第7話 覗く瞳③

 夜はじょじょに更けていく。貴族の屋敷はパーティでもなければ騒ぐ声など聞こえないものだ。主人一家も使用人もしずしずと歩くし、大口を開けて笑う下品な人間もいない、と思っていたのだが。

 ぱたぱたぱたっ。およそ屋敷に似つかわしくない足音が駆け抜け、次いで「お待ちください」という若い女性の上擦った声が聞こえてきた。


『わっ!?』


 気を取られて廊下の曲がり角を覗くのと、人が走りこんでくるのとは同時だった。このままだとぶつかって、二人とも固い床に頭から突っ込む!

 俺は咄嗟に体を捻って相手の腕を取り、自分の内側へ抱え込むようにして倒れ込んだ。誰かの息を吸い込む音が耳を掠めた。――あれ。


「っ!」


 どどっ! 背面が強く叩き付けられ、女性の悲鳴が降ってくる。顔を上げてみると、声をあげていた女性はディアナさんだった。顔が、驚きと心配で青白く見える。


「いやだ。あなた、大丈夫っ?」

「あ、はい、多分。……痛ぅ」


 誰かを庇いながらだったために受け身が取りきれず、ちょっと背中や腰を打ってしまったものの、こういう時に死守すべき頭はなんともないようだ。打ち身や擦り傷も問題ないレベルだろう。

 それより、ぶつかってきた方はどうなった?


「大丈夫でした?」


 そこでようやく庇った相手を見下ろし、ぎょっとした。確かにやけに軽い足音だなとか、抱え込んだ時に妙に細いなとは思った。こうしていても大した加重はかかってこない。


「え、えぇ……」


 でも、今の今まで女だとは気付かなかった。慌てて支えていた手を離し、腕の中から解放する。助けたのに、「セクハラ」だとか「どこ触ってるのよ」とか、金切声をあげられてはたまらない。

 目を白黒させる俺に、彼女はゆっくりと立ち上がり、か細い声で「ごめんなさい」と謝罪した。


 年齢は俺よりやや上、赤みがかった茶髪が背の真ん中あたりまでウェーブを描きながら伸びており、腰からふわりと広がるワンピースは、とても走ったりするのに向いているようには見えなかった。


「お嬢様、お怪我はありませんか?」


 お嬢様ということは依頼人の娘か。顔立ちは父親には似ていない。母親似だろうか。彼女はディアナさんの心配そうな視線と差し出されたを振り払い、固い声で「ないわ」と答える。

 喧嘩かよ。感じ悪い奴だな。そう思った瞬間、お嬢様は俺をじっと見つめてきた。


「えっと、何か……?」

「貴方、凄い身のこなしね」


 ぎくっ! まずいな。怪我覚悟で盛大に転んでおくべきだった。訓練で染みついた動きって、無理に崩すと酷いことになるんだよなぁ。


「どこかで習ったのかしら?」


 ぎくぎく! 興味津々に探ってくる視線を避け、俺はふるふると首を振った。ここでバレたら屋敷の調査どころじゃない。


「た、たまたまですよ。運が良かったですね、ほんと」

「そう? まぁ良いわ」


 あの、言っていることと表情が全く違うように見えるんですけど? とにかく、こうなったら話題を変えてしまうに限る。


「それより、廊下を走ったら危ないですよ。何かあったんですか?」


 すると、「それは」とディアナさんが言いよどみ、お嬢様がツンとそっぽを向いて言い放った。


「習い事が嫌になったから逃げだしたのよ」


 はぁ? という間抜けな聞き返しはなんとか飲み込んだ。それを、先を促す動作と受け取ったのか、彼女は更に溜まった鬱憤うっぷんを吐き出す。


「毎日毎日読み書きにマナーにピアノやダンス……もうたくさんなの! 私はもっと違うことがしたいのよ!」


 説教してやりたい気持ちも生まれたが、俺だって親に従っていれば、義務の兵役を終えたらどこかへやられる予定だったと思う。だから、こんなことを呟いてしまったのだろう。


「なんとなく、分かる気がします」

『?』


 お嬢様とディアナさんがきょとんとする。うわ、恥ずかしいこと言った! 今のナシ!


「いやっ、何でも! 今日はもう遅いですし、寝ましょう。ねっ?」


 おいおい、とても今日やってきた使用人の口にするセリフじゃないぞ。恥を上塗りする前に、二人を残して「お休みなさい」もそこそこにその場から逃げ出した。


「はぁ~、やばかった~」


 あんな場面に遭遇した後では調査を続行するわけにもいかず、部屋に戻って固いベッドに突っ伏す。重い息をゆっくりと胸から外へと押し出した。


 治癒術は自分でかけると、他人に施すほどの効果がえられない。己に向かって応援するようなものだからだ。確かにどこか虚しい感じがする。

 それでも怪我を放置するわけにはいかないし、今はココと顔をあわせる気にもなれない。気休めでも呪文を唱えて打ちつけたところを治し、寝ることにした。


「ふあぁ」


 ベッドに横たわると、疲れから睡魔はすぐに訪れた。とろとろとした緩やかな眠りに入る途中、ぼんやりと何かが意識の表層に浮かんでくる。


「そういえば……」


 呟いたところで記憶は途切れた。

 それから数日間は、昼は使用人としての仕事を覚える傍らに住人達の調査を行い、夜は屋敷の見回りへと費やされた。有難いのか迷惑なのか、俺達も悪戯の現場に遭遇するようになっていた。


 客間にあった調度品のティーカップが消える。廊下に置かれた壺が別のところのものと入れ替わる。夜中に開けたはずのない窓が全開。等々、枚挙にいとまがない。

 怪我の被害はなく、それぞれは「あれ?」と思う程度のことだが、連続すればやはり精神的に参ってしまうだろう。


 しかも原因は今もって不明。妙なことに、はっきりした魔術の痕跡はないのに、ただの悪戯で終わらせるには不気味な気配が残っているのだ。師匠なら一発で見抜けるだろうに、己の未熟さと直感の鈍さにイライラする。


「二重生活、しんど!」


 いくら鍛えているからって、慣れない生活は単純な体力とは別次元の疲労を覚える。俺が使用人用の簡素な食卓に叫びと共に突っ伏すと、向かいに座って優雅にお茶を飲んでいたココが楽しげに笑ってから提案した。


「これまでのことを整理してみましょうか」


 本当にウチのお嬢さんはタフだ。仕方なく頭を切り替え、屋敷内の人間関係をまとめることにする。屋敷の住人は主人、奥さん、娘。使用人のメイド3人と俺とココで計8人だ。二人で手分けをして、それとなく全員から話を聞いたが、不安がっているだけで手がかりになりそうな証言は出てこなかった。

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