*** 二〇二〇年 八月二十五日 火曜日
『差出人:080-XXX-XXXX
件名:―― 本文:アリスです。このメッセージは君だけに送ってるから誰にも見せないで。XXX.XXX@XXX.com、neRIne0809』
今朝方にアリスからまたショートメッセージが送られてきた。正確に言えばアリスと思われる差出人からだ。メールアドレスと何かの文字列、そしてこれまた意味深な言葉が淡々と書かれており、僕は呆然とスマホに表示されたそのメッセージを眺めていた。
メールやショートメッセージは手紙とは全く違って相手の感情がどうしても見えにくくなってしまう。その人を構成している感情や性格が筆圧や字の癖として自然と表れるような手紙と比べて、メールなどは字が統一されてしまうことにより人間味の薄い無機質なものだ。このメッセージも相手の感情や細かな言葉のニュアンスが僕の目には届くことはなかった。何より快活なあのアリスから送信されたとは到底思えない文章だった。
どこか他人行儀な雰囲気を漂わせており、まるで僕との関係を断ち切ったかのように感じられた。僕は真っ先にそう考えたのは何よりも自分自身を信用していないことに他ならない。僕だったらすぐにこんな人間とは縁を切るだろう。
でも……、と考える自分がいた。アリスはこんな善意の欠けた僕のことを優しい人間だと言い切って受け入れてくれたのだ。彼女が諭したその言葉を僕は未だに理解はできなかったが少しずつでも信じることはできていた。だからこそ同時に僕が彼女を裏切るようなよっぽどな行為をしなければ僕との友人関係を破棄するという結論には行きつかないと思った。そして僕にはその裏切りに等しい行為を犯した心当たりが無かった。別に人を殺してもいないし、誰かを意図的に傷つけた記憶もない。何か別の要因があったのだろうか。
僕は送られてきたメッセージにあるほんの少しの違和感の正体を探し出したくて、高架下へ向かおうと玄関へと向かった。僕は彼女に会わなければならない。このメッセージの真意や何があったのかを直接会って聞き出す必要がある。もしかすると自宅にアリスがいない可能性もあったが、どのみちこのままでは何も情報を得ることはできないし、逆に言えば何かしらの手掛かりぐらいは見つかる可能性だってある。外靴を履いて紐を結び終わると僕は玄関扉のロックを解除して扉を開けようとした。しかしその前にシリンダー錠が回転する音が鳴ってから扉は勝手に開かれた。
扉の前には二人の男が立っていた。片方の男は僕が玄関にいるとは思わなかったのだろう、少しだけ驚いた表情をしていた。一歩引いた場所に立っていた二十代後半の男は扉の奥を覗き込むと、僕の姿を見つけて穏やかな表情で挨拶がてらに手を上げて笑った。おそらく昔会ったことがあるのだろうが、僕の記憶の中に該当する人物はいなかったので軽く会釈することでそれを挨拶とした。若々しい細身の男は夏にもかかわらずジャケットをきっちりと身に付けており真面目な印象を受けた。
次に視線を左側の髭の生えた男へと向けた。若い男と違ってカッターシャツの袖を肘の辺りまで捲っており血管が浮き上がるような筋肉質な腕を露出させていた。身体的には極端に大柄でもなく細身でもないのだが、シャツの上からでも体が鍛え抜かれているのがわかった。顎には綺麗に整えられた黒髭が生えていて、苦味走った男らしい顔だった。筋肉質な男は僕の存在を目で捉えるやいなや険しい表情をしながら溜息を吐いた。見慣れた顔にも関わらず、僕はぎこちなく目を伏せながら一般的な挨拶を交わした。
「……おかえり」
「あぁ」と筋肉質な男は返事を返した。
互いに黙り込んでしまった結果、気まずくなった雰囲気から僕は脱出しようと「じゃあ、用事があるから」と呟いて目的の場所へ向かおうとした。
「待ってくれ。話がある」
しかし、筋肉質の男が横を通り過ぎた僕に声をかけて呼び止めた。珍しく向こうから声をかけてきたので僕は後ろを振り向いた。
「……話?」
「あぁ」と言って目の前に立つ男たちはポケットから仕事柄見せる必要のあるものを取り出し始めた。
「
その瞬間、僕は目の前が真っ暗になったような錯覚を覚えた。男の台詞の中にあった日常では聞き慣れないたった一つの言葉によって僕自身を構成する何もかもが停止したのだ。一瞬にして日常に溢れているありとあらゆる音は消え去って、身体に鳴り響く心臓の鼓動音だけが僕の耳に届く。
何も言葉が出なかった。ただひたすら男の吐いた言葉が理解できなかった。身体は完全に硬直してしまい男の表情を見ることができなかった。無意識に目を見開いたまま、視線だけを動かして二人がポケットから取り出したものに吸いつけられるように移動した。
