第9話 だいじなものがありません・前編

「あのさ」


 ある日のお昼、騎士寮の食堂で一人昼食を取っていたら、午前中の訓練を終えたキーマが不機嫌そうな顔で向かいの席に座って言った。


「なんで今朝は起こしてくれなかったのさ。こっちはおかげで遅刻しそうになったよ」

「……」

「なんとかギリギリで間に合ったから良かったけど。……ねぇ、聞いてる?」


 俺はそれでも何も喋らず、黙々とパンを千切っては口に運ぶ作業に勤しむ。それが気に喰わないのだろう。キーマはフォークを置いて立ち上がり、俺のすぐ横までやってきて見下ろした。


「どうして何も言わないわけ」


 目だけは合わせるものの、こちらに話すつもりがないと分かると、苛立たしげに畳み掛けてくる。


「もしかして何か怒ってる? 黙ってても分からないんだけど」

「……」

「いい加減にしなよ。いつもはあんなに喋るくせに、今日に限ってだんまり決め込んで。新しい訓練でもしてるわけ?」


 こうしてみると、キーマこそ良く喋るやつだなと思う。いつもは俺が話して相槌を打ったりする方が多いからちょっと新鮮だ。……さすがにそろそろなんとかしないとマズイか。でもなぁ。


「なんとか言いなよ。こっちも本気で怒るよ」


 そういう相手は大抵すでに怒っていて、案の定キーマも苛立ちを頂点まで募らせたらしく、俺の襟首を掴んでぐいっと引き上げた。


「……」


 そんなに抵抗もしていないにしろ、やはり力強さが感じられて羨ましい。俺ももうちっと筋肉付けないとな。

 そうだ、貯金もそれなりに増えてきたし、そろそろ自分の剣を買っても良いかもしれない。いつまでも借り物ってのも寂しいし、魔術で生み出した剣じゃあ筋力はつかないしなー。


 念願叶って騎士見習いにはなれても、結局「魔導師」枠での採用だったから剣の支給はなし。実は師匠が正式に「魔導師」になったお祝いらしきものをくれたけれど、それは新しい魔導書用の布カバーだった。

 マスターローブと同じく、黒い生地に銀糸で複雑な文様が刻まれていて、書に被せると色々な恩恵があるようだ。


 それはさておき、スウェルで兵士見習いになってからあちこち移動すること数年、やっと腰を落ち着けそうなところへ来たわけだし、しかも天下の王都だ。そのうち武具屋でも覗くことにしようっと。


「……殴られたいの?」


 おっと、のんびり考え事をしている場合じゃなかった。少し前から周囲の注目を集めている自覚はあったが、これが決定打となり、ざわめきがスーッと消える。


 うーん。この流れ、殴られるか突き飛ばされるか、どっちだろうな? 俺は口を開きかけ……閉じる。今は何も話す気にはなれない。たとえ相手の逆鱗に触れようともだ。


「そう、じゃあお望み通りに殴ってあげるよ」


 キーマの瞳が冷えている。俺を掴むのと反対側の手をぐっと拳の形に握り、後ろに引き、力がこもるのが分かった。やがて訪れる痛みに備えて歯を食いしばる。


「待ってください!」


 そんな静かな空間をココの叫びが貫いた。けれど、ここまで状況が差し迫ってしまうと、容易に止まれるものではない。


「これは二人の問題だから、口を出さないでくれるかな」


 走り寄ってくる彼女の方を向かずに言う。低い低い響きだ。あーあ、マジで殴る気だ。痛そうだな、どうか歯が折れませんように。まぁそれも仕方がないか。俺だったらもう殴ってるだろうし。


「違うんです! ヤルンさんは」

「違う? 何が違うのか知らないけど……関係ないね」


 ググッと再度、腕や拳に力がこめられる。キーマは次のココの言葉を待たずに、俺の頬目掛けて突き出す!


「声が出ないんですッ!!」


 びたぁっ! それは指二本分くらいの距離で止まった。……ふー、間一髪。


「……え?」


 直後、その風圧で巻き上げられた埃を吸い込んでしまった俺は、思い切りげほごほがはと咳き込んだ。あぁもう、やっと止まったところだったのに、また始まったじゃねぇか。どうしてくれるんだよ。

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