⑤ 沈むまでの間

 ドボン。

 気づいたら、水の中だった。

 

 なんでこんなところに?理由はわからないが、とにかく俺は今、水の中にいて、ゆっくりと下の方へ沈んでいるらしい。水面が遠のいていくのがわかる。一瞬、その水面へ向かって泳ごうと力を込めてみる。しかしどうやら俺には、泳ぐ力も残っていないようだ。体も頭も、沈んでいくことを受け入れているように感じる。不思議と息を吐き続けているのに、苦しくならない。ただの水じゃないのか?呼吸をしながら、どんどん沈んでいく。

 落ちる前、俺は何をしていた?・・・ああ、そうだ。真っ直ぐな道を歩いていたんだ。他の奴等と一緒になって、果てのない真っ直ぐな道を。その道を歩いている途中、ふと横道が現れて、俺はなぜか、その道の先が気になった。そうして横道へ足を踏み出した瞬間のことだ。急に地面は無くなり、柔らかなものに包まれて、砂漠のような景色は一変、透明で青空が写ったような景色になった。その後、気がつくともう沈み始めていたんだ。

 今思えば、前から似たようなことがあった。道を歩いている途中、他の奴等が気づいていない石に気がついた時、遠くの方に変わった形の木を見つけ、足を止めようとした時、道端で休んでいる奴を見つけ、声をかけようとした時、俺の前にはいつも底の無い水溜りが現れる。足が引き摺り込まれ、俺は慌ててもう片方の足を踏ん張り、沈みかけた足を引き上げ、また歩き始める。そんなことを繰り返してきた。しかし、今回のように突然、広い水中へ落ちるのは初めてだ。・・・警告するまでもなく、ということなのか。もしも今までの水溜りが、何らかの警告を意味していたとしたら、今回落ちたのは、警告するまでもない、自分で気づけるはずだった、ということなのだろうか。・・・何を考えようと、もう落ちてしまったのだ。何だっていいさ、今更。

 もう上がることはないと思うと、後悔と安堵の両方が湧いてくる。前者はもちろん、やり残したことだ。他の奴等ともっと話したかった。あの石をよく観察してみたかった。見上げたことのない空を、見てみたかった。考え出すとキリがないほどの後悔がある。逆に後者は、もうあの道を歩かなくて良いという安堵だ。やけに凸凹とした道だった。止まろうとすると現れる水溜り。故に歩き続けなくてはならなかった。そんな道をもう歩かなくて良いのは、俺にとって、とても嬉しいことだった。


 そんなことを考えている間も、体はどんどん沈んでいく。もう水面すら見えず、微かにキラキラと光る水色の中にいる。だんだんと暗くなる色や冷たくなる水。それらが、深くへ沈んでいることを俺に示していた。

 ・・・こんなことになるなら、あの人にも伝えておくべきだったな。薄暗くなっていく景色を見ながら考える。ただ真っ直ぐな道の途中で出会ったあの人。話していると楽しくて、おもしろくて。俺のことを受け入れてくれて。俺にとっては、とても大切な人だった。だが、そんなことは気恥ずかしくて言えるわけがない。何気ない話をして、笑って。それだけだったけれど、大事な時間だった。あの人の笑顔が今でも脳裏に浮かぶ。

 どうか幸せでいてほしい。あんな道でも、歩く中で少しでも楽しいことや嬉しいことを見つけてほしい。大切に思える人に出会ってほしい。こんな状態になってもなお、そんな思いが強くなる。


 もう景色も見えなくなった。真っ暗で冷たい空間。終わりが近づいているのか。目を閉じて、短く息を吐く。


 一縷の光もなく、水温は常人には耐えられない程になった。男は、目を閉じたまま口元に笑みを浮かべ、安らかな表情をしている。

 

 とぷん。


 男の体は、どこかへたどり着いたような、それとも泡になり消えたかのような、そんな音を残していった。

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