしておくか。
「なぁ、分かってると思うけどさ。ちゃんと『この』俺を作ってくれよな?」
「……は、はい。もちろんです」
当たって欲しくない予想が的中したようである。そんなすったもんだがありながらも外見についてはクリアし、中身の組成にも何日かかけて挑戦し続け、どうにかこうにか完全習得に近いところまで漕ぎ着けていた。
「……っと、そうだ」
昨晩にも取り組んだ訓練を思い出したところで、意識が再び現在に戻ってくる。
雑多に置かれた書類や書物をかき分け、俺は手元に持っていた紙を師匠に手渡した。そもそもこれがメインの用事だったのに忘れかけてたぜ。
「出来ましたよ、今月分」
「そうか、済まぬな」
ちっとも済まなく思っていなさそうに、じいさんは紙を受け取り、一通り目を通して「ふむ、問題なさそうじゃな」と裁定を下した。ふん、何度もチェックしたんだから当然だろ?
いま手渡したのは、師匠の予算の使用状況を調べて計算したものだ。助手をしていた時にやっていた業務の一つである。なお、今月も問題がないようで一安心だ。
「お主はもうわしの部下ではないのだから、別にやらぬでも」
「師匠を放って置く方が害悪っスから」
「害悪とは人聞きの悪い。金のことでお主に迷惑をかけたことなどあるまい?」
「都合の良い時だけボケるんじゃねぇっ」
見張っていないと、いつまた借金を作るか分かったものではない。まぁトータルではマイナスにはならさそうだが、資産があちこちに散乱していそうで恐ろしい。相続する人、大変そうだなぁ。
……俺とか言い出さないよな?
◇◇◇
自室に帰ってみると、キーマとココが待っていた。こんな時間にどうしたんだろう。二人に近づくと、なにやら甘い匂いが鼻をくすぐった。
「ココが持ってきてくれたんだ。三人で飲もうよ」
「これ、なんの匂いだ?」
ココが持っている角盆には三つのカップが載せられていて、覗き込むと濃い色の液体がなみなみと注がれていた。まだ温かいようで、ほこほこと湯気を立てている。
「ホットチョコレートです。甘くて美味しいんですよ」
「ホットチョコ? ココアじゃなくて?」
匂いも見た目も良く似ているから、同じ物を違う名前で呼んでいるだけかと思ったのだ。首を傾げると、キーマが「微妙に違うんだって」と言う。多分、同じ質問をココにしていたのだろう。料理に関しては無頓着な俺達を見て、彼女はくすくすと笑った。
「材料や作り方が違うんですよ」
「ふぅん?」
「さぁ、冷めちゃうから早く部屋に入れてよ」
「ん、あぁ」
返事をして部屋の鍵を開けて入り、『光よ』と唱えて暗い室内に明かりを灯す。ランプを付けるよりよっぽど早くて便利で、キーマには良く羨ましがられる。
小さなテーブルと椅子を出し、あとはいつもの如くベッドに腰かけて早速「ホットチョコレート」なるものを飲むと、香りに違わずとろりと甘かった。
舌を火傷しないように気を付けながらのんびりと楽しんでいると、今夜は良く眠れそうな気がしてくるのだった。
《終》
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます