② 空へのぼった男

 一人の青年が、人で溢れた歩道を歩いている。彼は長い間ずっと、自分がどこへ向かっているのかも知らず、歩き続けていた。立ち止まったことはなく、立ち止まり方も知らない。ただ歩道のタイルの数を数えながら歩く、そんな彼に、周りの人間が好奇の目を向けないのは、彼がめずらしくないからだ。この世界では皆が、そんな風に歩いている。立ち止まっている人間はいない。歩く方向は違っていても、各々の脚は、ただ機械的に動き続けている。

 長く歩き続けている者ほど、すれ違う人間を避けることが上手く、その表情は感情を読み取れないことが殆どである。歩き始めたばかりの者はキョロキョロと辺りを見まわし、時折、避けられずにぶつかってしまうこともある。

 ぶつかる度に俯いていき、表情に変化がなくなる者もいれば、好奇心が生まれて自らぶつかることを求め、目をキラキラと輝かせる者もいる。この青年は、どちらか?この世界では残念なことに、前者であった。


 朝も昼も夜も歩き続けていた青年は、ある時ふと脚を止めてみることを考えた。特に理由はなく、青年の中に生まれた小さな、小さな好奇心からである。ただ、自分が止まることで周りの人間に迷惑をかけることは避けたかった。これは、青年が歩き続ける中で得た「協調」という考えらしい。そこで青年は邪魔にならないよう、段々と歩道の端、歩いている人間の少ない場所へと移動した。端と思われる場所へ着くと、そこには鉄でできた無機質な柵がある。柵の向こうはタイルもない、真っ黒く、深い、「道」と呼ぶことも難しいような場所だった。そんな景色を横目に見ながら、青年は歩くのを止めるタイミングを計っていた。

 数分後、青年の前から歩いて来る人間が減った。後ろを歩く人間の足音も減った。今だ、と青年は心の中で決め、短く息を吐き出した後、足を動かすことを、止めた。誰にも教わったことはなかったが、案外、簡単に止めることができた。今まで気にならなかった足音の種類、吹いている風、空気の匂い、歩いていた時には感じなかったものを、一気に感じる。歩き始めた時以来、見ていなかった自分の周りの様子を、青年はじっくりと眺めてみる。

 立ち止まっている青年に視線をやりながら通り過ぎていく者、青年には興味もなさげに足早に歩いていく者、そんな人間達の向こう側には、歩道のもう一方の端があるはずだが、溢れた人間の向こうに隠れ、全く見えない。くるりと反対側を見ると、先ほども見えた鉄の柵とその向こうの真っ黒い道。あらためて柵をよく見てみると、高さは青年の背丈ほどしかない。登って越えることも不可能ではない。そんなことを考えた次の瞬間、何かの引力がはたらいたのかと思われるほどの力で、青年は柵の向こうへ引き寄せられた。青年の目線は真っ黒い道に固定され、体は柵へと近づく。いよいよ柵に手をかけ、登ろうとした時にハッと我に返った。何かに支配されていたかのような感覚に身震いし、深呼吸を繰り返す。

 心を落ち着かせた後、青年は、歩いていた時には、することのできなかった行動は他にないか、考えた。・・・そして思いついたのが、上を見ることだった。上にはいったい何があるのか?青年は知らなかった。自分達よりも大きい人間が歩いているのではないか、柵の向こうと同じような真っ黒い空間が広がっているのではないか等、色々と想像をする。青年は再び心を決めて、目線を上へと向けた。

 その直後、青年の目は大きく見開かれた。そこには、見たこともないほど綺麗で、澄んだ、青い景色が広がっていたのだ。どこまで続いているのかわからないほどの広い青に、青年の瞳はきらきらと光り始める。眩しい。思わず上に向って手を伸ばす。すると青年の体は、青い景色へ向かって、ふわりと浮き始めた。青年は、驚きと共に高揚した気分に包まれる。何か素敵なことが起きるような、そんなワクワクとした、味わった事のない気持ち。

 青年の体は、ふわふわと心地よいリズムで上に向って浮き続ける。ふと視線を下へ送ると、相変わらず狭い歩道に人々がひしめいている。ただ、今の青年は、そんなことはどうでもいいと笑えるほど明るい気持ちに包まれていた。

 ぐんぐんと昇っていく青年の体。周りの景色は、変わらず青く、眩しく、見渡せば心地よく、暖かささえ感じる。明るい気分で胸がいっぱいになった青年は、

「もしかしたら、この場所で歩くこともできるんじゃないだろうか?」

と考えた。歩道の上で立ち止まった時のような緊張感はない。むしろ、ワクワクとした気持ちで溢れている。こんな素敵な場所を一人で歩くことができたなら、どんなに素晴らしいだろう!そんな興奮した気持ちで、青年は、脚を前へ踏み出した。


 その瞬間、踏み出した脚が着く感覚より先に、遠くの方でいくつもの、悲鳴のような声が聞こえた。

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