第3話
うっすらと目を開けると、深緑色の向かいの座席が見える。まだ眠い目を窓の方へやると、外は雪が降り始めていた。雪の向こうは真っ暗で、何も見えない。ただ、窓ガラスに車内の様子が映っているだけ。しかし、その景色はいつものものではなかった。おそらく、列車に乗った時とは違っていた。多少なりとも近代的だった座席は古めかしく見え、車内の壁も、木でつくられたような模様だ。一体どういうことだ・・・?眠気はとっくになくなり、寝ぼけているはずはないし、眠っている間にどこか別の場所へ移動させられるなんて、もっとあり得ない話だ。信じられない気持ちで、恐る恐る車内を見渡す。目に入ってきたのは、やはり見たことのない車内だった。窓ガラスに映っていたものと同じ古めかしい座席、木でできた壁、床まで木材でつくられている。さっぱり状況がわからないが、退屈な列車の旅が幸か不幸か、少し楽しいものになるのではないか、という期待とわくわく感があった。よくある、ファンタジー小説の始まりのようなシチュエーション。この列車が一体どこへ向かい、果たして元の列車に戻れるのか、見当もつかなかったが、幼い頃からの、いわゆる別世界への憧れが、実現されたような気がしていた。
「あの・・・どうかなさいましたか?」
突然、声がした。もちろん耳を疑ったが、反射的に声の聞こえた方へ目を向けると、誰もいなかったはずの前の座席に、女の人が座っていた。途中の駅から乗ってきた人が、ガラガラの車内でもわざわざ僕の前の席に座ることは何度かあった。彼女が現代人の服装で、傍らにリュックサックでも置いていたなら、僕は驚かなかった。しかし、彼女が着ていたのは、どう見ても現代のものではない。洋画で見たことがあるような少し昔の、上品な女の人がしていたような格好で、傍らに荷物はなく、網棚に古い茶色のトランクが置いてあるのだ。驚いて声が出ない僕に、彼女はまた声をかけた。
「何か恐ろしい夢でも、見ていらっしゃったのかしら。少しうなされていたように見えましたわ」
言葉遣いも声のトーンも丁寧な、まさに上流階級の人、と思える彼女の顔を今度はじっと見てしまう。首を傾げて、目を丸くしている彼女の目は青く、肌は日本人のそれとは違って、白かった。どう見ても外国人のようであるのに、随分と流暢な日本語を話していた。頭は混乱するが、不思議そうにする彼女に何か答える方が先か。
「だ、大丈夫、です。少し変な夢を、見ていただけなので・・・」
声が震え、小さくなってしまった。心臓がドキドキし続けている僕とは裏腹に、彼女は綺麗に笑うと、
「そうでしたの。私も列車の中で眠ると、よくおかしな夢を見ることがありますわ。列車というのは、いつも、心地よく揺れるものですから、つい眠り込んでしまって」
と、少し恥ずかしそうに言った。そして彼女はふっと視線を落として、しばらく黙っていた。彼女に何か言おうと口を開きかけた時、彼女がパッと顔を上げた。
「あの、もしよろしければ、私の話を聞いてくださらないでしょうか?ある人のことを、思い出してしまったもので・・・」
「あ、はい。僕でよければ」
一瞬、驚いたが、人の話を聞くのは好きな方なので、そういうことなら、と彼女の声に耳を傾けた。
「私が二十歳を過ぎた頃、旅行が好きで、よく列車で遠くへ出かけていましたの。けれど、いつも途中で眠くなって、気づいたら目的地に着いている、なんてことが、よくありましてね。その時も、気づくと眠っていたのです。目を覚ますと、私の向かいの席に男の人が座っておりました。綺麗な茶色の髪と緑の目で、上級のコートを着ていらっしゃいましたわ。初めは驚きましたが、列車で相席はよくあることですから」
今もそうですわね、と彼女は笑った。
「相席は初めてでした。けれど、その方は気さくで、目の前の私に、自分の旅の話をしてくださいましたわ。今までどこへ旅をしたとか、どこの海が一番素敵だったとか。もともと、人の話を聞くことはあまり好きではありませんでしたが、彼の話を聞くうち興味を持って、楽しんでいる自分に気づきましたの」
彼女は、ふっと目を窓の方へ向けた。
「彼は、次の駅で降りていきました。短い時間でしたけれど、彼と過ごした時間はとても楽しいものでした。今でも思い出しては、笑みがこぼれてしまうくらいですのよ」
思い出していたのは彼女なのに、なぜか僕は胸がモヤモヤとしてくる。しかし、そのモヤモヤは僕を嫌な気持ちにさせるだけではなく、少しだけ暖かな気持ちを感じさせた。
「ごめんなさいね、こんな話。つまらなかったかしら?」
「あ、いえ。すごく・・・面白かったです。羨ましいくらいですよ」
「あなたにも、この先あるかもしれませんわね、こんなこと」
ふっと彼女が笑うと、なんだか僕まで笑いたくなった。つられ笑いって、あるのかな。少しだけ、つられて笑うと安心したのか、急に瞼が重くなってきた。
「・・・あなたの長い未来に、幸せがあることを願って」
彼女の声が聞こえた気がしたけれど、僕はもう深い眠りへと誘われ、意識を手放した。
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