*** 二〇二〇年 十月十五日 木曜日
昨日の夜、僕は夢を見た。以前見たものと同じで懐かしき相川寮の中庭に僕は突っ立っており、周囲に人の気配は一切なかった。頭では夢だと分かっていたので改めて施設の中をじっくりと見回ることにした。廊下に設置された大きくそびえ立っている年季の入った振り子時計、生活感溢れる生活棟のリビング、クリスマス会などのイベントを行うためのホール、そして養護施設には珍しい一部屋程の大きさをした図書室。高校生になり視線の高さが変わるとこんなにも景色が一変するのかと驚いた。中でも一番衝撃を受けたのは施設に預けられていた頃の親友と何度も訪れた図書室だった。
幼少期の僕にとって、例えるならあの県立図書館と変わりない広さで無数の本が本棚に納まっていると思っていたが、成長した僕にとっては案外窮屈でそこまで本の数が多くなかった。あの頃、僕が感じていた世界はこの図書室全てで構築されており、本を読むことが楽しくて仕方がなかった。本とあの少女だけが僕の人生に関わる重要な役割だと思い込んでいた。これから先、ずっと僕は唯一の親友である少女と隣り合いながら無限に存在する本を読み続けることができると無意識に思っていた。しかし、全ての事柄や事象には必ず終わりがある。この図書室に存在する本は有限であり、世界はこんなにも広く、本だけでは得られないような体験があちこちに潜んでいる。そのことを琴葉が身を以って証明し、僕の世界を広げてくれた。琴葉には感謝しようにも感謝しきれないなと思った。
いつしか僕は施設の外側へと通じる門の近くへとやって来ていた。施設の中を懐かしみながら回り終えた僕が門へ向かい外の景色を観に行こうとした途端、門の反対方向から琴葉とは違う女の子の声が聞こえた。声がした中央広場へ視線を向けるとそこにはあの少女が僕と向かい合う形で立っていた。凛とした少女の容姿はやはり精巧に調整し作られた人形のようで子供には似つかわしくない美を持ち合わせていた。だがその顔立ちに琴葉の面影を感じられはしなかった。琴葉の無邪気な表情や時々見せる感情豊かな目が少女に一切持ち合わせていなかった。
よく彼女の声に耳を澄ますとどうやら僕の名前を読んでいるようだった。気付いたと同時に門の外に誰かがいる気配を感じたので振り向く。門の外側には見知った背中を見せる女子学生が立っていた。彼女はこちらを見向きもせず僕の名前を呼びすらしない。その代わりと言わんばかりに先ほどの少女がもう一度僕の名を呼んだ。
以前の僕ならば施設の外を出ようとしなかっただろう。向き合うべき問題に気づかないふりをして狭い世界で孤独でいようとしたはずだ。だが今の僕にはそんなことはできない。なぜなら僕は外の世界を知ってしまったからだ。壁を作って閉じ籠るよりも外の世界で自分自身が抱える問題を解決し前に進むことで、本と向き合うだけでは得られない体験が待っているのだ。誰かと一緒に本を読めば一人で読み進めるよりもきっと楽しい。その事実に十七年生きてきてようやく気付いた。故に答えはもう決まっていた。
彼女の背中を眺めたまま、少女の方へ振り向かずに言葉を吐いた。
「悪いけどそっちには行けない。君と過ごした日々は凄く楽しかったし、かけがえない宝物だと思っている。けど今の僕には助けないといけない人がいてその人のそばに寄り添いたいんだ。だから僕は前に進まないといけない。だからここでさよならだ」
心の中で『ありがとう』と唱えてから、僕は勢い良く走り出した。門の外へ出て彼女へと向かって手を差し伸べる。手が彼女に触れそうになった時、周囲がきらきらと輝き始めて一瞬で目の前が眩い光で白く染まっていった。
目を覚ますと僕は手を天井に差し出しながら自室に寝転んでいた。窓から差し込んだ光がやけに眩しかった。体を起こして数秒してから先ほどの状況が夢だったことに気付いた。
視線を反対側の壁に向けるとハンガーにかかった制服が目に入る。遅れながら今日久しぶりに学校へ登校することを思い出した。家族に打ち明けた日、久しぶりに学校へ登校することを決めたのだった。長い間、無断欠席していたので出席日数が足りなくなっている可能性があり、最短で卒業するためには出席日数を稼ぐ必要があった。身支度を整えるためにまずは洗面所で顔を洗うことにした。部屋着のままリビングへ向かうとすでに制服に身を包んだ未希が朝食を摂っていた。降りてきた僕に気付いた未希が満面の笑みで「お兄ちゃん、おはようっ!!」と言うと母さんも「おはよう」と朝の挨拶をしてきた。
「おはよう。未希、母さん」僕が挨拶を交わすと母は少し微笑み、未希はさらに満面の笑みで元気よく「うん!!」と答えた。
