*** 二〇二〇年 十月二日 金曜日
僕は自室のベッドの上で寝転びながら、もう一度琴葉が書き残したであろう文章に全て目を通した。あの日記にはあの日の事件までの出来事が琴葉の感情と共に記されていた。虐めを受けていたこと、その虐めに対して終止符を打とうとしたこと、僕ではない人間を協力者に選んだこと、自分の死を偽装したこと、そして僕とはもう二度と会うつもりなんてなくて前に進むように願っていること。
大方、僕と一ノ瀬さんが推理した通りで、唯一違ったことと言えば琴葉の両親と僕宛の手紙の『こんな悲劇を繰り返してはいけない』の一文に込められた意味、そして結局協力者がいたことだった。
僕はこの一文が虐めは犯罪だと気付いていない世間へのメッセージなんかではなく、第二の被害者だった滝川さんという個人を守るという意味だと考えていた。しかし、琴葉はその両方の意味をあの一文に込めていたのだ。琴葉は誰よりも勇敢に虐めという問題に立ち向かおうとしたのだ、たとえその行為が世間一般的には間違っていて、罪に問われるような方法だったとしても。だからこそ僕は彼女の行いを批判することができない。
何かを守る為に時に何かを犠牲にしなければならない。琴葉は罪を犯して自分の未来を犠牲にしてでもどうにかしようと足掻いた。僕はその行為が正しいように思えてならなかった。しかし、できることなら僕を協力者に選んで欲しかった。遺体を盗んで白骨化して頭部を潰すなんて行為は僕を想ってくれているなら斎藤健二とかいう赤の他人ではなくて僕に任せて欲しかった。彼女の側に居ながら同じ罪を犯して先の見えない未来を共に歩みたかった。
今すぐにでも琴葉に会いに行きたい。だが琴葉は隠していた真実を明かしただけで、行き先を一切教えてくれなかったので探すにはあまりにも時間がかかりすぎる。日本にいるかどうかも分からない琴葉を探し出すなんて、どう考えても不可能だった。金も無い、数人しか友人がいない、そもそも家族とコミュニケーションを取ることを避けている、そんな人間がどうやって人を探し出すというのだ。荒唐無稽な話にも程があるだろう。彼女の望む通り、僕は前に進べきなのかもしれない。琴葉との日々を記憶の棚の奥深くにしまい込んで、時々埃を払うかのように引き出しの中から取り出しては懐かしむ。そうやっていつしかどの棚にしまい込んだのか分からなくなって、琴葉と過ごした過去がまるで元々存在しなかったかのように振る舞う。そんな人生を琴葉はきっと望んでいる。
目を閉じて琴葉と過ごした日々を思い出す。最初の約一週間は彼女の過ごす毎日が面倒臭かったのを覚えている。いきなり見ず知らずの人間と友達になって楽しめって言う方が難しいだろう。楽しいなんて感情は全く無く、ただただ煩わしかった。他人の着る服のデザインなんて一切興味がなかったし、よく知りもしない赤の他人と二人きりでなんであんなにも無邪気で心底嬉しそうにしていたのか不思議でならなかった。だけど、琴葉の隣り合いながらの読書の時間は嫌いではなかったし、あんなにも本を読むことに喜びを感じてくれたのは案外悪くない気分だった。
無意識に僕と他人は違う生き物で、僕は僕自身以外の人間と感情を共有し合うことができないと思い込んでいた。あの頃の僕にとって、たった一人で本と向き合っている時間が唯一の居場所だったのだ。クラスメイトでさえ、一ノ瀬さんでさえ、家族でさえ、もちろん琴葉のことでさえ。誰かと共に同じ時間を過ごしながら何かを分かち合おうとしなかった。しかし、案外僕も単純だったのかもしれない。彼女と訪れた水族館はほんの少しだけ楽しかったのだ。純粋に楽しんでいる琴葉の顔が水中から差し込む光に照らされて、言葉に言い表すことができないほど繊細な美しさをしていた。僕は無意識のうちにもっと彼女のことを知りたいと考えていた。きっとあの時の僕はその考えにすら気付けていないと思う。