そこには筋肉質の父と真面目な表情になった若い男が先ほどまでには見せなかった警察の独特なオーラを放ちながら僕の目の前に警察手帳を提示していた。
リビングにある四角いテーブルに父と目黒と名乗った若い男が片方に座り、僕は彼と向き合う形でもう片方の席に座った。母は品のある動作で台所から湯飲みを三つ取り出してきて、僕たちの目の前で茶を注いだ。茶が配られた後もすぐ父は話を切り出すことはなく、五分十分と時間は流れていった。今すぐにでも何があったのか聞き出したかったが、父から溢れ出る威圧感と『遺体』という言葉が僕にそうはさせなかった。どうすることもできなかったので僕は父が話し始めるのを待つことにした。
あと若い細身の男は目黒と名乗っており、名前から以前に自宅へ来たことを先ほど思い出した。四、五年ほど前に捜査一課の新人として配属されたことを祝おうと父が歓迎会と称して自宅へと招いたことがあった。最初は遠慮がちになっていたものの、幼い未希の警察に対する興味津々な様子と母の丁寧なおもてなしが功を成して気兼ねなく楽しんでいたようだった。生憎僕は部屋に引き篭もって小説を読み進めていたので、顔を合わせたのはリビングを通った時の一回だけだった。あの時は警察官と言われてもしっくりこないような気弱な大学生みたいな姿をしていたが、目の前にいる目黒さんはすっかり警察官として名乗るに相応しい顔つきをしていた。
「それでアリスという少女についてだが……」前触れもなく父はその件について低音かつゆっくりとした口調で話し始めた。
「……三日前の十一時頃、木造建築のとある屋敷が燃えていると通報があった。その家は古くからある由緒正しき屋敷で、随分昔に建築されたものだったらしい。消防車が到着した時にはすでに半焼状態で鎮火するまでに三十分程の時間を要したとのことだ。ほとんどのものは焼け焦げてしまいほぼ家の原型をほぼ留めていなかったそうだ」
ふとアリスの自宅へ一度だけ行ったことを思い出した。塀に囲まれた木造建築の別荘のようなもの、より適切な表現をするのであれば由緒正しき屋敷の方が正しいかもしれない。
「後日調べると、そこには親元から遠く離れた高校に通うために一人の女子高生が住んでいるのがわかった。その少女の名前が――」
「有栖川琴葉。アリス……」
「そうだ……。そして、ほとんど焼けてしまった屋敷のある一部屋から……白骨遺体が発見された」
「……は? 白骨、遺体?」僕は二度目の衝撃を受けた。僕の頭の中にありとあらゆる事件や事故に関する知識が流れ込んできた。本格的なミステリー小説を読まない僕でもライトミステリー小説で知識として覚えてしまったものがある。火災現場で焼死体が見つかることは当たり前によくあることだが、その遺体のどれもが中途半端に酸化反応して完全には燃やし切れてないものばかりなのだ。通常の火災で骨の周りに張り付いている肉が完全に焼けてしまって消滅することは確実にあり得ない。火葬のように長時間かつ超高温で焼くのとはわけが違うのだ。それが意味することはただ一つ。
「それってつまり……」
「本をよく読むお前なら分かるかもしれない。通常、火災現場から燃焼途中の遺体が出てくることはあっても綺麗な状態の白骨遺体が見つかることはほぼありえない。つまり……他殺の線の可能性が一番高い」
開いた口が塞がなかった。アリスが殺されたなんて考えたことがなかった。何かの事故に巻き込まれているというのが僕一度だけ空想として無理やり片付けた最悪の状況だったがその考えまでには至ることはなかった。
「詳しい捜査内容は守秘義務でいくらお前でも話すことはできない。だから掻い摘んで話すぞ」
「あぁ……」
「まず、被害者が所持しているスマホが屋敷で見つかったが焼け過ぎて中身が壊れていた。だから俺たちは契約している携帯会社に行って電話やメール、今流行りのメッセージアプリの記録を見せてもらった。その中で気になる名前を見つけた。そいつは被害者をアリスと呼んでメールのやり取りをしていたことが分かった」
父がなぜアリスというニックネームを知っていて僕に辿り着いたのかすぐに理解した。サーバに残っているログを見れば僕とアリスがメールでやり取りしていること、もっと言えば電話内容だって知っていることだってあり得るだろう。
四日前にアリスから送られた一件のショートメッセージが写った写真を父はテーブルの上に差し出した。そして父は頭を悩ませるような素振りを見せて重々しい口調で二つほど僕に尋ねた。
「お前は被害者とどういう関係だ? そして……火災があった日とその前日である二十二日と二十三日、お前は何をしていた……?」