洗面所で顔を洗ってから自室へ戻り制服に身を包む。久しぶりに着る制服がしっくりこず違和感を覚えた。朝食を摂ろうと教科書の入った鞄を持って階段を降り再びリビングに行くと、そこに未希の姿はなくすでに家を出て学校へ向かったようだった。テレビを見ながら朝食であるトースト食べ終わるとそろそろ家を出る時間だったので、少し早めに家を出ることにした。玄関で靴を履いていると母さんがやって来て家を出る際に「いってらっしゃい」と声を掛けてくれた。その言葉に対して僕は「いってきます」とできる限り元気よく答え、学校へと向かった。もしかするとその時の母さんは少し泣いていたかもしれない。
電車に揺られながらここから見る久しぶりの景色を懐かしむ。うっかり乗り過ごしそうになったが寸前で最寄駅に到着した事に気付き、急いで電車を降りた。学校へ着くと校門をくぐり、図書室ではなく教室へと向かった。僕の在籍するクラスへ近づくにつれて喧騒が大きくなり、廊下を歩く同級生も増えてきた。
教室へと辿り着き戸を引くと、すでに登校していた数人のクラスメイトの視線が僕へと集まり、先ほどの喧騒が嘘のように静まり返った。僕は無言で長らく空席になっていたであろう自分の席へと向かい座った。数秒ほど経過すると元の会話へ戻る人もいれば僕の登校を話題にして会話する人もいた。誰ともコミュニケーションを取りたがらない人間が夏休みを終えても全く登校せず、一ヶ月以上来ないと思ったら急に登校してきたのだから無理はない。誰だって驚くだろうし、学生というのは噂話が好きだから話題になりやすいのだろう。あまり気にしないようにして僕はすでに登校しているクラスメイトの中から目的の人物を捜した。しかしいくら周囲を見渡してもその人物を見かけることはなかった。仕方がないので彼女が登校してくるまで机に突っ伏して目を瞑むり待つことにした。
ホームルームのチャイムが鳴って担任が挨拶と共に教室へ入ってくると同時、「すいません。遅れました」と言って登校してきたクラスメイトがいた。その女子生徒が席へ着くなり、僕の方へ視線を飛ばしてきた。軽く手を上げると彼女は溜め息を吐いた。一限の授業が終わってから声を掛けることにして、大人しく一限の授業を受けた。一限の授業は古典で酷く退屈だったので時間の進み具合が遅いような気がした。一限終了後、目的の人物に声を掛けた。
「一ノ瀬さん。話したいことがある」
「はぁ、心配したんだから連絡ぐらいしてよ。こんな所で話せる内容じゃないから人気のないとこに行こう」
僕たちは人通りの少ない外階段へと移動し、琴葉が隠した真実と今までの僕の行動、そして僕の決心を伝えた。その間、一ノ瀬さんは空を見上げながら黙って僕の話を聞いていた。全てを語り終えると一ノ瀬さんは「……そうだったんだ」と小さい声で答えた。
「それで、できれば一ノ瀬さんに頼みがある」
彼女は「何?」と簡素に答える。
「僕と友達になってくれないか?」
彼女は少しだけ無言になってから僕を見て笑う。
「私たちって、琴葉ちゃんが隠した真実を一緒に探し出した時から、すでに友達だと思ってたんだけど、もしかして違った?」
一ノ瀬さんは悪戯っぽく笑って言った。僕は「そう、だったな。じゃあ改めてこれからよろしく」と気を取り直して答えた。
「琴葉ちゃんのことよろしくね。絶対に探し出して側に居てあげてね、絶対に」
「あぁ、もちろんだ」彼女の顔を見ずに同じように空を見上げて答えた。この日を境に僕と一ノ瀬さんはたまに出掛ける仲になり、時には琴葉が行きそうな場所の調査を手伝ってもらった。琴葉のおかげでまた新しい友人が出来たのだから感謝しなければならない。一度、一緒に琴葉を捜そうと提案したのだが断られてしまった。彼女曰く、琴葉は僕に対して捜して欲しいと願ったのだからその役目は自分ではないとのことだった。あくまでその役目は僕で、一ノ瀬さんは彼女なりの手伝いしかできないのだそうだ。なんとなく一ノ瀬さんの言いたいことが全てではないが分かった気がした。
ある日、教室の窓の外に複数匹の小鳥が枝木に留まっているのを見かけた。他の小鳥たちが次々に飛び去っていくのに対し、ある二匹だけが一向に飛び去る気配を見せなかった。熟視すると片方の小鳥の羽が不自然な形をしていることに気付いた。二匹の小鳥はいつまでも隣り合って空を見つめていた。もしかすると怪我をした小鳥だけは空だけではなく飛び去ってしまった仲間を見ていたのかもしれない。
僕は今日までの出来事を改めて日記に書き直した。
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