そういえば県立図書館に訪れたあの日、琴葉の様子がおかしかったことを思い出した。普段の無邪気で笑顔で眩しい彼女がまるでお面を取り外したかのようにか弱い子供のように見えたのだ。あの時、琴葉は手に取った小説の物語の描写があまりにも現実的で、暴力的な表現が自分の読みたかった物語に合わず明らかに元気をなくしてしまっていた。僕は何も疑わず胸糞悪い物語だから当然だと考えて特段気にも留めなかったが、琴葉の境遇と現在までの経緯を知った上では全く違ったことが今なら分かった。あの小説は虐めによって失った友人の仇を討つ物語だ。琴葉はその物語の主人公だけではなくその友人にでさえ自分を重ねてしまったのかもしれない。近い未来、自分がそのような結末を辿るかもしれないと考えてしまったのだろうか。琴葉はずっと一人で闘っていたのだろう。
それに加えて別の女子生徒でさえ虐めの被害に遭っていた。もし琴葉が滝川さんへの虐めに運良く気づかず、エスカレートした虐めに耐え切れなくなった滝川さんが自殺してしまったら、心優しい琴葉はその主人公のように最大の罪を犯してしまうかもしれない。この世の中は正常で真面な人間に対して、常に不条理で理不尽な仕打ちを受ける。自身の尊厳や大事な感情は法律によって守られているはずなのに、時にはその法律が味方せず率先して踏み躙ってくる。あまつさえ、残酷な犯罪者や狡猾なクズの味方をして正義ヅラしてくる。
幾度となく尊厳を滅茶苦茶に切り刻まれた被害者は法を犯すか死を選ぶかの二択を迫られる。そこに正しさなんてあるのだろうか。何を持って正しいと決めつけているのだろうか。その二択に世間一般で言われている正しさはきっと無いはずで、他の選択肢が用意されていない人間は来るかも分からない終わりを待ち続けるしかなくなる。それが今の無慈悲な世の中なのだ。
その結果、逃げるために自分を殺すのではなく、琴葉は自身や他人を守るために法を犯すことを選んだ。琴葉は今も一人で闘っているのだろうか。一人で生きていくと日記には書かれていたのだから、少なくとも今は協力者である斎藤健二と別れているはずだ。となれば、いま琴葉はたった一人で生きようとしている事になる。
琴葉はただ真っ当に人生を歩みたかっただけなのに工藤瑞稀を含むクラスメイト達によって未来を奪われ、誰にも有栖川琴葉として悟られず別人として生きていくのだ。その事実が目の前にもあるにも関わらず、彼女の言うように意図的に目を背けながら僕は前を向いて、当然のような顔をして琴葉が一生進むことができない未来を享受するのか。そんな未来を僕は当たり前のように受け入れることなんてできない。なぜ人と関わりを持たない善意の欠片も無い僕が普通の人生を送って、友人でもない赤の他人の生徒を守るために行動した優しい琴葉が幸せな人生を与えられないのだ。
僕は琴葉の友人だ。ならば僕も彼女と同じ罪を背負って、同じ責任を持ち、彼女の側に居なければならない。
僕は前に進む。しかし、それは琴葉の言うような誰もが当たり前に与えられる人生なんかではなく、琴葉の側に死ぬまで居て彼女の想いや苦しさを分かち合う、僕たちだけの僕たちなりの幸福を感じる人生だ。彼女が隠したものに気付くことができなかった僕も責任を負わなければならない。
何年、何十年かかっても構わない。絶対に僕は琴葉を探し出す。それが僕の使命なのだから。
そうと決めたなら僕はやらなければならいことが二つあった。琴葉を探すための最後の情報収集と前に進ためにけじめを付けることだ。まずは情報収集のために奴に会うことにした。琴葉は僕には探さないで欲しいと書き残してた。つまり、琴葉は僕が探し出すことを見越して今後どこへ向かうのか僕に伝わらないようにしているはずで、逆に言えば僕に情報が伝わらない人間には今後の移動について何か言い残している可能性がある。僕はその人物に接触するために琴葉が残したもう一つである黒色のスマートフォンの電源を入れた。
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