台所で皿を洗っていた母の手が止まったのが音でわかった。もしかすると父や僕以上に動揺しているかもしれない。つまり父は今僕を疑っている。これは仕事柄仕方がないだろう。アリスの死に動揺しつつも僕は大きく息を吸い込んで事情を話した。
「……彼女とは友人だ。二十三日は彼女と待ち合わせをしていて、立っていることに疲れたから途中から駅に併設している喫茶店に入った。それは防犯カメラにも写っているはず。……それで、結局待ち合わせ場所には来なかった。二十二日はずっと家にいた」
付け加えて僕もこのメッセージを不審に思っていたこと、四日前から一件のメッセージを除いて何も連絡がなかったこと、アリスとは思えないような素っ気ないメッセージであることを伝えた。咄嗟に今日届いたメッセージは隠してしまった。
「そうか。あとで確認する」父は一瞬だけ安堵したような表情をした。
「話はこれで終わりだ。また何かあれば、また話を聞かせてくれ」
僕はそれに対して黙り込んだまま頷いた。
父はそう言って立ち上がった。すぐ真横では目黒さんが母に「ご馳走様でした。このお茶、すごくおいしかったです!!」と明るく元気よく感謝の言葉を並べていた。目黒さんからは何も聞かれなかったが父のことだ。自分から話を聞くと無理矢理説得したのだろう。そして、目黒さんはこの空気を良くしようとすることに最後の最後で徹してくれているのかもしれない。
僕は席から立ち上がらず、ただ顔を俯かせていた。リビングと玄関へ続く廊下のドア付近を通った時に父は付け加えて言った。
「……その子の葬式が明後日に執り行われる。出るか出ないかはお前が決めろ」
これまた僕は何も言わなかった。そしてすぐに目黒さんと父の姿はリビングからは見えなくなって、玄関の扉が開閉する音が少しだけ聞こえた。
この時の心境としては、全身の力が抜けるような衝撃は受けたが思った以上に僕は動揺もせず落ち込んでいなかった。アリスの死に動揺している自分もいれば、現実味がなくて何も感じていない自分も確実に存在していた。テレビで報道された他人の死にそこまで関心を示さないようなあの感覚だ。事実であることは頭で理解しているのだが、現実であるということに感情が追い付いていない。大切だった友人の死に対してそんなすぐに悲観しろという方が無理あるものだ。
今の僕の感覚では、線路に飛び降りた高校生が即死したと同等のひどく曖昧なものの感じだ。ふとアリスに出会う前に見かけた他人の死に悪態をつくあの男二人組のセリフがフラッシュバックした。
『ちぇっ、電車動かねーのかよ』『うぜーな。こんなところで死ぬなよ、くそがっ』
あの時、悪びれる様子もなく飛び込んだ学生に対して、平気で悪態を吐ける無神経な発言に僕は思わず顔を顰めた。他人を人と思っていないような言葉がとてつもなく気持ち悪かった。だがもしかすると――もしかしなくても、他人の死に興味を抱かないという点では同類なのかもしれない。やはり善意の欠けた僕は優しくなんかないのだ。アリスが諭すように慰めてくれたあの言葉は彼女にとって紛れもない事実なのかもしれないが、世間でみればそんなのは所詮自分を肯定したいだけのまやかしなのかもしれない。
そんな言葉をくれたアリスはこの世にはもう存在しない。
ここでようやく僕はほんの少しだけ寂しさを覚えた。死というものに対してよりももう彼女に会えないかもしれないことが僕に孤独の侘しさを与えた。
僕は二日後、アリスの葬式に現実であることを確認するために足を運ぶことになる。感情を揺さぶられるような慣れない焼香の匂い、彼女の親戚が鼻を啜って涙を溢す音、祭壇の中央に飾られた孤独感で塗れた遺影。そのどれもが僕に何度も吐き気を催した。
その中で一番目を背けたかったのはアリスの顔が映った遺影だった。そこに写る人物は如何にも送られたあの不審なメッセージを書きそうな人間だった。眼鏡を奥深くにかけて誰も信用しないと頑なに拒むような目をし、そんな彼女の姿は僕の記憶の中に点在しているアリスのどの姿とも一致せずあまりにも乖離していた。
僕はその日、アリスの葬式に出席したことを後悔することになる。僕の感情の波がある程度大きく波打って揺れることは覚悟していた。彼女の死を受け入られず、ただ静かに涙を溢すことはあるかもしれないと善意の欠けた僕は思っていた。しかし、想定すらしていなかった事実に裏切られると微塵も思っていなかった僕はアリスと仲直りをした日以上に感情が激しく入り乱れることになる。
――アリスの知らない一面を僕は知ることになるのだ
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